粋狂

 未だ肌寒いような春の終わりは、何故だかどうして眠たくならない。少し湿った夜の空気が、からりとした昼のものより心地良いからかもしれないけれど、こんなことは今までなかったから、本当にそうかどうかは僕にはわからない。
 ざらつく喉に咳をひとつ吐き出すと、静寂に満たされた夜がすこし壊されたような気がして小気味良い。ちょっと前から風邪っぽい喉は頻繁に咳を吐き出して喧しいことこの上ない。土方さんなんかは過保護過ぎるとは思うけど、誰かに心配してもらうのは嫌いじゃない。
 誰も居ない庭先でぼんやりしていたら、こと、と板がひとつ鳴る。こんな小さな足音と不恰好な気配の消し方は、僕が知る中ではひとりしかいないから、音を発した人物は容易に想像できた。首だけ回して振り向けば、きっと娘のように黒髪を垂らした千鶴ちゃんがいるだろう。本当は娘なんだから、娘のように、というのは少し可笑しかったかもしれない。
 きっと咎めるような声色で「沖田さん」と名前を呼んでくるんだろうなぁと期待していたんだけど、声は飛んでこないで、かわりに上掛けが肩に掛かる。僕はちょっと驚いてしまって、後ろをちらりと見てみると、でもやっぱり怒ったように眉根を寄せる千鶴ちゃんがいた。だけど、今日の満月みたいな目はちっとも怒っていなかった。
「風邪、酷くなっちゃいますよ」
「大丈夫だよ、このくらい」
「駄目です。風邪だって、放っておくと怖いんですからね」
「はいはい」
 本当はお部屋に戻って欲しいんですけどね。控えめに言いながらも僕の隣を陣取って膝を抱く千鶴ちゃんは、僕がまだ戻らないだろうと思っているみたい。大当たり、まだ戻ったりなんかしないよ、勿体無いから。千鶴ちゃんがいつの間にこんなに僕のことを理解するようになったのか、さっぱり覚えが無いけれど、最近の千鶴ちゃんは長い付き合いの土方さんや一君より、よっぽど僕の行動を読めるようになってきてる。
 最初はお節介な子だなぁって、はっきり言うと迷惑だったんだけど、大分感化されてしまった今では、このお節介が心地良いくらいに感じる。何か困っていたりする人を絶対に放っておけない性格の千鶴ちゃんだから、きっと年中風邪っぴきみたいな僕を心配してるんだろうけど、まったくもってよくやるよって思う。
 今だって、僕を追ってこんな夜中に起きて来てしまったせいで、寒そうに足先を擦り合わせてる。幼い子供みたいな仕草は見ていて可愛いけど、寒そうな女の子を見て心を痛めないほど、僕は冷酷じゃないみたいだ。
 千鶴ちゃんが肩に掛けてくれた上掛けを広げて、千鶴ちゃんの肩を引き寄せる。大きめの上掛けは僕の左肩と千鶴ちゃんの右肩をすっぽりと覆ってくれた。
 ちょっと驚いたような千鶴ちゃんが、子犬みたいな目で僕を見上げるから、僕は今更だけど「寒くない?」なんて聞いてみた。そうしたら、千鶴ちゃんが莞爾と微笑んで「ありがとうございます」と言うから、僕は妙に照れてしまって、うん、とだけ返した。ちらりと覗き見た千鶴ちゃんは戸惑いながらもちょっと嬉しそうに見えて、自惚れかなぁって思うけど、そんな千鶴ちゃんがどうにも可愛く見えてしまうんだ。
 前ならきっと、上掛けを半分こなんて絶対にしなかった。上掛けを掛けられる前に、君も早く寝なよって言って、さっさと部屋に帰ってたと思う。でも、今はなんだか、そんなことをする気にはとてもなれない。厚意を無碍にすることをこんなに辛いと思うなんて、今までは無かったのに。
 だって、千鶴ちゃんがあんまり粋狂だからいけない。君の押し付けがましい優しさがあんまり真っ直ぐだから、僕は怖くなって、すぐ逃げ出したくなって、でも、君が嫌ってほど追いかけてくるから、僕は君の優しさを好きになってしまったじゃないか。
 僕のせいじゃない、君が悪いんだから。心の中だけで毒づいて、縮こまっている千鶴ちゃんの肩を少しだけ引き寄せてみる。布越しの体温が心地よくて、小さい背を支える腕をぴったりくっつけた。
 千鶴ちゃんは何にも言わないで、ちょっと首を傾げて僕に預ける。頬を掠める甘い髪の香りに、柄にもなく酔ってしまいそうだ。
 足先は相変わらずちょっと寒いくらいなのに、顔と手だけが嫌に熱い。僕は千鶴ちゃんを見るのもなんだか恥ずかしくて、視線だけを廊下の先に投げた。もうどうにでもなってしまえ。僕は視線を逸らしたままに、千鶴ちゃんの頭のてっぺんに頬を預けた。