崇高なる赤

 雪が降った。一面、雲を塗りたくったような白に覆われた屯所の雪かきは日々鍛えているといえども大変で、途中でなんだか妙に本格的なかまくらなんぞ作り出した永倉や藤堂などの幹部連中に苦笑しながらも、ひたすらに雪をかき続ける平隊士たちにほんの少し同情の視線を送りながら、千鶴はせっせと頑張っている隊士にお茶を出していた。一部の幹部連中に声をかけないのは、雪かきを放って遊び呆けていることに対してのささやかな抵抗である。その一部の幹部連中からの「千鶴もやろうぜ!」という誘いの言葉に対して、ことごとく無言の返事しか返さないのも、ささやかな抵抗である。
 土方が「てめぇら、真面目に雪かきしやがれ」と時たま怒鳴っていたが、今のところまったく効力はない。午後になった今ではもう諦めたのか、千鶴の出す少し温めのお茶を疲れたように啜り、平隊士にのみ指示を出している。奥では積み上げられた雪山を崩して、雪合戦が始まったようである。土方の大きなため息が少し離れたところにいる千鶴の耳にも聞こえた。
「ああ、嫌だ。こんなに寒いっていうのに、若い子たちは元気ですこと」
「伊東さんだって、そんなにお歳を召してはいらっしゃらないじゃないですか」
「あら、そう? いいこと言うわね」
 いつの間にやら隣に立っていた伊東は、寒そうに腕をすり合わせた後、機嫌よく笑った。ゆるく弧を描く唇は、常のほんのり紅を差したような色より少し褪せて、青ざめているようにも見えた。寒さが苦手なのかもしれない。
 伊東さんもどうですか、とお茶を差し出すと、伊東は礼を言って受け取り、飲むことなく、両手で包んで暫し湯のみの温かさを楽しんでいた。長い指が湯のみを覆い、寒そうに擦り合わされる様子は少し可愛くも思えた。暫くして白い湯気も少し薄れた茶を啜り、本気で雪玉を投げ合っている連中をちらりと見やって、はぁ、などと大きなため息を吐いた。呆れに少しの楽しみを混ぜたようなそれは、いくらか雪合戦の観戦を楽しんでいるのだろうと思われた。
 重苦しい灰色の曇天を仰いで、伊東は先とは少し色の違ったため息を吐いて、湖のような眼差しをゆっくりと伏せた。長い睫毛の房が縁取る憂いを帯びたそれは、背後に覗く白い景色から浮き出て、ひどく美しい。薄い湯気越しに見えるその片目を、千鶴はじ、と見た。しかし伊東に比べ洞察力に乏しい千鶴に伊東の目から考えの底など到底覗けるはずもなく、視線に気付いた伊東のくす、と鳴る喉の音で千鶴ははっと我に返った。伊東はわざと茶化すように、その目を猫のように細めた。
「なぁに、あなた。もしかして、見惚れてしまっていたのかしら?」
「ち、違いますよ」
「あらそう。残念だわ」
 くすくす、鈴を転がして笑う伊東に、千鶴は、もう、と拗ねたような声をあげた。伊東に調子を狂わされて、先ほど伊東の片目から探ろうとした色など頭から飛んでしまった。伊東はお茶を濁すのが上手だった。
 空になった湯のみを千鶴に手渡し、伊東はちょっと考えに耽りながら、働く千鶴の手を見ていた。せっせと忙しく動く手は、一日の殆どを屯所の部屋で過ごす為か、同じ年頃の町娘より白かった。伊東は気まぐれにその手を取って、真っ白ね、と笑った。手を掴まれた千鶴は目を見開いて、白い方がいいじゃないですか、と微笑んだ。それに、伊東はちょっと驚いたような顔を作ったが、深い双眸をすっと緩めて「白は綺麗?」と口角を上げた。切れ長の目は意味深な曇天が映りこんで、灰色に彩られている。千鶴は自分と同じか、それ以上に白い伊東の手の背を見て、ちょっと考え込むように小首を傾げた。
 白い雪に埋まった世界は、思いのほか騒がしい。千鶴と伊東との間に降りた静寂の帳にも、周囲の掛け声や歓声、はたまた怒号が小さく漏れ聞こえてくる。千鶴、と遊びに誘う声が混じったが、千鶴は聞こえないふりをした。
「そうですね、白は綺麗だと思います」
「どうして?」
「だって、気高い色じゃないですか。何色にも染まらないから」
「そして、何色にも染まってしまう、脆い色だわ」
「はい、だから、白は綺麗です」
 頓知のような問答を楽しむ伊東に、千鶴は誠実に答えた。白は綺麗な色だと言う千鶴の目は真剣な色を帯びて伊東の返答を待っている。伊東はふ、とその目から笑みを消して、口元でだけ笑顔を作った。千鶴の手を離し、また空を仰ぎ見る。整った横顔の、その片目に浮かぶ遠く懐かしむような、悼むような気配の行き先を、千鶴は想定しきれない。重たく伏した眼差しの先が千鶴に向けられるとき、千鶴はやっとその灰色の先を見付けた。
 千鶴は見付けた答えを口にすることはなく、ただじ、と伊東の言葉を待った。やがて開かれた伊東の、その唇から覗く歯の白色を、やはり千鶴は綺麗な色だと思った。しかしその綺麗な色の奥から紡がれるのは決して綺麗なものばかりではないことも、千鶴はよく知っていた。
「ねぇあなた、あなたは、一番気高い色は白だと思うのかしら?」
 伊東の口から降る言葉は千鶴の予想していた、毒を含んだものとは違い、千鶴への労わりすら内包したような優しげな調子だった。千鶴はそれに少々驚き、どんな言葉が返ってくるかと身構えていた肩の力を少し抜いた。
 常ならば、笑んでいるようできりりと張っている伊東の目元や口元が、やわらかくゆるんでいる。試しているのか、純粋な問いであるのか、伊東の黒々とした瞳からはなにも見えない。
 千鶴は出来るだけ誠実な答えを返そうと、おおきな可愛い眼をいくつか瞬かせ、伊東のすっと通った形の良い鼻を見ながら、そう思っています。と言った。ひとつの波紋すら落とさない静謐な声に、伊東は満足げに頷き、そう言うと思ったわ。なんてしたり顔で笑った。それがなんだか伊東の手のひらで転がされているような心地がした千鶴は、むっと頬を膨らませて、どういう意味ですか、と柳眉を吊り上げた。
「悪い意味じゃないわ。だって、そう答えて欲しかったんですもの」
「なんでですか?」
「ふふ、あなたって質問ばかりね。そういう子は嫌いじゃないから、いいですけど」
 ほんのりと赤い指先を顎にあて、くすりと白い喉を鳴らす伊東は、それだけ見れば幾多の人間を斬り、欺き陥れてきたとは思えないほどに美しい。白く世界を覆う雪を背景にしたそれは、異国の肖像画にもどこか似ていた。
「だってね、あなたはきっと、気高くはないけれど、白いから」
「え?」
「一番気高い色は、白じゃあないのよ。一番綺麗な色は、白でしょうけど。一番気高い色は、赤なのよ」
「赤、ですか」
「そう、赤」
 言って、伊東はどこか懐かしむような目で、薄暗い空を見上げた。千鶴も、それを目で追う。空には灰色の雲が浮かぶのみで、なにも特別なものなんてなかった。
 伊東はそのなにも特別ではない空から視線を逸らさぬままに、薄く目を細めた。切れ長の目は伏してもその形の美しさを一端も損なわせず、むしろ憂いを秘めたようなその表情が、彼の歌舞伎の二枚目にも勝るだろうつくりの良い顔立ちに普段にはない魅力を重ねていた。この曇天のような憂いが伊東の黒い眼に映りこみ、千鶴は広い空ではなく、伊東の黒い珠に閉じ込められた小さな灰色を見た。
「人間ってね、はじめはみんな白いのよ。だから、白は美しいけれど、気高い色ではないの。その白を真っ赤に染めて、幾度でも血を被って、血を流して、それでも自分の志したものを守り果たそうとする者こそが、本当に気高いのよ」
「伊東さん、それって」
「あら、残念ね、雪合戦は終ってしまったのかしら。勝敗を少し楽しみにしていたんですけれどね」
 伊東はそれだけ言うと、しーっと、子供に内緒話でもしたように、形の整った爪先を唇にあてた。ゆるやかな弧を描く唇とは対照的に、彼らしくない、ちょっと下がったような眉尻が、彼に対する追悼の情を示しているようで、事実を知る千鶴は胸がすこし痛くなった。
 その千鶴の表情の変化に気付いているだろうに、伊東はあえて触れず、私は寒いからもどろうかしらんなんて千鶴を罪悪感の中に置いてきぼりにしたまま踵を返す。
 その背中に「伊東さんは山南さんを好きだったんですか」とは聞けずに、ただ彼が寄せている同門に対しての情の厚さだけを知ってしまった千鶴は、寒いように襟をかき寄せるだけだった。