ぼくのかみさま

 この世に神という存在がないことなどは幼い頃にとっくに気付いていたが、もしも世間一般で言う神と同等な存在があるとするならば、それは冷酷無慈悲なほど平等で見守ることしかしない完璧主義者の役立たずではなく、もっと利己的で、明らかに不平等で、欠陥だらけで完璧には程遠くて、しかし温かい指先を持ったものだと思うのだ。けれどこれはあくまで個人の意見であって、別の一人は神はいるのだと言うだろうし、もう一人は神に等しいものなどないと言うだろう。僕はそれでも一向に構わないが。
 でも、世界を創ったのが神だというのは、少しだけなら信じてもいい。確かに世界は神が創るのだろう。他がどうだかなどは知らないし毛ほどの興味もないが、僕の世界も、確かに神に等しいものに創られたと思うから。
 ラティウムに雨が降るのは珍しい。雨といっても豪雨や嵐にはならない。細い水滴が糸を垂らすように曇天から落ちてくる様は嫌いではないが、移動中に降られると濡れてしまうから、それだけが少し鬱陶しい。久々の雨に何故か無駄に舞い上がる生徒たちも、煩くて嫌だ。
 晴天が当たり前だから、ミルス・クレアの生徒は基本的に傘を持たない。だから稀な雨の日は、マントを被って走ったり、風の魔法で周囲の雨を飛ばしたり、それぞれが工夫してやり過ごす。誰も傘を買おうと思わないのは、年に三回降るか降らないかの雨のために買うのが癪なのだろう。僕もそうだ。
 さぁどうして寮まで帰ろうかと考えていると、軽く二度、肩を叩かれた。予想するまでもなく、僕に進んで声を掛ける人間なんて、大体一人しかいない。振り向けば予想通りに、飴色の大きな目がゆるく細められていた。ルル、と名前を呼べば、まるでそれが幸せだとでも言うように、やけに嬉しそうに笑う。
「エスト、雨よ、雨! どうしよう、どうやって帰ろうかな?」
「なんでそんなに嬉しそうなんですか、あなたは」
「だってエストと一緒に帰れるもの」
 えへへ、なんて鈴を転がすルルに、咄嗟に返す言葉が見つからなくて、僕は暫しぼんやりとルルの目の当たりを見ていた。髪と同色の睫毛が甘い飴色の目を豊かに縁取り、マッチ一本くらいなら乗りそうだと思った。
 雨は関係ないじゃないかとか、まだ一緒に帰るだなんて言ってないとか、そもそも話が違うじゃないか、とか。言いたいことだけは頭の中をいくつも流れていったけど、言いたいことが多すぎて、結局、僕の口から出たのはため息がひとつだった。
 手を伸ばし、雨水を指に伝わせてはしゃぐ。そのたびにくるくるした髪がふわりと揺れて、仔犬の尾みたいだ。楽しげに揺れるそれは、雨のリズムに合わせているようにすら思える。
 色を乗せていない、桜色の爪先に水滴が丸く立ち、ふらふらと身を揺らしたのち、堪えきれずに落っこちた。ぱたぱたと幾千の水が地を打つ音に紛れて、一粒の水が落ちた音なんて鼓膜を掠りもしなかった。
 きゃあきゃあと雨と戯れていたルルがこちらを見て、ねぇどうやって帰ろうかなどと言う。甘い色をした目に濡れずに帰る方法を模索する色なんて欠片も浮かんでいなくて、ただ会話の糸口にと言っただけなのがすぐ分かった。
「魔法を使うか、走って帰るか、どっちかですね」
「エストはどっちがいい?」
「僕はいつも魔法を使います。走るのは億劫ですから」
「ふふ、エストはきっとそうね。じゃあ、今日は走って帰りましょ!」
「ルル、ひとの話を聞いていましたか?」
「うんうん!」
「……本当に?」
「もちろん!」
 本当に聞いていたのなら、普通は走って帰るとは言わないだろう。そう言いたかった僕の手を掴んで、ルルは有無を言わさず雨の中に飛び出した。きゃあと楽しげな高い声が雨の隙間を縫って僕まで届く。
 ルルの肌に、髪に雨が跳ねるのが見えて、それから少ししてから冷たいと思った。雨が冷たくて、捕まえられた手の温かさが妙に際立つ。少し湿った手に包まれて、手袋越しの僕の手まで熱を帯びたようだった。
 目の前に翻るルルの黒いマントが降り続く水滴を少し弾き、少し吸い込んだ。走る足を追い、マントと髪が揺れる。僕は魔道書が濡れてしまわないようにマントの端を掴みながら、ルルの後ろを走る。
 暫く走ると空はゆっくりと明るくなって、雨も大分弱くなったけれど、ルルも僕も髪から幾つかの水滴が滴る程度には濡れていた。どちらともなく立ち止まり、空を見上げれば、雨はもう止んでいた。隣に立つルルの白い頬を、睫毛を、鼻の頭を、透明色の水滴が飾る。薄い陽光を受けて、鈍く光る水滴が涙のようだ。
「雨、止んじゃったね」
「僕は心底良かったと思いますが。大体、あなたは何を考えているんですか」
「楽しくなかった?」
「下手をしたら風邪をひきます。僕も、あなたも」
「そっか、そうかも。ごめんね、エスト。考えなしに走って」
「反省しているなら、もういいです。どうせ、ラティウムで初めての雨で浮かれていたんでしょう?」
 うんうんと笑顔で頷くルルに、僕は怒る気も失せてしまう。いや、もしかしたら始めから、怒る気なんて無かったのかもしれないけれど。だって雨の中を走る感覚は、思ったより悪くはなかったから。
 雨でひんやりした空気も、その中で唯一、確かに温かいルルの手も、湿った空気に乗る髪の匂いも、馬鹿らしいことだとは分かっているけれど、まるで雨が他の世界を遮断したようで、好ましいと思ってしまった。僕一人だけの空間は何よりも好ましいけれど、ルルと二人のままに切り取られた雨の世界は、それとは別にひどく心地よいと思った。指先だけが繋がった、小さな僕の世界が。
 薄明かるい空を仰いで、ルルはじめじめした空気と反比例するようにからと笑い、その場でダンスをするように、両手を広げてくるりとこちらを向いた。風のような仕草に髪についた水滴が散って、きらきら輝いてルルを飾る。ルルはこういう、ささやかで、けれど華やかな光が似合うと思った。そしてより輝かしい笑顔を僕に向けて、水のように涼やかな声で僕の名前を呼ぶ。
「ねぇ、私、なんだかすごく楽しかった。ちょっと寒かったんだけど、エストの手が温かくてね。それだけしかなくて、だけどそれが、なんだか嬉しかった」
 逆光が眩しくて、目を細くしてルルを見る。走ったからだろう、頬が僅かに赤くなっている。灰色の隙間から頭を出した太陽に照らされて、ルルの薄紅色の髪が眩しさを増す。
 僕の世界は、とても平淡だった。一瞬も永遠も変わりがなく、何もかもが一定で、不変だった。その世界を、ルルはいつでも変えていってしまう。僕の世界は広がることも狭まることもないけれど、確かに、変わっていく。ルルの魔力で、いつでも、どこまでも。その共有した指先ほどの世界を無邪気に喜ぶのだから、それでまた、僕の世界は変わっていく。
「馬鹿ですね、それで風邪でもひいたら、どうするんですか」
「えへへ、看病してくれる?」
「しませんよ」
「えー! エストのケチ」
「ケチで結構です」
 手を伸ばして、ルルの濡れた前髪を梳く。黒い手袋に水が染みて、指先が少しだけ冷えた。それにまた小さく笑って、ルルはまた僕の手を捕まえた。手袋の存在が、今日ほど疎ましく思えたことはないかもしれない。けれど、きっとこのままがいいのだろう。素のままでルルに触れる勇気は、僕にはないから。
 僕の指を捕まえたルルが、虹が出ればいいと笑って僕の手を引く。雨音の代わりに、水をたっぷり吸った草を踏む音が、僕の鼓膜と二人の隙間を埋めていく。
 あなたに会うために今まで生きてきたとか、そんなことを思えるほど傲慢にはなれない。けれどあなたに会って僕の世界は変わったのだと、僕は思いたい。思い込みでも構わないから、僕の世界を創り替えたのはルルなのだと、信じていたい。誰かがそれを否定したとして、それでも僕は一向に構わない。
「ルル」
「ん、なぁに?」
「次に雨が降るときは、せめてマントを被って走りましょう」
「うん!」
 薄い薔薇色の髪が揺れ、お菓子の匂いが染み付いてしまったかのような、甘い香りが僕の鼻腔を満たす。その香りも、光を形にしたような笑みも、軽やかな声も、全てが僕の世界を変えていく。瞬間ごとに、永遠のように。
 手袋越しに触れ合った小さな世界が、いつでも僕を変えていく。僕の世界を創るのは、いつだってただ一人。大切な、僕の光のそれだけだ。