ナミダドロップ

 何故、好きと言わないのか。そう問われて、咄嗟に言葉が出なくて、そっと視線を逸らした俺に、天羽はいつになく苛々とした様子で、ひとつ足を踏み出した。だん、と学校指定の上履きの踵が鳴り、怒りを滲ませるそれを無理矢理和らげたいように吐き出した呆れたため息が、白く大気に溶けるのが視界の端を掠めた。
 怒りを露にした彼女の気迫に押された、というわけではない。ただ、彼女の言葉があまりに的確に急所を切り裂くものだから、俺は返す言葉を捜す前に殺されてしまったのだ。
「あんたが日野ちゃんを大事にしてるのは、分かるよ。でもさ、たまには言葉にしてもいいんじゃない。日野ちゃんだって女の子なんだよ?」
「それは、分かっている」
「じゃあ、なんでよ」
「君に話す筋合いはない」
 ちょっと、と呼び止める声を振り切り、荷物を引っ付かんで、早足で練習室から飛び出す。鞄から携帯を出して、香穂子に「今日は先に帰る」とメールをして、逃げるように校門を出た。香穂子には申し訳ないと思うが、今は香穂子の顔をまともに見られる気がしなかった。
 情けないとは分かっていても、こればかりは仕方がない。香穂子の思いも知っている。香穂子も、俺の思いを知っている。でも、だからこそ、最後のボーダーラインとして、これだけは口に出してはいけない気がしている。きっと、離れがたくなってしまう。
 疎らな人混みをすり抜け、駆け出したいような心地で道を急ぐと、正面から吹く冷たい風が眼球をじりじりと突き刺して痛い。涙が滲む目尻を擦れば指先が水で濡れて、吹く風がそれを冷やして指先までじりじり痛んだ。
 不意に、なんでこんなに急いでるんだ、と馬鹿らしくなって足を止めた。児童公園が見えたが、日が沈んだ公園は閑散として、気紛れに足を踏み入れれば、敷かれた粒の粗い砂が、じり、と乾いた音をたてた。葉が落ちた木々が見守る公園は懐かしく、想像するまでもなく瞼に映る香穂子の顔に、不意に涙が出そうになった。風は眼球を刺してはいないのに、目尻に涙が浮かんだ。
 涙の存在を無かったことにしたくて、空を仰ぎ見れば冷えた曇天がのし掛かってくる。本人には言えない言葉を、小さく曇天に託してみる。届けてくれなくても、構わない。
「本当に、君が、君だけが好きなんだ、香穂子。君の音が、君のことが、とても」
 遠くない将来に香穂子の前から姿を消す俺が、どの口でこの言葉を言えるだろうか。約束もせずにまた会えるなんて、そんな魔法はないから、だから俺は香穂子を好きだとは言わない。空港で送ってくれるだろう、香穂子の可愛い目が涙色に染まってしまうとき、俺が綺麗に笑って別れられるように、そして香穂子が、俺を忘れても罪悪感を覚えずにいられるように、きっと言わない。
 もしも言葉にして、互いの思いを確認しあって、それでも互いの夢を優先させたとして、数年もすればきっとそれは美しい思い出になってくれるのだろうが、悲しみが思い出に昇華するまでのその長い間を、俺はまともに生きられる気がしない。未来を強く見据えることが出来る香穂子なら、きっと上手にそれができるのだろうが、弱い俺はできる気がしないんだ。
 上を向いていたのに、冷たい水は頬を滑って落ちた。涙に悲しみも戸惑いも全て溶かせるなら、話してしまえるのだろうか。いや、話さなくていいんだ。これは俺の為に、香穂子の為にと理由を後付けした、単なる我が儘なんだから。
 ああ、でもそうだ。今は無性に香穂子の音が聴きたい。自分で奏でるのではなく、香穂子が奏でる柔らかな音色に浸って、じ、と瞼を閉じていたい。今、自分が弓を取ったとして、きっと荒々しい音しか出せないだろう。だから、真綿のように包み込む香穂子の音に埋もれてしまいたい。曲はなにがいいか、そうだ、「愛のあいさつ」がいいな。「感傷的なワルツ」も悪くない。ああでも、香穂子との思い出の曲なら、何でもいいのかもしれない。
 我が儘だけど、自分勝手だけど、好きだと、愛していると言えないけど、今、とても香穂子に会いたい。
「今、君の音が聴きたい」
 曇天は黙したまま、吹き行く風に流されることもなく佇んでいる。俺の言葉は、届けてくれなくても構わない。