黄昏よりなお

 焦げ、今にも剥がれ落ちそうな鱗の隙間を縫って、無骨とそれ以上の表現が見つからないような美しくない手が、ドラゴンの艶やかな真紅の鱗を撫でる。その突然の感覚に身じろぎをして、雷鳴のように喉を鳴らした。ゆっくりと首を擡げるドラゴンにカイムは常の感情の浮かばない目のままに月のような金色のドラゴンの目を見返し、またすぐに傷も生々しいその翼の付け根へと向けた。
 ドラゴンは僅かに首を傾げ、カイム、と目の前の小さな契約者の名を呼んだ。なんだ、と返ってくる無感動な声とは裏腹に、その手のひらはドラゴンの鱗から離れようとしない。首から翼へ、傷口に触れぬように、ゆっくりと往復する手を見ながら、やがてドラゴンは諦めたように息を吐いた。暫くは矮小な人間ごときが高潔なドラゴンの鱗をしきりに撫でるというなんとも奇妙な光景をじっと見ていたが、返事のない相手をただ見ていることにも飽き、ドラゴンはその首をゆるゆると地に預けた。首を持ち上げることも少々辛かったのだろうか、安堵するように僅か息を吐き、瞼を下ろした。
 それに気付いたカイムは手を止め、ドラゴンの顔をちらりと盗み見た。安らかに、とは程遠い痛ましい有様だが、カイムからは眠っているようにも見えた。眠れれば、いくらかでも体力は温存できる。カイムはドラゴンの傷の深さを突きつけられたようで久方ぶりに居た堪れないような気分になったが、けれど青い目を逸らすことはなかった。
『眠ったのか?』
「起きておるぞ」
『なんだ』
「我に眠って欲しかったのか?」
『……そうかもしれない』
「なんだ、その曖昧な答えは」
 ちょっと可笑しそうなドラゴンの声色に、カイムはそれきり黙った。
 ドラゴンの傷は確かにカイムを庇って出来たものだ。本来ならば、ブラックドラゴンのブレスで命を落としていただろうカイムを庇い、高貴な真紅の龍の翼は無残にも炎に焼かれた。そのことを多少なりとも思うところがあるのだろう、このところのカイムはらしくもなくドラゴンのことを気に掛ける。
 しかしドラゴンにしてみれば、カイムを庇ったのはあくまで自分の命のためであって、そこに本来の意味でカイムを身を案じる感情はなかった。それはもちろん、カイムも重々承知の上である。カイムとてブラックドラゴンに向かった理由はただ復讐の二文字であるし、そこにレッドドラゴンの命を気に掛ける余裕など存在しなかった。一言で言ってしまえば、限りなく軽率だった。互いが互いの利のために動き、結果、ドラゴンは傷を負い、カイムはフリアエを奪われた。それだけのことである。それでもカイムはドラゴンの首のあたりを撫でる。それはカイムなりの謝罪にも、労わりにも見えた。
 元来口数が少ない方ではあるが、ぱったりと黙ってしまったカイムに、ドラゴンは喉を鳴らして笑った。ふふ、とこみ上げる可笑しさを殺したようなその声は、嘲笑のようにも、失笑のようにも聞こえた。
 カイムは顔を上げて、ドラゴンの頭を見る。雄々しい一対の角を飾り、炎より尚赤い鱗に覆われたドラゴンが、生物の頂点に君臨するに相応しい気高い光を灯す目をカイムに向けていた。それは竜種にとっては人間から見た鼠程度の存在である人間を見る目としては不釣合いな色をしていた。
「カイムよ、思い上がるのも程ほどにしておけ。我は我のためにお主を守ったまでよ。お主に死なれては我が困る、それだけだった」
『知っている。俺も、お前に死なれると困るだけだ』
「だからといって、四六時中、我の傍に張り付いていなくてもよかろう。それに、傷は深くはないぞ。あれしきの炎で我が翼を奪えるものか」
『知っている』
「ならば何故?」
 ドラゴンは小首を傾げてカイムに問う。カイムはその金色の目を見上げて、一度だけ思案するように目を逸らしたが、またドラゴンに深海の色をした双眸を向けた。真っ直ぐで逸らすということを知らない双眸は、あのときドラゴンをどうしようもなく惹きつけた生きる意志に変わらず満ちている。けれどその中に、たった一滴程度の別のものが浮かんでいるようにも思えたが、それはドラゴンの錯覚かもしれなかった。
 カイムはドラゴンの目を見据えたまま、他には決して聞こえない声でただ一言『わからん』と言った。肩透かしをくらったドラゴンは「は?」とさらに首を傾げたが、困惑するドラゴンの反してカイムは常と変わらぬ無表情で、確認するようにもう一度『わからん』と言った。もはや思案することも諦めたカイムはまたドラゴンの真紅の鱗を慎重に傷を避けながら撫で始める。自分でもわからないと言った感情の行く末がそこにあるとでも言いたいように、ただ撫でた。
 ドラゴンが解消しない疑問に頭を回していたが、それを気に掛けるでもなく鱗を撫でる。しかしやがてそれも飽いたのか、ドラゴンの翼の下にごろりと寝転がって。僅かに日に透ける飛膜を見上げて、ひとつ欠伸を落とした。背を預けたドラゴンの腹は快適とは言いがたいが、己の背から伝わるドラゴンの呼吸の音に妙に安堵した。
 その様子にやれやれと三度目の息を吐き、ドラゴンはまた大きな頭を地に預けた。首を曲げて己を包むように丸くなれば、契約者の姿は翼と尾とですっぽりドラゴンに包まれた。
 黄昏のような翼の赤を見上げて、カイムは眩しいように目を細くした。傷ついた翼の飛膜を見上げて、触れたいように手を伸ばし、引っ込めた。その代わりとでも言うように丸くなって近づいたドラゴンの首に触れて、何かを言おうと言葉を探した。すまない、ではおかしい。間違ったことをしたとは思っていないのだから。ありがとう、も合わない。ドラゴンは特にカイムを気遣ったわけではないのだから。ならばなんと言おうかと考えている内に、カイムの瞼は落ちていく。茫洋とした意識の中でまだ思考にしがみ付いていると、寝惚け頭にひとつ天啓のように言葉が落ちてくる。
『……俺に断りなく、死ぬな』
 それにドラゴンは思わず目を開けて、しかしまた閉じて、今度は確かに呆れの息を漏らした。
「どこまで傲慢なのだ、お主は」
『知らなかったか?』
「……もはや何も言うまい。早く眠ってしまえ」
『お前も眠るか?』
「お主が眠るなら、我も暫し眠るとしよう」
『ならば、寝る』
 言い終えて、力尽きるようにまどろみに落ちるカイムに少し笑い、ドラゴンもまたそれに倣うように薄い眠りの中に意識を落とした。