他愛なき

 透明感のある美しい黄昏色の鱗が、乾いた黒に覆われる。カイムは濡れた布切れを持って、いやに真剣な目でそれをごしごしと力いっぱい擦っていた。返り血で汚れたドラゴンの額のあたりを亡国の王子が必死な形相で拭っているというのは、どこか滑稽な光景だった。篝火の薄く届くキャンプの端で、鱗の赤と同化しそうな、しかし鉄臭い別の赤を探して、カイムは目を凝らし、時には鼻を利かせる。
 ドラゴンの身体に傷はなく、それは感覚を共有するカイムも知っている。しかし今回の敵は無駄に数ばかりが多く、結果、ドラゴンも血糊を被る羽目になってしまったのだ。しかしそんなことは日常茶飯事で、特に珍しいことでもなかった。そしてカイムがドラゴンに付いた血を拭ってやるのも、最近では同じく当たり前のことになっていた。
 戦が終れば、カイムはドラゴンと同じく血と埃まみれの自身は放ったらかしに、大きなドラゴンの身体から血を拭き取る。頭からずうっと尾の先まで、爪や角の細部に至るまで、一滴の血の痕跡も残さず拭き取る。まるで匂いすらも残さないとでもいうように、丁寧に丁寧に拭っていく。
 カイムが拭いやすいようにと少し頭を下げてやっているドラゴンは、退屈そうに長い尾をゆらゆらと揺らす。わざわざこのようなことをしなくても、とこっそりため息を吐いたが、カイムにはお見通しだったようで、退屈か、と“声”で問われた。ちらりと見たカイムの目は戦後だというのに疲れの欠片も見当たらなく、むしろ楽しげに輝いていたので、ドラゴンはそれにまたため息を吐いた。自分の身体を拭うのがなんでそんなに楽しいのか、さっぱり理解出来なかった。こんなことをしている時間があるのなら、次に備えて休息を取った方がずっと身のためなのではないかとも思った。
「血など拭わずとも、風と土でそのうち飛ぶだろうに」
『俺が嫌なのだ。それに、武器の手入れは基本だぞ』
「お主に言わせれば、我も武器か」
『ああ。何よりも強力で、誰よりも信頼の置ける、最高の武器だな』
 に、と口角を持ち上げるカイムに、ドラゴンはふんと鼻から息を噴き出した。ちょっと視線を逸らして、呟くように言う。
「嬉しくないわ」
『そうか』
 素っ気無い返事であったのに、カイムは気に掛ける様子もなく、むしろ笑みを深めた。契約の代償が声でなかったのならば今すぐにでもころころと喉を転がしだしそうなカイムに、ドラゴンは無言と琥珀色の視線を返した。縦に長い瞳孔は荘厳で美しく、カイムとは色から形から、そこに宿る色まで何もかも異なる。しかし、その奥の奥に眠る何かは、同じでなくとも、とても似ている気がした。
 明けの群青と暮れの黄金が、一時交わる。先に外したのは、どこか持て余したような黄金色だった。それに群青色を細くして、カイムはまたドラゴンの猛る炎の中心の色をした鱗を磨く。汚らしいくすんだ赤銅色から、澄んだ空の黄昏へ、カイムの手によって返っていく。
 ふぅ、とひとつ息と共に手を止めると、カイムは元の美しい赤を取り戻したドラゴンの額を撫で、血の拭われた角を見た。花弁を大きく広げた百合のようにも見えるドラゴンの硬質な角を見上げて、それから色の移り変わる首のあたりを見て、満足そうに頷く。ひとつ肩をほぐすように両手を天に伸ばして、翼の根元を撫でた。背から翼の付け根のあたりは血を被ってはいないものの、埃にまみれて赤がくすんでいた。カイムは布切れを折り直すと、頭から首よりも大量の血を引っ被った飛膜を見て、腕がなる、とでも言うように口元で笑んだ。
『次は翼だな』
「お主も存外、凝り性であるな」
『そうでもない。これに関してだけだ』
「ほう?」
『お前の赤は綺麗だ。帝国のダニ共の血で汚されるのは、俺が勘弁ならん』
「ふん、良く言うわ。己が乗ったとき、その帝国のダニ共の血で生臭いのが嫌なだけであろうに」
『それもあるな』
 言いながら、カイムはもう背から埃を拭き始めている。ドラゴンはカイムが作業し易いようにと、今度は翼と肩とを下げてやる。布が通り過ぎたところから、艶やかな赤が戻る。
 機嫌が良さそうなカイムをちらりと見て、ドラゴンはやれやれと大きな顎を地に預けた。カイムがそんなに楽しいのなら、好きにさせてやってもいいだろうと思った。決してカイムには言わないが、ドラゴンとて汚れた体を綺麗に拭ってもらうことはそれなりに嬉しいものだった。
 ドラゴンの逞しい尾が、ゆらゆらと揺れる。戦場では敵を薙ぎ倒す武器にもなる尾が、今のカイムから見れば恋人の隣を歩き、うきうきと揺れる女の長い髪と同等だ。機嫌が良いのを隠したいように素っ気無いドラゴンの目とは反対に、ゆっくりと左右に振られる尾はどこか嬉しげだ。
 カイムはこみ上げる笑みを隠して、生きとし生ける者の王たるドラゴンの翼を拭いていく。それは王女の手を取る騎士のように恭しく、乞食が靴を磨くように丁寧で、女の髪を梳くように優しげだった。
 赤く赤く、ドラゴンの翼は深さを取り戻していく。明日の朝に空を駆けるそのときは、陽光を目一杯に受けた真紅が薄青に映えて、この世の終わりのように美しいものになるだろう。カイムは腹の中から仄かに温まるような心地がして、手を止めてドラゴンの頭の方を見た。
『おい』
「なんだ」
『明日の朝は、出発の前に少し飛ぼう』
「まあよいが、なんのために?」
『飛びたくなったのだ。明日の朝に、お前と』
「……言っておいて、寝坊したら承知せんぞ」
『肝に銘じておく』
 やれやれ、と息を吐いて、ドラゴンは呆れた声で「お主の気まぐれには付き合ってられぬ」と言う。それに、結局付き合ってくれるくせに、と思いながら、口先のわりに未だゆらゆらと揺れる尾を見て、カイムは少し笑った。