時雨に隠れ

 遠い世界は目まぐるしく色を変えていく、華やかな世界だった。それは白龍が半身と共に守護する京とは似ても似つかぬきらびやかさで星を落とすように輝いていたが、京が持つ、時雨にしっとりと濡れ、光る露を飾った花弁のような、淡色の艶やかさは持たなかった。
 八葉は物珍しいように様々なものに手を伸ばすが、白龍は別段に惹かれるものもなく、ただ、ここが我が神子の生まれ育った世界なのかと空を見上げるのみだった。ぐずぐずと灰色に凪ぐ空は今にも泣き出しそうで、有川家の庭の草木も喜ぶだろうと手近にあった金木犀の葉を撫でた。鱗でなく皮に包まれた指先から、じわりと水が染み入るようだった。
「白龍、何してるの?」
「神子」
 不意に肩に置かれた手に、白龍は目を見開いて振り返った。望美の気に気付かない程にぼんやりしていた自身に驚いたのだ。ここは望美の生まれ育った土地であるから、気が馴染んで白龍には察しにくくなっているせいもあるかもしれない。
 白龍は肩に置かれた小さな手を包むと、空が泣きそうだと思って、と微笑んだ。望美の手から伝わる熱に、今暫くは人の姿でとつい思ってしまう。人の子を模したのは、龍の姿を取り戻す為のたまゆらの形であるのに、長く人の姿にと願うのは至極滑稽なことだった。白龍自身、それを良く自覚していた。
 本当だ、と空を仰ぐ望美の顔に、長めに揃えられた前髪が掛かる。梅雨に佇む菖蒲の色に、水を孕んだ空気が艶を重ねる。天の朱雀であるヒノエや、地の朱雀弁慶が時折口にする“天女”という言葉は、あながち外れていない心地すらした。人が夢想するような美しい女は天に住まないが、空気に溶けてしまいそうな望美は天から生まれ出でた娘のようだった。
 白龍にとっては、天女という言葉も間違いではないのかもしれない。遠いこの世界が例えば天だとするならば、望美はまさに天の娘。白龍が司る陽の気では、留め置くなど願うことすら出来ない。
 はた、と地に一滴が落ち、後は続く雫がただ有川家の庭を濡らしていく。金木犀の葉も水滴の玉を纏い、我も我もと着飾っていく。
 降りだしたね、と白龍の背に身を預けたまま、ぐっと手を伸ばす望美の指先に、ぱたりと雨水が落ちて伝う。中指を伝い、手首まで流れ、衣の袖に吸い込まれて消えた。袖口についた跡は涙を拭ったそれに似て、白龍は伸ばされた望美の手の傘になるように自身のそれを重ねた。
 なぁに、と瞳を転がす望美に、白龍は濡れてしまうよと薄く膜の張る目を僅かに揺らした。真っ直ぐな琥珀色の目はいつでも望美を捉え、逸らされることはない。望美は仄かに頬を赤くして、ありがとうと笑った。
 誇れる姿ではないと白龍自身分かっている。元は天を駆ける双頭の龍である身が、半身を失い、力を失い、人に身を重ねればならない程に弱ってしまった、その結果が今の姿である。けれど今の姿に望美が頬を染めるから、白龍は人の姿を失うそのときを僅か恐れた。前の龍ならば抱かなかった感情だろうと思いながら、それを深く知ることに躊躇いはなかった。
 地を突く雨粒は数を増し、水の林のように望美と白龍とを空気から切り離す。水の中を泳ぐような感覚に、背に触れる望美の手の温かさがより深く染みた。
 望美は白龍の背から離れ視線を合わせると、得たばかりの知識を弟に教えたがる幼い姉のような顔をして、ねぇ知ってる、と小首を傾げた。なにが、と同じ向きに首を傾げた白龍にくすくすと笑って、望美は再度、雨の林に手を伸ばす。
「この世界ではね、雨が降るのは、神様が泣いてるからだって言うのよ」
「神様が?」
「そう。ねぇ、あっちも、白龍が泣いたら雨が降るのかしら」
 おとぎ話のようだけど、と微笑む望美の手のひらを、幾粒もの水が打ち、伝う。滴る雨は白い望美の肌に玉を作り、鈍く明滅して滑る。
 光の色をした白龍の双眸に、雨と戯れる望美の姿が映る。さらりと晴れた夕空色の髪が流れる様を、龍の目がじ、と見ていた。
「私は泣いたことがないから、分からないな。でも雨は降っていたから、私が泣かなくても、雨は降るよ」
「ふふ、そうだったね」
「前の龍も、泣いたことはなかったな」
「そうなの?」
「うん」
 望美はふと笑みを消すと、濡れた手を下ろした。どうしたのだろうかと白龍の目に戸惑いが指したころ、望美は転がっていた将臣の大きなサンダルを爪先に引っかけて庭先に駆け出た。軽やかな足取りは踊るようで、神子、と焦りを含んだ白龍の声に、くるりとスカートを翻す姿は雨乞いの舞かと思ってしまうほど麗しい。
 望美を追って庭に出た白龍の頬に、冷たい雨を受ける望美の指先が触れる。風邪をひいてしまうと眉尻を下げる白龍に少しなら平気よと笑う。雨粒が幾つもの筋になって、白龍の紛い物の人肌を濡らしていく。望美は手を離すと、ねぇ、と寂しさを一匙孕んだ目を揺らした。
「泣いてるみたい」
「え?」
「白龍、泣いてるみたい。雨が、涙みたいに見えて」
 白龍の頬を塗らす雨がまるで涙のようだと、望美は水を吸った長い髪をかきあげて言った。ばさ、と雨の重みで沈む髪が、雨を弾いて四方に散らす。濡れた手を天に差し出して、泣いてるね、と空を仰ぐ望美に、白龍はそうだね、とだけ言った。
 空はほろほろと止めどなく涙を降らし、望美の瞳の水を深くする。白龍の頬を滑る水滴は辺りの色を吸い込み、灰に緑に白にと肌の上でくるくると色を変え、透明になって地に落ちる。泣いているみたいだ、と白龍は望美の髪を一房掬った。
「神子、戻ろう。雨は冷たいから、身を冷やしてしまうよ」
「うん、でもね、もう少しだけ、待って」
「神子」
 雨に打たれる望美は先ほど白龍に言った言葉がそのまま跳ね返ったように、雨の涙を流していた。氷のように冷たい雨粒は氷にもなれず雪にもなれず、ただ地に飲み込まれていくのみだ。
 神様が泣いているわと眦から雨とも涙ともつかぬ水を溢れさせ、望美は灰色の天を見上げた。
 天へと続く月の道は今は曇天に隠れて、白龍は思わずそのまま朽ちてくれまいかと願ってしまう。この美しい乙女が天へと帰ってしまわぬように、雨水よ羽衣を濡らし翼を切り落としてくれと。
「ねぇ、白龍、あっちも、今は雨かしら」
「……そうだね、きっと、雨が降っているよ」
 今は、遠い京は晴れているのかもしれない。しかし望美が雨を願ったから、もう降りだす頃かもしれない。世界から切り離された片翼の龍には仄かに水の気配を感じることすらできない。
 しかし龍の姿を取り戻したその日には、きっと遠い天も泣くだろうと、白龍は確信にも似た思いを抱いた。涙を流すという行為が意味のあることだとは思えど、白龍にとっては必要のないもののはずであり、今までも、今までの龍もそうだった。しかし白龍は、祈るような心地で、雨が降るだろう、降っておくれと思うのだ。
(神子と離れるそのとき、私は泣くだろうか)
 どうか泣いておくれ、仮初の身体よ。私の悲哀が涙となって神子に伝わるように。遠くは無い未来の自分に、共に在るという選択のない未来に、ただ一粒の涙を願い、白龍は望美の冷めた袖を引いた。
 そうだね、戻ろうか。そう言って可愛い目を転がして笑う望美に微笑みを返して、白龍はちらりと曇天を見上げた。雲は厚く空を隠すが、来る別れの日まで、留まってくれる気はないようだった。