自滅

 血の通った肌の色をした美しい指が、銀色のスプーンで食事を口に運ぶ。その様がなんとなく不可思議で、きちんと食べているかの確認の意味も含め、食事の様子をじっと観察するのが日課のようになっていた。
 そうして、彼女の食事が済む少し前に、ウルキオラは部下を呼んでおくのだ。食事が丁度終わるころに、すぐ食器を片付けることが出来るように。そして、食後の紅茶をすぐ提供できるように。細やかな気遣いはまるで中世の姫と従者の様相だが、それは見てくれだけで、中身は決して信頼とか忠誠とか、そういったものとはかけ離れた関係である。強いて言うなら、テロリストと捕虜の関係、だろうか。
 織姫はウルキオラによって淹れられた紅茶を啜り、その温かさにほうと息を吐いた。虚夜宮は全てのものが冷たく、ましてや織姫が閉じ込められている部屋は大理石のような乾いた石に囲まれていて、温かさというものには無縁なのだ。こういう、織姫のためだけに用意された食事以外には。
 カップから伝わる液体の温もりが指に染みこみ、懐かしいような恋しいような心地に織姫はそっと優しげな眼差しを伏せた。温もりとは日常のそこらへんにどうということもなく転がっているくせに、離れてみると、どうにも恋しくなってしまう。
 織姫は食事をすることもなく、かといって何か別のことをするでもなく、ただちょっと退屈そうにしているウルキオラの白く固いテーブルの上で組まれた、同化しそうなほど白い指をちらりと見た。長く、美しい指だ。かつてのクラスメイトや想い人のそれとそう変わらない大きさで、しかし、ずっと美しい造型をした指だ。硬質そうな爪は黒く染まり、それが天然のものなのか人為的なものなのかは知れないが、彼の無機質な雰囲気に拍車を掛けていた。
「女、俺の手がそんなに珍しいか」
 肩を震わせて上を見れば、半眼気味の双眸が五月の新緑を思わせる色で織姫を見つめていた。小首を傾げれば、闇色の髪がさらりと揺れる。ウルキオラは基本的に顔や手がひどく美しい形をしている。ただその身に纏う大理石のような空気が、その美しさよりも先に彫像のようなと硬い印象を与えてしまっている。織姫がウルキオラの持つ形の美しさに気付いたのも、つい最近のことだった。
 反応されるとは思わず、不躾に見続けてしまったと反省と共に肩を小さくする織姫に、ウルキオラは先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「珍しいか、と聞いている」
「あ、いえ、そうじゃなくて……」
「なんだ、はっきりと言え」
「えっと、あの、その……」
「……まあいい」
「は、はい」
 その手を握ってみたくなった、とはとても言えなかった。それは自分の中にある何かに対する裏切りのようにも思えたし、わざわざ触れてみなくとも、その結果を織姫は知っていた。それでも、硬く白い皮膚の下にあるかもしれない温もりを求めてみたくなってしまったのだ。温かくなくとも、確かに人の手の形をしたそれに自らの手を這わせることで、何か安堵を得られると思ってしまった。たとえ望むものを得られたとしても、それは紛れもない裏切りだと知っているにも関わらず。
 ウルキオラは感情の浮かばない目を僅かに細くすると、組んでいた手を解いて、テーブルの縁に揃えて置かれた織姫の手を取った。眦の下がった目を見開く織姫に、ウルキオラはため息を吐くような声色で「これが望みだろう」と言った。織姫は唇に僅かな弧を描いて「はい」と返した。
 ただ、取っただけだった。手を取って、自らの白い手の上に織姫の手を置いただけだった。織姫はただ置かれただけの手にちょっと力を込める。ウルキオラは握り返しはしない。
 冷たく、硬い肌だった。肌とも思えぬものだった。石のようと思った色をそのまま表すように、硬く、しかしどこまでも美しい手だった。織姫はその手を裏返してみたり、指を握ってみたりしたが、ウルキオラが何かの反応を示すことはなく、ただなされるがままに、織姫が自身の手で遊ぶ様を見ていた。
「本当に、冷たいんですね」
「疑っていたのか?」
「いいえ。でも、ウルキオラさんの手なら、温かいんじゃないかって、ちょっとだけ期待してました」
「下らんな」
「はい、下らないです」
 視線だけはウルキオラの翡翠の眼を射抜いたままに、織姫は苦く笑った。望むものを与えてやったはずなのに、そんな表情をする理由をウルキオラは自身の行動や言動の中に見出せなかったが、それが織姫の精神状態を不安定にするまでには及ばないだろうと判断し、それを追及することはしなかった。
 ウルキオラの手は確かに織姫に望むものを与えただろう。しかし、それは織姫が望んでいて、けれど否定しなければいけなかった安堵だったのだ。それに気付いてしまった織姫は綺麗に笑うことも出来ず、かといって泣くことも出来ず、ただ苦く笑った。
 白く美しい手に自らの肌色を重ね、這わせ、生まれた熱とも言いがたい冷たさに安堵した。裏返し、手のひらの筋をなぞり、指を折り曲げてみた。自身のそれと同じ動きをする手に、どこまでも安心してしまう。ひどい裏切りだと、何を裏切ったかも分からないまま思った。
 破面といえども剣を握るからにはそれなりに大切だろう手を思うままにさせ、なんの反応も示さないウルキオラを不思議に思ったのか、または、反応して欲しかったのか、織姫は大地のように冷たい手を握ったまま、その動きを黙って見つめていたウルキオラの大きな双眸を捉えた。光すら入らないような、美しい緑色の目はしかしどこまでも澄んだ湖のように思えた。
「握り返しては、くれないんですか?」
「握り返して欲しかったのか」
「いいえ、別に、そういうわけじゃないんですけど、嫌なのかなって」
「俺が嫌だと思うなら、はなからさせない」
「あ、そうですよね。じゃあ、握り返さないのはなんでですか?」
「お前は脆い。力の加減を間違えれば、お前の手を握りつぶしてしまうかもしれないだろう」
 呆れたように少し目を細くして、ウルキオラは織姫の長い睫毛を飾った目を見た。大きな亜麻色の中に浮かぶ自身は、どこまでも黒く、白く、それ以外の色を持たなかった。
 ウルキオラの言葉に織姫はぽかんと顎を落とし、数秒後に、やたらと嬉しそうに頬を緩くして笑った。その理由がウルキオラには分からず、黒髪をさらりと流して僅かに小首を傾げた。織姫はくすくすと笑って、握っていたウルキオラの手を、一層強く包んだ。そこに溶け合う熱はないにも関わらず。
 織姫は一度、繋がった四つの手に目を落とし、しかしすぐウルキオラの何にも例えがたい緑色の双眸を見つめて、ウルキオラの疑問に答えることはない言葉を言った。
「やっぱり、ウルキオラさんの手は冷たいですね」
「当たり前だ」
 ふふ、と空虚の集まった虚夜宮にはとても似つかない鈴の転がる声で笑みを零し、泣き出しそうな目で織姫はウルキオラの手をちょっとだけ引き寄せた。その胸に抱きたいように引き寄せ、けれど出来なかったように手を離した。そうして優しい色をした目を歪めて、落として、搾り出すように「冷たいです」と繰り返した。それに僅かに眉を寄せ、悲しいのか嬉しいのかも分からぬまま、またははなからそんな感情など無いまま「当たり前だ」と同じ言葉で返した。