ただのあたし

 覚悟していた。いつでも戦えるようにしていた。いつでも治せるようにしていた。大理石のような、冷たい白い肌から一筋の赤い血が見えたとしても、決して動揺しないように、井上織姫は心を固くしていた。
 部屋に備え付けられた、軽く五人は座れてしまいそうな大きなソファーの端に座り、自らの耳を軽く押さえて、声を聞く。間違いがないように、確実になるように。
 深呼吸をして、大丈夫だと自らの心に言い聞かせ、ぽつりぽつりと呟く。音のない部屋に、小さな声が歌のように響いている。子守唄のようにささやかに、讃歌のように濃厚に。
「何をしている?」
 不意に差した低い声に肩をびくりと震わせて背後見れば、ソファーの背の向こうに、見慣れた翡翠の目があった。それを見上げて、照れたように軽く笑うと、ウルキオラは僅かに目を細くして先の言葉を繰り返した。
 織姫はウルキオラを見上げたまま、暫くその緑色と、涙の跡のような一筋の黒を見つめていた。ウルキオラはそれ以上は何も言わず、織姫の優しげな亜麻色を見つめ返す。この部屋中が無音になる瞬間が、織姫は好きだった。本当は世界中に二人しかいなくて、今までのことは幸せな夢だったのではないかと錯覚できた。
 しかし、そんな仮初めの世界が続くはずもなく、そんな希望もはなから抱いてはおらず、織姫は自ら無音の世界を壊す。自ら儚い夢に終止符を打つのは酷く自虐的なのではないかと、薄々気づいていた。
「練習を、してたんですよ」
「何の?」
「勿論、六花のです。いつでも落ち着いていられるように、イメージトレーニングしてたんですよ。えへへ、怒りますか?」
 まだ逆らう気なのかと、まだ仲間が助けに来ると信じているのかと、言われるかと思った。おどけた笑みに「そうではないのに」と隠し、仲間を思うふりをした。確かに仲間が怪我を負ったなら、何よりも先に駆け寄り、その負傷を拒絶するだろう。しかし、たとえ仲間でなくとも、想い人でなくとも、敵であろうとも、織姫は目の前の男が血を流すことがあったなら、すぐに駆け寄りたいのだ。ウルキオラの圧倒的な力を知っていても、思うのだ。そのために、いつでも冷静でいられる心が欲しかった。過去の自分を振り切れる強さが欲しかった。
 織姫は眉尻を下げて苦く笑っていたが、ウルキオラはそれに何も語らない。少しだけ、瞼に掛かる影を深くして、それ以外にはこれといった表情も変えずに、織姫の作り物の笑みを見ていた。
 苦笑も長い沈黙の全ては拭えず、やがて織姫がどこか名残惜しげにウルキオラの二つの翡翠から目を逸らしたその瞬間に、ウルキオラはようやっと薄い唇を開いた。
「お前が戦場に立つことは、今後一切、無い」
「え?」
「万が一、藍染様がそれを望んだならば話は別だが、たとえそうなったとしても、お前が能力を使うような事態にはならない」
「えと、それはどういう……」
「お前を害すものは、全て俺が排除する。お前はただ、立っていればいい。お前は戦うことも、守ることもしなくていい」
 織姫は伏したままの優しい亜麻色を灯す目を揺らして、ウルキオラを見ることなく、常と変わらない低いトーンの声に、どういう意味ですか、と湿っぽい声で囁いた。ウルキオラはまるで肩をすくめるように目を少しだけ丸くして、分からないのか、と呆れたような色を見せた。
 ウルキオラの白い唇が次の言葉を吐き出すまでの刹那が、まるで永遠のように感じられて、織姫はとくんとひとつ高鳴った心臓をぎゅっと押さえつけた。それは織姫がいつかに羨望した言葉で、いつでも自分に言い聞かせてきた慰めの言葉で、いつでも誰かに言って欲しかったただひとつ、とても簡単な言葉だった。
 ああきっと泣いてしまうと視界を閉ざしたそのときに、それ自体は決して温かくはないはずの声が織姫の鼓膜を涙のように濡らす。
「お前はそのままでいい」
 ほろりと一粒の透明が頬を伝い、織姫はそれを隠そうと、大きなソファーの端っこで小さく膝を抱いた。ウルキオラは膝に沈んだ織姫のつむじのあたりをじ、と見て、織姫の涙に気付いたのか気付かないのか、ただ絡んだ髪の一房を指で掬ってほどいた。
 嗚咽すら漏らさず、かといって何か声をつむぐでもない織姫に、ウルキオラはただソファーを挟んで立っていた。声を待っていた。
 膝で作った薄闇の中で、織姫は止めどない細雨のような涙に純白の衣を濡らした。
 仲間たちのように戦える能力があるわけでもなく、勇猛果敢に挑む強さがあるわけでもなく、自分には何もできないのかと問い掛ける闇の中で、嫉妬を抑えきることもできない、弱い人間。織姫は自分が嫌いだった。自分が嫌いな自分が何よりも嫌いだった。しかしあの瞬間に、あの一言に、許されてしまった。織姫自身が許せない織姫の弱さも、ウルキオラの一言が全て許してしまった。強く在ろうとする弱い織姫に、そのままでいいのだと免罪符を与えてしまった。それがどれくらい織姫の脳を揺さぶるのか、声の主は知らないままに。
 ソファーの背に指を掛け、織姫の顔を窺おうとしたが、深く埋められた顔が見えるはずもなく、ウルキオラは目を眇めて、おい、と一度呼んでみた。織姫の反応はなかった。それをウルキオラは体調不良からくるものと解したらしく、不機嫌に声を低くした。
「体調が悪いのならば、何故言わない」
「いいえ、違うんです」
「何が違う」
「体調が悪いんじゃ、ありません」
「では何故、俯く?」
 織姫はゆっくりと顔をあげる。小さな滴が豊かな睫毛の先端に絡み、赤みが差した目元をきらきらと光らせる。僅かに涙の残る目で振り向けば、ウルキオラは驚いたように少しだけ目を丸くした。
 何か言おうと開きかけたウルキオラの唇を遮って、織姫は目を細く弧にして微笑んだ。
「あなたがあんまり優しいから、涙が出てきちゃったんです」
 ウルキオラは一度、薄く開いた唇を閉ざし、二秒してから、小さく息を吐き出した。
「俺が、優しい?」
「はい」
「本当に体調が悪いのではないか? それとも今更だが虚夜宮の空気にあてられたか」
 理解できない、と言いたげに、今度は織姫の頭の様子を心配しだすウルキオラに、織姫の喉は思わずころりと鳴る。何が可笑しいと問う視線に、なんでもないですと木漏れ日の温度を持つ双眸で返す。ウルキオラの目にそれがどう映ったかのは、感情の見えない人形のような顔からは図れないが、そのときの織姫は確かに、強く美しいものの目をしていた。
 ふかふかしたソファーに背を預け、天井を仰ぐように首を反らすと、その向こうのウルキオラが逆さまに見える。見下ろす透明な緑色の双眸が逆さまに織姫を見つめるのが、なんだか妙に気恥ずかしく思えて、織姫は照れ隠しに笑った。
 ウルキオラの白い蛇のような指が伸び、涙の滴に濡れた織姫の前髪を掬った。涙の名残を確かめるように少し遊び、目に入らぬように耳に掛けてやる。
 水を帯びた感触が残る指を暫し見つめ、ウルキオラは織姫の目に自らの手を被せた。ウルキオラの手によって作られた小さな夜の中で、織姫はしかし瞼を落とすことはなかった。
「二度と泣くな。お前が泣く理由も必要もない」
「無理です、そんなの」
「理由も必要もないというのに、泣くというのか」
「必要はないかもしれませんけど、理由はあります」
「ならば言ってみろ。何故、泣くというのか」
「あなたが、あんまり優しいから」
「……狂ったか、女」
「そうかもしれません」
 狭い夜の中で苦く笑い、織姫は両目を隠すウルキオラの左手に触れた。手探りでその長い指を辿れば、まるで少年のような細さの腕がある。ウルキオラの左の腕と手を握って、織姫は先の言葉を一度だけ繰り返した。
 狂ってしまったのかもしれない、と穏やかに血を流す心臓を噛み殺して、織姫を夜に閉じ込めた人のそれと同じ形をした固い手の背を撫でた。光を捨てて、瞼の上だけの白と黒の世界に溶けてしまいたかった。その願いが狂っているのだということさえ、今の織姫は気付けない。しかしウルキオラが許した“そのままの織姫”の願いがそれなのだということは、否定できない事実なのだ。
 沈黙の降りた中で、二人はそのままの姿勢で織姫は手のひらの闇を、ウルキオラは織姫の口元をただ見ていた。どれくらいの時間が過ぎたのかは分からないが、暫くして、ウルキオラは僅かの間だけ瞑目して、手を離そうと、織姫に捕らえられた左の腕を少し引いた。それに、織姫は握る手のを力を強くして、離さないでとかさついた声で囁いた。
「離さないで下さい」
「食事の時間だ」
「後でいいです」
「冷めるぞ」
「別にいいです」
 ウルキオラは一度、苛々とした様子でゆっくりと左右に首を降った。長い前髪が鼻の上でさらさら揺れた。
「一体何なんだ、女」
「寒いんです」
「は?」
「寒いから、もう暫く、このままでは駄目ですか?」
 深い湖の底のような緑色が少し見開き、ウルキオラの見た目を幼く見せている大きな目が更に大きくなる。その様子を、他でもないウルキオラの手で視界を奪われた織姫が見ることは叶わない。
 ウルキオラは厳格に唇を引き結んで、左手と重ねられた織姫の手に目を落とした。織姫の手から、じわりと温もりが滴り、ウルキオラの冷たい手に染み込んでいく。
 寒い、などと、言い訳として酷く稚拙だとウルキオラはため息を吐きたくなった。ウルキオラの温度のない手で暖をとれるはずなどない。むしろ白い手は熱を奪うばかりで、寒いのならば、ウルキオラの手は離れた方が良いに決まっている。
 下らない感傷だと胸のなかで吐き捨て、しかし、手を離すことはしなかった。
 織姫はありがとうございますと、ほうと息を吐いて闇の中で目を閉じた。ウルキオラは何も言わず、ソファー越しに捕らえられた左腕と手に宿る熱に、少し目を細くした。