流行の影で

 壬生の血に飢えた狼、新選組には美貌の鬼が棲む。それは風をも裂く餓狼の眼を細い顔に据え、濃い眉は流れるよう、唇は薄く、喉を鳴らせば吼えるような怒号が飛ぶ。しかしひと度その眦を緩めたならば、微笑みの美しさに惚れ込まない者はない。人を斬り惑わす、鬼の名は土方歳三といった。
 さてその鬼副長、小姓がひとりいる。正確には小姓でもなんでもないが、隊士は皆、彼を土方の小姓と認識している。その小姓、名を雪村なんとかといい、愛称を千鶴という。女の名前を用いた愛称は幼いその顔立ちからきているのだろう、色が薄い大きな双眸とふっくらした白い頬が可愛いらしく、くるりくるりと一時も留まらずに変わる表情は娘のようだ。幹部連中とやたらに仲が良く、中には「千鶴ちゃん」と呼ぶ者までいる。淡い関わりを持つ平隊士も、彼を「雪村君」とか「千鶴君」とか呼んでいた。
 彼は日の多くを雑務で引き籠りがちな土方に付き合ってか、屯所の中で過ごす。時折、茶を運んだり、落ち葉を掃いたり、豚に残飯をやったりしているところを見掛けるが、それ以外は幹部の誰か、それも近藤と特別繋がりの深い誰かと常に一緒にいる。隊務に同行することもあるが、これも一握りの幹部の傍にぴったりとくっついている。
 これに今まで特に文句も苦情もなく、千鶴も、名前も知らない隊士と日に二、三言葉を交わしたり、初期と比べれば大分良好な関係を新選組の中で築いてきたはずであった。それが最近、僅かに脅かされつつある。無論、千鶴自身は預かり知らぬところで、である。


 その日は空も晴れ、からと乾いた風に茶色い葉が幾つかころころ転がる、初秋の良い日だった。  どうせなら落ち葉でも掃こうかと、見張りについていた山崎に一言断り、竹菷を片手に機嫌良く玄関先に出た。このころは幹部連中も幾らか千鶴に気を許し、山崎も千鶴の申し出を快く受けてくれた。
 しゃ、と竹菷が石を掻く音が、仔犬のように転がりまわる落ち葉たちを一所に纏めていく。はらりと降る赤や黄が夜色の髪に乗り、ここが荒くれ者の集団、新選組の屯所なのだと忘れてしまうほどに可憐だ。
「雪村君、お疲れ」
「お疲れ様です。お仕事ですか?」
「いや、今日は非番なんだ」
「そうだったんですか」
 少し背の低い、ほっそりとした肩の薄い男はたしか一番組の誰だったか、それとも五番組の誰だったか。数多い隊士を全員覚えてはいない千鶴は内心で首を傾げたが、ここ最近で良く話すようになった男とだけは覚えている。といっても、最近話し始めた隊士が多く、その中で誰だかはやっぱり思い出せないのだが。
 下らない話しなど幾つかしていると、風に折角集めた落ち葉がまた遊び始める。千鶴は急いでまた掃こうとするが、
「ああ、袴が汚れてしまうよ。私がやっておこう」
男の手が、竹菷を握る千鶴の手ごと掴む。
 色濃く焼けた男の手に比べ、千鶴の手は季節外れの雪のようだ。千鶴は薄い目の色を幾度か瞬かせて小首を傾げた。それに男は耳先を仄かに染めて、遠慮する千鶴からいいからいいからと竹菷を取り上げた。
 さて、千鶴はすることがなくなってしまった。
 手持ちぶさたなまま、男と世間話をしながら石を掻く竹菷の先を見ていると、計ったかのように山崎がひょいと顔を出した。
「雪村君、豚に餌をやってくれないか」
「はい。お掃除もしますか?」
「やってくれると助かる」
「はい、分かりました」
 そこでやっと竹菷を握る男に気付いたのか、山崎は彼をみとめるなりぎょっと目を丸くして、じゃあ宜しく頼むと言い残し、そそくさと出ていってしまった。
 千鶴は不思議に思ったが、きっと急用があるのだろうと思うことにした。千鶴が男に向き直り、じゃあ行きますねと言うと、男は手をひらひらと振ってまたねと言った。それにまたと返し、千鶴は豚小屋へと向かった。

 新選組では、かなり前から豚を飼っている。松本良順の案だが、獣肉は臭くて食えたものではないと、隊士たちからはいまいち不評である。
 給餌や掃除は隊士たちが日替わりで行っているが、今日のように多忙のときは、千鶴が代わりに行うこともしばしばある。
 大まかな掃除を済ませ、餌の山を両手で抱えながら運ぶ。豚は一匹が永倉に負けず劣らず食べるから、体の小さい千鶴は数度に分けて運んでいた。ぐっと隊士の増えた新選組であるから、残飯の量だけでも膨大だ。
 ふらふらと頼りない足取りで二度目の残飯を運んでいると、ふと千鶴の腕が軽くなる。右上を見上げれば、おっとりとした目元の可愛い青年が、眉をハの字にして「大丈夫かい?」と千鶴の手を支えていた。
 品の良い瓜実顔に少し細い目が可愛い青年は最近入隊したのだが、千鶴と年が近く、普段千鶴が隊務に同行している一番組に所属していることもあって、話すこともままあった。
「千鶴君では、重いだろう。私が持っていくよ」
「でも、悪いです」
「いいよ。今日は暇なんだ」
「非番なんですか?」
「ううん。今日の剣術指南は沖田先生だから、ちょっとね」
「あとで怒られちゃいますよ」
「大丈夫、大丈夫」
 この飄々とした青年は少し沖田に似ているなぁと、千鶴はなんとなしに思った。主に道場にも行かずふらふらしているところが、であるが。
 もっとも沖田の剣術指南は荒いと評判で、吐いただ肋骨が折れただは日常茶飯事である。剣術に一途でどこか子供っぽい彼は、手加減というものを知らない。
 それを知っているから、千鶴もたまには逃げたくもなるのだろうと苦笑した。あとで土方の怒号が飛びそうだが、これだって日常茶飯事だ。
 千鶴の手から重たい残飯の盆を受け取り、申し訳なさそうに見上げる千鶴に、青年はころころと笑う。細い眉が下がって、優しげな面立ちが際立つ。
「君は本当に可愛らしいなぁ。まるでおなごのようだね」
「……それ、あんまり褒めてないです」
「ちょっとは褒めてるだろう?」
 目を細くして笑う青年はほたほたと歩き出す。ずり、と踵を引きずる歩き方が特徴的だった。
 後ろをついて行こうとすると、背後から穏やかな青年のものとは真逆と言ってもいい、どたどたと荒々しい足音が千鶴の背を突いた。なんだろうかと千鶴が振り向くその前に、聞きなれた濁声が「千鶴!」と烏も逃げ去るような勢いで飛んできた。
 目を丸くして振り返る千鶴に、少しだけ息を切らした土方が腕を組んで青年を睨んでいた。一方の青年は舌先をちろりと出して、ばれちゃった、と苦く笑った。
「稽古放って、何してやがる。さっさと戻れ」
「はい、副長。これはどうすればいいですか?」
「そこらへんに置いとけ。後で始末させる」
「わかりました」
 残飯を足元に置き、踵を返して道場へ向かう。すれ違いざまに、千鶴にこっそりと「またね」と耳打ちしていった。

 唖然としたままの千鶴を取り残したまま、青年は去り、土方は苛々と舌打ちをして、青年の消えた角を睨んでいた。
「一昨日来やがれってんだ、このすっとこどっこい。ったく、どいつもこいつも油断も隙もねぇ」
「あ、あの、土方さん」
「なんだ?」
「何かあったんですか?」
「……もう隠しててもしかたねぇか」
 はぁ、と諦めたようなため息を吐き、土方は良く聞けよと千鶴の肩に手を置いた。なんの深刻な話なのだろうと、息を飲んだ千鶴の喉がことりと鳴る。相当悩んでいるのだろう、土方の濃い眉が僅か中央に寄る。夕暮れと夜の狭間色をした目は未だ苛立たしげに揺れている。
「流行ってんだよ、今、隊士たちの中で」
「なにがですか?」
「……男色」
「ええ!?」
「少し前からな。山崎君に見張らせてたんだが、どうもお前を狙ってやがるやつも多いらしい」
「な、なんですかそれ!?」
「知るかよ。この糞忙しいときに、ったく嫌になるぜ」
 総髪が乱れるのも構わず、頭をがりがりと掻く土方は苛立ちを隠そうともしない。ただでさえ忙しいこの時期、男色に隊士たちが浮かれているのも問題なのだろうし、何より仕事を増やされたことが気に入らないのだろう。
 千鶴はそれより、隊士たちと関わりの薄い自分が何故、と、そればかりで頭がぐるぐるしている。錯乱状態の千鶴に土方は落ち着け、と頭を軽く撫でた。ごつごつした無骨な指が、千鶴の心をいくらか軽くした。
「心配すんな、俺と山崎君でなんとかする」
「で、でも、なんで私が?」
「女みてぇなところが、いいんだと。あーもうどいつもこいつもふざけやがって、俺に切られてぇのか!?」
「ひ、土方さん、落ち着いて!」
 今にも青年のあとを追って切りかかってやりたいとでも言いたげな土方の腕に縋り、どうどうと宥める。乱れた黒髪が顔に掛かる様は見ようによっては美しいが、ぎらぎらと殺気立った双眸が美しい以前に恐怖しか相手に与えない。ひとつ、ふたつ深呼吸をして、照れくさそうに「ついカッとなっちまった」と苦く笑った。
 男色流行とは近藤もさぞかし頭の痛いことだろうと、朗らかで実直な局長の顔を思い浮かべて、千鶴ははぁと息を吐いた。出歩くとまた迷惑をかけてしまうかもしれないから、これから暫くは、また普段はおとなしく部屋にいようと思ったが、想像しただけで気が滅入る。
 そんな千鶴の考えを悟ったのか、土方はすまねぇなと眉尻を下げた。いいえ、と笑う千鶴に、一人で出歩くな、とりあえず誰かにくっついとけと言い、ふいと視線を逸らした。身長の差から、千鶴と話すときの土方の視線は常に下向きだが、今は何も無い斜め上の中空に注がれていた。
「それか、俺の雑用でもしてろ」
「はい! そうします」
 ふん、と照れ隠しに鼻を鳴らして、来たときのように荒い足音を立てて屯所の方へ戻っていく。千鶴を気遣って遅く歩くようなことを、土方はしない。 はたはたと軽い足音が忙しなく土方の背中を追う。それが少しだけ歌うように聞こえて、土方は歩を早めた。