わがままに

 小さな鏡をじ、と見て、やがて幼い柳眉を寄せると、べろりと舌を出して鏡の自分にあかんべをした。馬鹿馬鹿しい、と言うようにため息を吐いて鏡面を伏せると、千鶴は背を畳に張り付けた。ここ最近ですっかり猫背気味になってしまった背がしゃんと伸び、申し訳程度に膨らんだ胸元も少しはましに見える気がした。
 擦りきれた畳に散らばる黒髪が憂いの濡れ羽色に鈍く揺れる。年頃の娘にしては短いほどかれた髪が頬に掛かるのが鬱陶しくて、千鶴は気だるげに身を起こした。乱れてしまった薄紅の単から覗く細首は、白粉を塗った舞妓のそれのように、いやに生白い。
 身を起こしても転がしても、千鶴の杞憂は晴れるどころか凝り固まり、町娘がこぞって役者のようだの涼やかだのと持て囃す横顔を思い浮かべてみても、その黄昏の片目は想像であっても彼方を見据えたまま千鶴を見ようとはしない。それはその人が常に人より一歩も二歩も先を見ながら歩く人だからもあるが、何より千鶴が、その人の両の眼に映されることはもしかしたらないのではないかと思ってしまっているからだ。
 土方歳三と聞けば、京都の人々の多くが眉を寄せ嫌悪に瞳を曇らすのであろうが、同じ言葉を聞いたとて相手が町娘や島原の女だったならば、鮮やかに香る声で恍惚とその名を繰り返すのだろう。それほどに、土方歳三という男は常に女を惹き付けて止まない。
 私はあの人の顔を好きになったんじゃないわ、と当て付けのように思ってみても、いざ菖蒲の玉を埋め込んだあの切れ長の目で微笑まれたなら、やはり千鶴も他の女と同様に頬を染め俯いてしまうのだろう。それを千鶴自身がよく分かっていたから、尚更に歯痒かった。
 物語の鬼女のように、何者よりも美しくあるのならばまだいいものの、余計なところばかりが人と変わらない。並び立てるくらいに美しければ、鬼の血があっても恐れることはなかったかもしれないのに。
 せめて鏡に映る自分が島原で出会った千と名乗る娘くらい美しい顔をしていればと思わないこともないが、たとえばそうだとして、何の解決にもならないと気付いている。千鶴自らが思うことと同じに、土方もまた、女のただ美しいだけの顔に惚れるような男ではないからだ。
 事実、土方は花街を好まない。あまり酒が好きではない、というのも理由のひとつなのだろうが、それ以上に女の匂いが彼は苦手だった。正確には、女の化粧の匂いが、である。浮き名を響かせた江戸も、これはただ単に金がないせいでもあったが、女を買うことはあまりなかった。永倉なんぞは「土方さんはわざわざ買わなくたって、あっちから来るからな。あーあー羨ましいねぇ」などとよく冗談混じりに言ったものだった。それに土方は「羨ましいだろう」と幾人もの女を虜にする甘い目でふふんと笑ってみせ、色の濃い美しい眉を寄せて、吉原の女は匂いが駄目だ。あの甘ったるい香が自分の着物に付いたらと思うとぞっとしねぇ。と袂を摘まんで言っていた。そしてやあ土方さんはお堅くて詰まらんと騒ぎ立てる永倉やら藤堂やらの頭をぺしりと叩いて、お堅いんじゃねぇ、必要がねぇんだと自信たっぷりに言うのだ。
 とんとん、としきりに叩く軽い音に、今更ながらに千鶴はああ雨が降っていたんだと耳を澄ませた。凛と軽やかな音は京女のからころと華やかな足音にも似て、雨の匂いと共に千鶴の胸を重く濡らす。
(ただ一言、たった一言でいいの)
 ただ、大丈夫だと、言って欲しいのだ。あの美しい目を細くして、難しく寄せられる眉とは反した緩やかな弧を描く唇で、大丈夫だとただ一言が欲しいのだ。それが男が女に向ける熱情でなくとも構わない。例えば、父が娘に向けるそれと似たものだとか、彼が何より大切に守る身内の絆であっても構わない。ただ千鶴が本当に鬼であったとしても構わないと、そんなものは障害にすらならない路傍の石だと、そのままの千鶴で大丈夫なのだという言葉が欲しいのだ。
 ただその一言さえ得られれば前に進めるのにと、俯く千鶴の愛らしい顔を垂れた前髪が黒く塗り潰す。
 ぱたぱたと地を叩く雨が空気を濡らし、沈む空気の水底から千鶴ひとりでは這い上がれそうになかった。誰か引き上げて、溺れてしまうと指を伸ばしかけて、掴む手もない現実に指は不完全に助けを求めたまま落とされた。白く浮かぶ指は仄か光るようで、背に腹にくるくる回してひとり遊ぶ。
 しとしとと重い雨が千鶴を道連れに地に落ちていく。くるくると螺旋を描いて落ちていく先は底も見えないのに、止まる様子も引き上げる手もない。
 千鶴は鬱々とした水を払いたいように首を振ると、襖をからりと滑らせた。なんとなく、土方も起きているのではないかと思った。


 近くなった雨の音に目を細めると、意地悪に一層強く降りだしたような心地がする。跳ねる水滴に僅か濡れる素足がぺたぺたと間抜けな足音を残したが、幸い雨音の狂騒に掻き消えた。
 明日も止まないのだろうなと中庭を見れば、小ぢんまりとしてはいるものの、整った緑の庭を等しく雨が打つ。雨を受け跳ねる葉が何故だか逞しく見えた。私ならあそこで受けきれずに落ちているだろうと思うと、葉が羨ましくすら思えた。
 千鶴に反して、彼の足音は雨に紛れる以前に音が見当たらなく、常人より幾らも高い背は気配の欠片すら滲ませない。
「千鶴、なにしてんだ、こんな夜に」
「土方さん」
 ああやっぱり起きていたと、当たった予感にひとつ笑みを溢すと、土方は怪訝そうに顔をしかめて小首を傾げた。昼より緩く束ねられた髪が薄い雨粒の煌めきを従えて美しい。
 不機嫌に腕を組み、千鶴を見下ろす目はやはり厳しい。なにをしていたのだと問う声は傲岸な雨も息を潜めるほど低く、千鶴は逃げ出した雨に今こそ強く降るときでしょうと胸の内でなじった。
 千鶴は目を見ることが出来なくて、こっそりと視線を逸らすと、垂れた黒髪を指先で摘まんだ。どうしよう、なんと言えば彼を誤魔化せるだろうと溺れたままの頭を巡らせてはみるけれど、どうにも息が苦しくて続かない。
 黙ってしまった千鶴と土方との隙間を、とん、とん、と雨音が埋める。ゆるい風が吹いて、流された水のひとつが土方の足の爪を濡らした。
 土方がはぁ、と大袈裟なため息を吐くと、千鶴の肩が小さく跳ねる。そんなに怖がる必要はないだろうと内心でもうひとつため息を吐きながら、土方は俯いた千鶴の頭をぽんぽんと撫でる。
「大丈夫だ」
「え?」
「鬼に言われたこと、気にしてんだろ。大丈夫だ、しょうがねぇから、俺達が守ってやるよ」
「でも、私は」
「本当にお前が鬼だったとして、何が変わんだ。それとも、もううちはうんざりか?」
「そんなことありません!」
「じゃあ、他になんの問題がある。ここにいりゃあ、いいじゃねぇか。俺が大丈夫だっつってんだから、信じろ」
 望みの言葉を得れば前に進めるはずと信じた足は重く、引き上げられたにも関わらず相変わらず息は苦しい。千鶴は夜着の袖をきゅっと握り、俯いたまま唇を噛んだ。
 美しい面立ちも、色香漂う身体も、歌うような声も、上品な身のこなしも望む必要などない。ただ「あなたを信じます」と言えば、焦がれた柔らかな眼差しが手に入るだろう。けれども口を開けど言葉は出ず、土方の目を見たくても見つめているのは変わらず彼の足の爪。
 もう思い悩むことなど無くて良いはずなのに、願った言葉は耳に届いているのに、千鶴は何故だか涙が止まらなくて、雨に声を忍ばせて泣いた。