あおい目

「僕ねぇ、なんだかどうしても興味が持てなくて、あんまり女とか買ったことないんだよね」
「はい?」
 唐突に語りだした内容は溢れるような木漏れ日の下にはひどく似つかわしくなく、千鶴は言っていることが咄嗟には理解出来なくて、ぽかんと口を開けた間抜け面のまま問い返してしまった。案の定、それに沖田はくつくつと笑って、だからぁ、と悪戯めいた声で甘えるかのように目を細めた。薄い唇が三日月を転がしたようなかたちをしている。
「あんまり女を買ったりしたことないって、言ったの」
「……島原で、ですか?」
「島原でも吉原でも。どっちかっていえば、さっぱりした江戸女の方が好きだけど、遊女はどれも白粉臭くって」
 ああ嫌だ、とわざとらしく鼻をつまみ、はたはたと手を振ってみせる。おまけに「こればっかりは、近藤さんや左之さんの気持ちが分からないよね」と千鶴に同意まで求めてきて、千鶴は曖昧に、はぁ、などと言葉を濁すことしか出来なかった。
 沖田のその言葉に、千鶴はあまり良い思いはしなかった。少なからず想いを傾ける相手から吉原だ島原だと言われて快くは思わないだろう。近藤や原田が島原に赴くのも構わないし、沖田があまり買わないと言ったことだって千鶴には直接関係のない話なのだが、その「あんまり」という言葉が魚の小骨のように喉に引っ掛かって飲み下せない。あんまり、ということは、全く無いわけではないじゃないか、と千鶴は無意識の内に視線を逸らした。なんだか今は、沖田のあの五月の深緑のようなあおい瞳を見られる気がしなかった。
 そんな千鶴に気付かないまま、沖田は遠い昔を遡るかのように空を見上げた。青々と繁る葉から、突き抜けるような蒼天が滴っている。
「なんでかなぁって、最近考えてみたんだ。別に女嫌いってわけでもないのにさ。夫婦になってくれって言われたこともあったけど、興味湧かなかったし」
「そうなんですか」
「そうなんですよ。ねぇ、千鶴ちゃんはなんでだと思う?」
 千鶴がちろりと沖田の顔を盗み見れば、答えを待つ瞳がわくわくと弾んでいる。千鶴はなんとなくそれに苛立ちを覚えて、思わず「なんで私に聞くんですか」と無愛想な声で返した。頬を撫でる柔らかい風すらも今は鬱陶しく思えた。
 想定していた答えと違った沖田は、きょと、と目を丸くして、ちょっと不機嫌そうな千鶴の顔を窺いながら「なんでそんなに不機嫌なのさ」と拗ねた顔をしてみせた。
「不機嫌なんかじゃ、ありません」
「でも、いらいらしてる」
「してません」
「じゃあなんで、こっち見てくれないの」
 図星をつかれた千鶴が沖田を見れば、楽しそうな、なのにどこか少し淋しそうな色を根底に沈めて笑う沖田がいた。絶対にからかって楽しんでるんだ、と思っていた千鶴は沖田のその顔が意外で、言おうとしていた言葉を空気と一緒に飲み込んだ。
 沖田は気まずそうに頭を掻いて「君を苛つかせる気はなかったんだ」と囁くような声でぽつりと溢した。
 葉が擦れ合い、さわさわと風が鳴くような音を出す。どことなく気まずいような空気が流れ、千鶴が次の言葉を探す。しかし千鶴が口を開く前に、沖田が「それでね」と底抜けに明るい声で言った。
「僕なりに考えてみたんだ。恋人も奥さんも、馴染みの娼婦も作らなかった理由」
 全てを言い切らず、沖田は迷うように千鶴を見た。千鶴の目をじっと見つめ、やがて照れたように逸らす。沖田の目には初夏の空と雲が映っていて、千鶴は自らを覆っていた靄がいつの間にか晴れていたことに気付く。千鶴はちょっと笑って「なんて考えてみたんですか?」と沖田の背中をそっと押した。
 沖田は苦笑いみたいな顔をした。普段の沖田らしくない、ちょっと弱いような目だった。後ろめたさと申し訳なさにほんの一匙の光を混ぜたような色で、沖田は笑ってみせた。沈み始めた日が、淡い赤色を含んでいる。
「きっと、君に会って、君に愛されるために、ずっとひとりでいたんだ、って考えたんだ。だから、僕はずっとひとりだったんじゃなくて、ひとりでいたんだよ」
 ひとりだったのではなく、自らひとりを選んでいたのだと沖田は言う。とてもずるい言葉だ、と千鶴は思う。そんな甘やかなことを、そんな傷口の痛む目で言われてしまっては、と。沖田の意図に沿う沿わざるに係わらず、言葉は千鶴を縛る。まるで自分も彼のために生きたような錯覚を起こさせてしまう。そしてたとえ無意識の内だとしても、千鶴は過去でしか情を語れない沖田にひどく淋しいと感じると同時に、不器用なその唇を愛しいと改めて思い知らされるのだ。
 沖田は気まずいように耳の裏をがりがり掻いて「僕は君を好きになるって、決まってたんだと思うんだ。ずっと前から。君だけを好きになるって」と澄んだ空を見上げた。千鶴もその視線を辿る。葉の隙間から滴る暮れの赤は滲んで掠れた血に似ていた。
 空は水鏡のように凪いだままだった。木々と風が芽吹き始めた生命を賛美するように鳴くのに、千鶴にはそれがもの悲しいように聴こえて、生暖かくなり始めた風がひどく気憂い心地がした。嬉しくないわけではないのに、心臓は血ではなく鉛が流れているかのように重かった。沖田の言葉のせいでもなく、頬を撫でる温い風のせいでもなく、ただ沖田ひとりを置いてきぼりに芽吹き歌う木々や、優しい空言にすら縋りたくなってしまう自らが千鶴の血を鉛に変えた。
 沖田もまた、乾き始めた瘡蓋を自ら引き剥がし、幸せな空言という毒を塗ることで痛みを忘れようとはしない。ずくずくと疼く傷口はやがて膿み、腐り、爛れ落ちるだろう。それまで彼は続けるのだろうか、しかしそれは千鶴にも沖田にすらも分からない。いっそこの風のような温い空言に流されてしまえたら、二人は幸せなのかもしれない。
「沖田さんは、ひとりなんかじゃないですよ」
 ならば流されてしまえたら、二人は幸せになれるのか。それは否。沖田も千鶴も、流されてしまいたい弱さと流されてしまわないだけの強さを持ち合わせているのだから、流されたとて狂気に落ちることの出来ないまがい物の世捨て人は俗世の業を忘れ去れない。
 ただ千鶴には、傷を抉る沖田をやんわりと包む手があり、沖田には千鶴を繋ぎとめる声があった。
「でも、きっと私も、沖田さんに愛されるために、いままでずっとひとりだったんだって思います。沖田さんだけが、好きですよ」
「そっか、千鶴ちゃんもかぁ。お揃いでひとりぼっちだね」
「そうですね、ひとりぼっちです」
 冬の満月のようにきんと澄んだ瞳をころりと揺らして、千鶴は出来すぎた人形のように笑った。夕陽に照らされた白磁の頬は赤く染まり、それが沖田には浮世離れした美しい幻想のように思えて、ついその頬に触れた。指に吸い付くしっとりとした肌は、確かにここにあった。傷だらけの手で、千鶴のつきたての餅のように柔らかな頬を包む。それに手を添えた千鶴は「沖田さん」と幼子を叱る母の慈愛の声色で名前を呼んだ。沖田の少し乾いた唇に千鶴の吐息が掛かる。
「でも、沖田さんも私も一人だけど、一人と一人ならひとりぼっちにはなりませんよ。私には沖田さんがいるから、もうひとりぼっちにはなりません」
「じゃぁ、僕にも君がいるから、もうひとりじゃないのかな」
「はい。沖田さんには、きっと私以外にもいましたよ。近藤さんも、土方さんも」
「うん、そうかもね。なら今はどうなのかな。ふたりぽっち、かな」
「そうですね」
「山崎君と良順先生もいるけどね」
 ころころと冗談を言う沖田に、淡く微笑んで、揺れる青葉の瞳が潜む目蓋に口付けた。今にも溢れそうな涙は沖田の睫毛の房を濡らし、夕陽に透けた涙の玉が赤く光る。赤い玉に縁取られた沖田の目はゆらゆら揺れていた。千鶴の高く結い上げられた髪が香る。
 泣き笑いの顔で「ありがとう、千鶴ちゃん」と明るい声で喉を震わせた。
「あの世に行っても、僕は君を探し続けたいなぁ。君と落ちる所は、違うだろうけど」
「だったら、私が沖田さんの所まで落ちていきますよ。ちゃんと、受け止めて下さいね」
「うん、刀を捨てて、両手をうーんと広げて、受け止めるよ。それまで、ひとりで待ってるよ。また君に愛されるために」
 ああまた、と千鶴の心臓はどくんと大きく脈打って鉛を流しだした。また、沖田の言葉の欠陥を見つけてしまった。沖田は嘘を吐くのは上手いくせに、本音を吐露するのはひどく下手くそだ。
(私も、あなたと一緒に逝きたいのに。あなたも、その時は一緒にと願っているはずなのに)
 千鶴は喉に蟠るそれを無理矢理に飲み込み、沖田の睫毛についた滴を舐めた。淡い塩味が口内に広がる。
 微笑みのかたちを作りたかったが、上手く笑えていない自分が沖田の目に映っているのを千鶴は見た。それに見ないふりをして、歪な笑みのまま、猫のような沖田の栗色の髪に指を通す。柔らかい髪は極上の絹より心地よく感じた。
「じゃあ私は、沖田さんの事を想いながら、迎えに来てくれるのを待ちます。そしていつかその時が来たら、あなたを探して、あなたの所まで落ちていきます」
「うん、そうして。君が僕のためにたっぷり泣いてくれた後に、涙が渇れる少し前に、迎えに来てあげるよ」
「それじゃあ嫌です」
「なんで?」
「沖田さんのために流す涙が渇れるなんて、そんなことあるはずないですから」
 沖田は、そうだね、と困ったように眉を八の字に曲げて笑んだ。生暖かい赤い滴がぽたりと千鶴の爪先を彩る。
 両手を真っ赤に染めた千鶴は、あの時の赤い黄昏とはまた別種の、希望に満ちたような鮮やか過ぎる朝日の赤を虚ろげな目で眺めた。あの時とは違ってしまった羅刹の目に陽光は矢のように突き刺さる。太陽に煌めく千鶴の目は、森の青葉を映して、いつかの沖田の双眸のようにあおかった。ぼろぼろと流れ続ける涙の滴が、乾いた血にまみれた手の背に落ちて赤く色付きながら滑っていく。
「あの時の話、覚えてますか、沖田さん」
 答える声はあるはずもなく、しんと静まった中で明けの烏が高々と鳴いた。
 眩しい朝日に目を細めて、千鶴は唇を歪めて笑んだようなかたちを作った。唇を濡らす涙を舐めとれば、懐かしいような塩味が舌先を転がる。
(この涙が渇れるころ、あなたは迎えに来てくれますか?)
 月が姿を隠し、緑の光が踊り世界を満たす。夜明けを喜ぶ新緑は風にさわさわと鳴き、風は柔らかに千鶴の血に濡れた髪を撫でていった。世界は憎い程に美しく、千鶴は晴れ渡る青空を見上げた。風が涙を拐っていく。空を舞う滴は空より森より瞳より、あおく弾けて消えた。