金魚すくい

 江戸から届いた、硝子で出来た大きめの箱。蓋はなく、果実のように丸いそれは表面に薄い青色で繊細な模様が施されていて、中に入った水が揺らめく度に陽光を乱反射してきらきらと輝いた。
 沖田はそれを片手で持ちながら、浮き足だったような心地で歩く。早く早く、と急く足を叱りながら、それでも水を溢さない程度にゆっくりと、けれど出来るだけ早く歩く。ちゃぷ、と水面が揺れて弾けた雫が沖田の手を少し濡らした。左手で襖を開け放ち、中にいる目を丸くした千鶴に水面が揺れる硝子の球を押し付けた。
「はい、お土産」
「お、お土産、ですか?」
 土産、とは正しい表現ではなかった。沖田は江戸へ行ってきたわけではなく、ただ昔馴染みの硝子職人に、こんなものが欲しい、と文を飛ばして頼んでおいただけだからだ。
 水面が揺らぎ、覗き込んだ千鶴の顔を映す。中には鮮やかな透明色をした水だけが並々と注がれていて、千鶴はそれを持ったまま暫し茫然と眺めていた。
 千鶴の目を大きく見開いた可愛い顔に加えて、水面に口元に三日月をたたえた沖田の顔が映る。沖田は覗き込む千鶴と硝子とに、くすくすと小さな笑い声を降らせ、千鶴の手からそれを奪うと畳の上にそっと置いた。屈折したゆらゆらと揺れる光が畳を飾る。
「そう、お土産。中身は君の好みが分からなかったから、今から買いに行くんだけど、行くよね?」
「え、でも、そんな何かを買っていただくわけには……」
「じゃあ、僕が欲しいものがあるから、付き合って」
「言い方を変えただけじゃないですか」
「いいからいいから、行こう」
 ぐいと強引に千鶴の手を引き、沖田はほたほたとゆるい足音を響かせ歩く。歩幅の違う千鶴は沖田がゆっくり歩いていても速足をしなければ追い付かないのだが、最近の沖田は千鶴に合わせてか、殊更にゆっくりと歩く。元々、速く歩くことを好まず、自らの気分のままにゆるゆると足を出すことが好きな沖田は、千鶴に合わせること自体はあまり苦ではない様子である。少なくとも、土方のきりきりとした早足に合わせているときよりは、ずっと気楽そうである。
 沖田は猫背を揺らして大股でゆっくりと、千鶴は独楽鼠のようにちょこちょこと平素より僅かに速足で京の町を歩く。千鶴は突然のことだったので勿論丸腰で、沖田も鉄扇を袂に忍ばせているのみだった。今ここで何かあってしまったらどうするのだろうか、と千鶴の胸には一抹の不安が残るが、浅葱の羽織を脱ぎ、大小を置いた沖田には京の町に顔馴染みも少なくないらしく、すれ違う人々に時折挨拶をしてはころころと笑っていた。
 落ち着きなく辺りを見回す沖田の視線を目で追いながら、千鶴は何を探しているんだろうかと気になった。茶屋も小間物屋も飴売りも、沖田の眼中にはないようである。
「あ」
 目的のものを見つけたのだろう、目をちょっと見開いて、嬉しげに笑う沖田は千鶴には少し幼く見えた。沖田は「行こう」と千鶴の手を引き、たらいを抱えた男へ声を掛けた。担いだ竿の両端に吊るされたたらいには、赤やら白やらの小さな魚が泳いでいる。金魚売りの男は沖田の言葉に、へぇ、と愛想良く頷いた。
 たらいの中を悠々と泳ぐ色鮮やかな金魚たちに、千鶴は思わず腰を屈めて覗き見た。女の髪のような長い尾ひれをゆらゆらと靡かせ、自らの美しさを自負しているかのようにひらりと金魚は狭いたらいの舞台に舞う。赤に白にと入り混じる色合いは、古びたたらいのくすんだ茶色の上でも、いささかも輝きを損なわれることがない。
「千鶴ちゃん、金魚好き?」
「はい、綺麗ですよね」
「よかった。じゃあ、好きなの選んでいいよ」
 え、と沖田を見上げれば、いつ調達してきたのか手桶を軽く振って「早く選びなよ」と笑っていた。にやにやと笑う翡翠の双眸の奥に、小川のように涼やかな慈しみが流れている。
 早く、と背中を押す沖田に戸惑いながら、千鶴は「え?」と小首を傾げた。大分普及したとはいえ、まだまだ金魚は高価である。しかも安い流線型の金魚ではなく、沖田が呼び止めた金魚売りはぷっくりとした球のような体に羽衣の長いひれを纏った、一際高価な種類の金魚を扱っていた。こんな高価なものは受け取れない、と首を振る千鶴に、金魚売りの男はくつくつと含み笑いをして「変な遠慮はなさんなよ、お嬢さん」と金魚を掬う網を手にした。金魚売りは千鶴が女だと見破った、というより、沖田と千鶴の雰囲気から千鶴を女と思った様子だ。
 目を丸くした千鶴に「おや、間違っとりましたか?」とおどけた様子で笑い、確認するように沖田の方をちらりと見た。沖田は少しも表情を変えず、さぁ、どうだろうね。そう言いたげに肩を竦めた。ああ、見破られちゃったね。そう言いたげにもとれた。
「好いた女にゃ、なんでも買ってやりたいのが男心ってもんなんよ」
「すっ……好いた、なんて、わ、私と沖田さんはそんなのじゃありません!」
「おやおや、ふられたねぇ、兄さん」
 金魚売りのからかうような言葉に、沖田は一抹の淋しさを孕んだ苦い笑いで答えると、あわあわと混乱した様子の千鶴に「子供が遠慮なんてしないの、早く選びなよ」と沖田も屈んでたらいの中を覗いた。二人の顔が映った水面が、ぱちりと跳ねた金魚の尾びれに揺れる。
 金魚売りは器用に網を手のひらでくるくる回しながら「何匹買うてくれるんどす?」と沖田に問う。沖田は「二匹」とたらいを覗いたままに答えた。
「じゃあ、一匹は沖田さんが選んで下さい」
「えー、僕は君に選んでほしいのに」
「半分ずつ、です」
「わかったよ。一匹は赤いのがいいよね」
「はい、そうですね」
「あ、でも赤と白の斑もいいな。千鶴ちゃん、どれがいい?」
「もう、沖田さんが選んで下さいって言ったのに」
 くすくすと笑う千鶴に、沖田は「そうだったね」と彼にしては珍しくはにかむように眦を緩めた。非番の日に彼が良く遊んでいる子供達なんぞが見たら、きっと「総司気持ち悪い!」と屈託の無い笑顔で言うことだろう。土方ならば「風邪でもひいてんのか?」と訝しがるだろう。それくらい、常の生活の中では沖田の顔には浮かばないような表情だったのだ。
 沖田は、赤と白の斑模様が美しい更沙を選んだ。一等尾ひれの長い、華やかな金魚だった。沖田の持つ狭い手桶をくるくると泳ぐ。突如変わってしまった住みかの様子に驚いたのか、はたまた共に過ごした仲間と離れてしまったことを嘆いているのか、金魚は手桶の中を忙しなく回る。
 「次は君だよ」と言う沖田に、千鶴はたらいを覗いて暫し考えていたが、一際目立つ一匹を指差して「この子がいいです」と微笑んだ。千鶴が選んだのは、全身が鈍い鉄色の鱗に覆われた金魚だった。金魚売りは苦い顔で「本当にそれでいいんどすか?」と掬うのを躊躇った。
 鉄色の金魚は、幼少の鱗から色が変わらなかった成り損ないである。本来ならば市場に出回らない価値のないそれは、恐らく偶々紛れ込んでしまったのだろう。売れ残って長いのか、他の金魚より一回りほども大きかった。
 黒い金魚を選んだ千鶴に、沖田はちょっと驚いて「遠慮しないで、もっと綺麗なの選んでいいのに」と再度たらいを覗いた。中にはその金魚とは比べ物にならないほど、きらびやかな金魚達が戯れながら泳いでいる。
 それでも千鶴は「この子がいいです」と譲らない。沖田は弱った、と言いたげに眉尻を下げて頭を掻いた。金魚売りはふ、と吹き出し、二人の様子に声を上げて笑う。沖田は拗ねたように唇を尖らせて、横目に金魚売りを睨む。
「ちょっと君、何でそこで笑うのさ」
「いやぁ兄さん、あんさんの負けやね。自分の意見をしっかり言える、いい娘さんやないの。お嬢さんの選んだやつはただでええよ」
 金魚売りは千鶴に網を手渡し、掬ってごらんと促した。千鶴が恐々と沈めた網の上に、まるで導かれるように黒い金魚が身を寄せる。黒い羽衣を揺らす金魚を救い、沖田の手桶にそっと入れた。黒い金魚と更沙の金魚がくるくると手桶の中で舞う。
 金魚売りは「本当にいいんですか?」と申し訳なさそうな千鶴に愛想良く笑う。反対に、沖田は若干不愉快そうな、拗ねた顔を作ったままだった。
「ええんよ。お嬢さんがこの子んこと大事にしてくれたら、あたしはそれでええんどす」
「ありがとうございます」
 ぺこりと折り目正しく頭を下げて、千鶴はほわりと笑った。沖田は金魚売りに一匹分より少し多い金を渡し「じゃあ帰ろう」と千鶴を急かした。ひどく不機嫌そうな沖田に金魚売りは微笑ましくなって「兄さん」と今一度呼び止めた。
「なに?」
「なんで袴なんか着せてるんか知りまへんがね、あんさんが大事にしてるのはあたしにも分かりましたよ。ただ、お嬢さんには早いようだから、もうちょっと分かりやすく大事にしてやんなさい」
「ふん、そんなの、僕だって分かってるよ」
「そりゃ、野暮言うてすんまへん」
 くるりと踵を返すと、沖田は千鶴の手を引いてすたすたと先ほどよりいささか速めに歩く。何故、沖田の機嫌が傾いたのかが分からない千鶴は、速足で沖田の後を追った。人混みを抜けたところで、やっと気付いたのか、沖田は歩く速さを緩めた。千鶴は少し疲れた様子だが、それに気付いて、気遣いに欠けていたと謝る沖田に千鶴は「いつも私が合わせてもらってますから」と笑った。
 千鶴は歩きながら、沖田が左手に持つ手桶を覗き込む。中にはひらひらと水中を舞う蝶のようなひれを翻し、鉄色と更沙とが手鞠を転がす子供のように戯れている。千鶴が指先をちょっと沈めると、黒い金魚がぱくぱくと小さな口でそれを食んだ。くすぐったそうに笑う千鶴に、沖田も今までの不機嫌顔が嘘のようについふと微笑をこぼした。千鶴の月色の目と、沖田の翡翠の目とが水面に映り、舞い泳ぐ二匹の金魚によって歪みかき消される。
「良かったね、君。千鶴ちゃんに選んでもらえて」
「なんでですか?」
「こういう出来損ないはね、例え今回みたいに市場に流れてきたって、売れ残っていつかは処分されちゃうんだよ。だって綺麗じゃないし、誰だって飼うなら綺麗なほうがいいでしょ?千鶴ちゃんに選んでもらえなかったら、こいつだって遅かれ早かれきっと処分されてたよ」
「そう、だったんですか」
「そう。だからね、千鶴ちゃんに選んでもらえて、はじめてこいつは生きている意味をもらったんだよ」
「生きている意味、ですか」
「君の目を楽しませる、とかね。千鶴ちゃんが掬ってくれたんだから、この金魚は幸福者だね」
 黄昏を宿した双眸がす、と細まる。本来の深緑に黄昏の赤が混じりあい、冷たいような、温かいような、不可思議な色合いが水を見る。鈍色が水面を乱す。鉄のような金魚の鱗は、刀の背にどこか似ていた。
 千鶴は慈愛の満月の色深く手桶の金魚へ微笑みかけ、繋がれた沖田の手を強く握った。
「あの硝子の鉢は、金魚球だったんですね」
「うん。吊るさないでも使える珍しいものだったから、千鶴ちゃんの部屋に置いてほしいなって」
「でも、なら金魚も、最初から入れてよかったんじゃないですか?」
「うん、そうなんだけど……なんとなく、君に選んでほしかったんだ。出来損ないを選んだのは、驚いたけどね」
 くすくすと白い喉を震わせる沖田に、千鶴は恥ずかしそうに目を伏せた。千鶴は黒い金魚が出来損ないなどとは思わず、選んだ金魚が偶々出来損ないだったのだ。千鶴は無知を恥じたのだろうが、沖田は無意識ながら千鶴が黒い出来損ないを選んだことがすこし心地よかった。綺麗なものだけが千鶴の視界に入ればいいと思っているが、その反面で自ら醜いものを選んだ千鶴の行動がひどく目に滲みるのだ。
 他愛ない会話を繰り返し、屯所に帰りついた頃には逢魔ヶ刻も過ぎていた。赤から群青に変わる空に、早駆けの一番星が煌めく。
 金魚をそっと手で掬い、金魚球に放せば、二匹の金魚は広くなった世界を堪能するように、ぷっくりと丸い体を揺らめかせ、鉄色と斑とがくるくる泳ぐ。窓から入る群青色の空を映した金魚球は小さな夜空のようだ。丸い金魚球の曲面から見えるそれに千鶴はほぅと陶酔混じりのため息を吐いて、綺麗ですねと子供のようにはしゃいだ。沖田は眉尻を下げ、そうだねとやわく眦を緩めた。
「黒い子も、こうして見るとなかなかに綺麗だね」
「ですよね。可愛いです」
 千鶴は金魚がいたく気に入った様子で、金魚球に指を添えて食い入るように金魚の舞う様を見ていた。それが嬉しいのか、沖田は頬杖をついて満足そうに千鶴と金魚球を見ていた。
硝子の向こうで、鈍色をした金魚の長い尾ひれがひらりと流れる。千鶴に選ばれたことで、この誰にも必要とされない醜い出来損ないの金魚は、広い世界と愛してくれるものと生きる意味生まれてきた意味とを、一度に手に入れたのだ。沖田は黒い金魚がすこし羨ましくなった。
「いいな、千鶴ちゃんにすくってもらえて」
「え?沖田さん、何か言いましたか?」
「なーんにも。金魚がお礼でも言ったんじゃない?」
「金魚がお礼ですか」
「すくってくれてありがとう、ってさ」
 ぱしゃり、と雫が跳ねた。硝子の縁を通り越して弧を描く雫は千鶴の手の背にぱた、と落ち、蝋燭の火を映して赤く血の雫のように輝いた。その雫なんて知らないよ、私たちのせいではないよ。と知らぬふりを決め込んだ黒と斑とは、悠々と透明な金魚球に彩りを与えながら群青の空を泳いでいた。