こいねがう

 花冷えの春は、雪は降らなくとも束の間冬が戻ってきたかのようで、咲き誇る刹那を待ちわびる花たちも風に綻び始めた蕾を揺らす。桜の蕾が擦れ合い、耳を澄ませばしゃらしゃらと女の簪のような音が聴こえる。
 しゃらり、しゃらりと鈴を鳴らす桜の蕾は、まるで別れを囁く雲雀の歌みたいで、咲くな咲くなと繰り返し呟いてしまう僕を、千鶴ちゃんは目を丸くして見上げて、どうしてですかとあの桜の囁きより濡れた声で聞いてきたっけ。あのときは、僕はたしか曖昧に笑って誤魔化したんだ。
 今は桜の花が咲き誇る春の盛りも過ぎた。葉桜の、新しい緑の交じった薄紅色は千鶴ちゃんに少し似ている。鮮やかに、でも淡く滲み出す月のような千鶴ちゃんの色は、きっと春の終わりの色なんだろう。夏に入る前の、温い時雨の色にも似ている。
 春の露を湛える千鶴ちゃんも可愛いけど、あんまり僕に隠れて泣かないでほしいなあ。可愛い泣き顔を見られないのもそうだけど、度々涙で悲しみを拭わなければならないほどに追い詰められた千鶴ちゃんが苦しいから。
 不意に袖を引かれた。右を見れば、彼女の顔を年齢より幾らも幼く見せる大きな蜜色の双眸を細く弓なりにして、千鶴ちゃんが微笑む。
「ねぇ、綺麗ですね」
「なにが?」
「桜の、あの緑と薄紅が交ざったあたりが、とても綺麗」
「そうだね、僕もそう思う」
「私、満開の桜より、葉の交じった桜が好き」
「どうして?」
「葉の交じった頃の桜って、総司さんに似てます」
 ああ、そんなこと。君の方が似ているじゃない、とか、僕はあんなに綺麗になれないよ、とか、茶化してでも君の方が桜より綺麗だよ、とか、頭には文字が浮かぶのに、言葉として出てくれない。なんでそんな寂しい目で言うんだろう。僕は言葉もでないじゃないか。
 僕の顔が、あんまり間抜けだったからかな、千鶴ちゃんはくすくすと喉を転がして、なんて顔してるんですか、なんて言って僕の空っぽの右手を握った。僕はやっぱり言葉が出なくて、その白い小さな手を握りかえした。
 なんて顔してるんですか、なんて、こっちが言いたいよ。散り際でなお、消えることを拒み、小枝の隙間にしがみつく桜に僕を重ねたのは無意識かもしれないけど、やっぱり君は泣きそうじゃないか。そんな顔をしていないでよ。
 桜を見る千鶴ちゃんを見ながら、僕は僕がいない世界を想像してみた。ここに立つのは、ひとつきりの影。なんて淋しいんだろう、こんなに綺麗な桜なのに。
 それできっと、千鶴ちゃんは泣いているね。僕は笑っていて欲しいんだけど、きっと千鶴ちゃんは泣いている。僕の隣じゃなきゃ泣いちゃだめって、何度も言っていたのに、僕の消えた空白に寄り添って、きっと千鶴ちゃんは泣いている。
 千鶴ちゃんには、笑っていて欲しいな。千鶴ちゃんが笑っていられるなら、僕のことをすっかり忘れてしまったって、構わないのに。そうだ、僕が死ぬそのときは、全部持っていけたらいい。千鶴ちゃんと出会った日のことも、暮らした記憶も、僕を愛しく思う感情も、僕があげた全ての物や感情や、それを受け取った千鶴ちゃんの笑顔の色まで、全て持っていけたらいい。そうしたら、千鶴ちゃんは笑っていられるよね。
「ねぇ、千鶴ちゃん」
「なあに、総司さん」
「泣かないでよ」
「ふふ、可笑しな総司さん。私、泣いてなんかないじゃないですか」
 ころころと鳴る鈴の声。赤くなる鼻の頭と目尻。薄く睫毛についた透明な玉。嘘が下手くそな千鶴ちゃん。
 僕は千鶴ちゃんが泣いているのは嫌だから、千鶴ちゃんの中の僕を全部を持っていってしまいたいよ。千鶴ちゃんが笑っていられるなら、僕のことを全部忘れちゃってもいいよ。僕の存在が、はじめから無かったことになったっていいよ。僕は嫌なやつだから、僕を忘れるために千鶴ちゃんが壊れてしまったっていいんだよ。それで、そのときの千鶴ちゃんが幸せで笑っていられるなら、僕を好きな今の千鶴ちゃんが壊れてしまってもいいんだよ。
 僕は降ってくる桜の花びらを一枚掴んで、千鶴ちゃんの長い睫毛の上に乗せた。驚いた千鶴ちゃんが瞬きをしても、睫毛についた水でぴったりくっついた花びらは落ちない。
 両目を閉じて、総司さんの意地悪、なんて唸りながら花びらを取ろうとする千鶴ちゃんの瞼に、花びらの上から口付けをした。唇を離すのと同時に、花びらはくるくる回りながら落ちた。
「ねぇ、笑って、千鶴ちゃん」
「総司さんが傍にいるときなら、私はいつも笑ってますよ」
「じゃあ、僕がいないときも、笑って」
「それは、無理です」
「どうして?」
「総司さんの前じゃないなら、笑う理由が、ないじゃないですか」
 だから無理ですよ、と笑って、人差し指で僕の鼻の頭をちょんとつつく。僕は千鶴ちゃんの鼻をえいとつつき返して、強情っ張りめ、と言った。そうしたら、ええ、強情ですよ、と開き直って笑うから、僕はなんだか可笑しくて笑ってしまった。
 ねぇ、本当は生きたいよ。死にたくはないよ。でもそれが無理だから、僕がいないこの家に残された千鶴ちゃんばっかり想像してしまう。片割れを失った小鳥のように、冬の枝にひとり身を震わせる思いは、千鶴ちゃんにしてほしくないよ。
 何を言っても思っても、そのときの僕は所詮奈落の底だ。なら、全部持っていきたいよ。そのときの千鶴ちゃんが幸せだと思えるなら、狂っても忘れても消えてもいいよ。千鶴ちゃんを苦しめるだけの僕なら、そんな影はいらないよ。
「ねぇ、千鶴ちゃん」
「なあに、総司さん」
「大好きだよ、ずっと」
「今更、ですね」
「今更だよ。だけど、大好き。僕の全部が、君を愛してる。ずっと、君に恋してる」
「私も、ずっと総司さんが大好き。総司さんだけが愛しくて、総司さんだけに、恋してる。悲しいくらい」
 さよならのときは近い。そのときに、笑顔でいてだなんて酷なお願いは、千鶴ちゃんを置いていく僕には出来ない。だからさよならするそのときは、目一杯に泣いてほしい。その涙と一緒に、僕の記憶もするりと頬を滑って落ちればいい。そうしたら、僕はその真珠を大事に抱いて灰になるから。
(ねぇ、もし僕の全部を忘れたら、千鶴ちゃんは笑ってくれる?)
 そんなこと、聞けるはずもないけど。それに聞かなくたって、僕は答えを知ってるもの。
 総司さんに出会って不幸になるより、総司さんを忘れて幸せになることの方が不幸です。きっと君はそう言うんだろうなあ。だって、僕がそうだから。羅刹になったって、どんなに苦しくたって、千鶴ちゃんに会わないままに死んでいく僕より、ずっとずっと幸せだ。
 それでも、自分勝手で最低な僕は、忘れてほしいと願ってしまう。先の千鶴ちゃんが笑ってくれるなら、僕の千鶴ちゃんじゃなくなってしまっても、構わないんだから。だからどうか幸せに、泣くことがないように、千鶴ちゃんの四季が笑顔で満ちるように、僕なんかは忘れて、壊れてしまってよ。僕の存在が、無に帰してしまうほどに、壊れてよ。
 千鶴ちゃんの未来に、どうか幸せだけが降りますように。僕はそれだけ祈りたい。