未だ蝉は木々の根元に眠ったまま、じわじわと太陽だけが熱を上げる初夏の朝は思いのほか涼しく、冴えた風は千鶴の手によって障子の隙間から沖田の元へと届けられる。不穏な気配など微塵もないような、穏やかな朝霧はここ数日続いていたが、霧に紛れ込んだ一点の墨は晴れることはない。
沖田さん、と入室の許可を請う声に、しかし沖田は答えない。動かない静寂に、千鶴が不安に目を見開くころ、やっと部屋から湿った咳が聞こえ、千鶴は思わず、半ば叫ぶように「沖田さん」と障子に手を掛けた。沖田の口から吐き出されているのだろう空気の塊に混じって、鋭い制止の声が途切れ途切れに静かな朝の風に乗る。
千鶴の手によってその障子が開かれる前に、隙間すら開かぬ間に、沖田の「開けるな!」と搾り出した、しかし明瞭に響く声が千鶴の肩を萎縮させた。続く苦しげな咳の音だけが朝霧に響いては消えていくが、せめて傍にという千鶴の願いは、続く沖田の「来ないで、お願い」と茶化したような声の哀願に虚しく打ち消され、千鶴は不安にたわむ胸を押さえつけてその場に立ち尽くすしかなかった。
沖田は部屋の障子に映る、大人しい千鶴の影をちろりと見て、そう、言い子だね。そう言って誰知らず微笑んだ。発作は雪解け頃からぐっと頻繁になり、始めの頃こそ千鶴の手を受け入れていた沖田だが、血を吐いた頃から、発作のときは千鶴を一切近づけなくなった。良順や他の女中などは渋々ながらその手を借りることもあるが、千鶴だけは何が起ころうとも近づけることはない。それどころか、普段からも千鶴との接触を避け、言葉を交わし傍に寄ることは以前と同じように好んでするが、その手に触れることも、いたずらに髪を梳くこともなくなった。それに少し寂しいように目を細める千鶴に気付かない沖田ではないが、見ないふりを通している。
やがて咳の波も治まるころに、沖田は額に浮かぶ脂汗を拭い、疲れたようなため息をひとつ落として、入ってもいいよ、とやっと千鶴の入室を許した。
から、と軽い音をたてて滑る障子の、その向こうにある潤んだ千鶴の双眸に申し訳なさそうに眉尻を下げて「今日の朝餉は?」と何事もなかったかのように目を細めた。千鶴も、なんでもない風を装って盆を運んでくるが、嘘を吐くことに慣れていない千鶴は目に浮かぶ色までは隠しきれずに、それを見付けた沖田はどうするでもなく微笑んでみせる。
くだらない話を織り交ぜながら短い食事は済み、仕舞いに温い白湯と薬を飲み干して、空になった湯飲みと包み紙とを見せ、ほら、ちゃんと飲んだよ。そう言って沖田は苦笑するように眉を寄せて笑った。それに対して千鶴は、当たり前です、とちょっと呆れたように息を吐く。沖田があまりに薬を飲まないから、千鶴は薬を飲むのを見届けるようになった。そうなると沖田も誤魔化しきれずに、渋々と薬を含むのだが、千鶴の目を盗んでは薬を箪笥の裏に隠しているのを、千鶴は知らない。
「ねぇ、千鶴ちゃん。今日は結構、調子がいいんだ。だから、ちょっとだけ外に出てもいい?」
「駄目ですよ、そんなの。さっき発作を起こしたばかりでしょう」
「ちょっとだけだよ。縁側から先には出ないから」
「駄目です」
「ねぇ、お願い。こんな風も入らない部屋にずっといたら、病で死ぬ前に腐ってしまうよ」
再度「お願い」と両手を合わせる沖田に、千鶴は渋々と頷いて、本当にちょっとだけですよ、と釘を刺した。沖田はそんな千鶴の声なんて聞こえないように、やった、と今すぐ飛び出しかねない勢いでやたらめったらに喜ぶものだから、千鶴はお説教をする気も失せてしまって、盆を片付けてくるからそれまで待っていてくださいね、と蜜色の双眸をやわくゆるめる。沖田は今度ばかりは聞き分けよく、わかったよ。と何度も頷く。子供のような仕草に千鶴は思わずくすりと笑い、早く沖田の願いを叶えてやろうと自然と足も急いた。
ゆっくりと流れていったような時間はしかし均一で、太陽がもう中ごろに行こうか行くまいかと迷う時分になっていた。いよいよ萌える木々の葉が、こぞって新緑を振りかざしてはさらさらと音をたてて擦れ合う。花が散った桜も、緑色に装いを改めている。こんな当たり前のものも届かない部屋にこもりっきりでは、奔放な気性の沖田が狭苦しく思うのも道理である。千鶴は目を細くして薄青の空を見上げ、走ってく雲を目で追った。白い、所々灰色の影が落ちた雲は沖田に似ているような気がした。
部屋で千鶴を待つ沖田はといえば、もうおとなしくしているはずはなく、本来ならば上体を起こすだけで疲労を感じる体で立ち、なまってしまった足を慣らすように部屋の中をぐるぐると歩いた。千鶴に見つかれば、ものすごい勢いで叱咤されるのだろうが、そんなことも気にならないくらいに沖田は機嫌が良い。体調は実を言うならば決して良くはないが、久々に寝たきりから解放されるとあって、体の不調をすら補うくらい沖田は機嫌が良かった。
やや早足で戻ってきた千鶴は、立ち上がって「遅いじゃない、千鶴ちゃん」なんて拗ねた顔をする沖田に目を見開いて、数秒呆然とした後、沖田の想像通りに烈火の勢いで怒り出したのだが、そのお説教は思いのほか短く済み、それは千鶴も早く沖田を部屋から出してやりたい、と思っていることを無言に示していた。それに深い色の目をすっと細めて微笑み、沖田と千鶴は縁側に出た。
刺す陽光に一瞬、眩しげに目を閉ざし、沖田は「久々に見るお天道さんは眩しいね」なんて千鶴を見て目を細める。縁側に腰掛けた二人の間を初夏の爽やかな風がすり抜けていく。二人の間は拳ひとつ分程の隙間があり、それはまるで沖田が千鶴を近づける限界の距離を表しているような気がして、その小さい距離に千鶴は不意に泣きそうになってしまった。以前ならばさらりと千鶴の手を握ってみたり、節くれだった指で頬を包んでみたりとしたものだが、沖田はある一定から千鶴に決して触れようとはしない。千鶴のこみ上げる涙の音を隠すように、庭の木々はさらさらと二人の耳と目を塞ぐ。
「綺麗だね。前はこんなこと、さっぱり思わなかったけど」
「そうですね。あと少ししたら、夏になります。夏は緑が深くなって、きっともっと綺麗ですよ」
「夏かぁ。そうしたら、蛍を見に行きたいね。僕の体調が良い日にでも、二人で」
「はい、行きたいですね」
「京の夏は蒸したなぁ。江戸はからっとしてるからいいけど、京の夏は堪らなかった。懐かしいね」
「平助君と永倉さんが、屯所の中にまで水を撒いてしまって、怒られてましたよね」
「ふふ、そんなこともあったね。あのときの土方さんの形相ったら、昼間なのに鬼が出たのかと思ったよね」
懐かしい京都のことなど話す間に、太陽は二人を置いて随分と進んでいったらしく、真ん中より少し傾く太陽はふふんと胸を張って過ぎた時間の大きさを千鶴に見せ付けた。昼を過ぎて、より熱く照りつける陽光に沖田は額に手を翳し、眩しいなぁ、とやけに嬉しそうに呟いた。
時間は過ぎれども、二人の間にぽっかりと存在する拳ひとつ分の穴は埋まることはなく、千鶴は行儀よく膝の上に手を重ね、沖田の手は大分伸びてしまった髪を摘んでみたりしていた。
さやさやと葉を揺らす風は千鶴の夜色の髪も流し、沖田は真昼に流れる一筋の夜に香りそうな想いを見出しながらも、その髪に触れることはなかった。無意識の内に動いた指が沖田の意識に理性を戻し、なんにもなかったように空を仰ぐ沖田の目はしかし揺れていた。
雲は先より早足に、しかし沖田から見れば随分のったりと進んでいく。町並みに吸い込まれていくひとつの白い塊を見届けると、千鶴から「そろそろ戻りましょう」と声が掛かる。ちろりと見やった千鶴の目は沖田への心遣いが深く刻まれ、その色に満足したように笑って「うん、戻ろうか」とあっさりと退いてみせた。
先に千鶴が立ち上がり、沖田を支えたいような素振りを見せたが、沖田は知らぬふりをして続こうとした。しかし病に痩せた足はそう上手くは動いてくれなく、ちょっとよろけた沖田は咄嗟に膝を着くことも出来ず、差し出された千鶴の手を取った。しかしそれも刹那のことで、はっと千鶴の手に気付いた沖田は「ごめん」と短く言い、さっとその手を離してしまう。千鶴は「いいえ」と笑ってはみせるが、触れた右手を確かめるように重ねられた左手には、どこか切なげに力が篭っていた。
部屋に戻るまで一緒に、と言う千鶴を制し、ひとり自室で布団に転がる沖田は、空咳をいくつか落とした後、一瞬だけ重なってしまった左手をじ、と眺めた。沖田が千鶴に触れたのはいつぶりだろうか。それすら忘れてしまう程、千鶴のぬくもりから遠ざかっていた手はまだ触れていたいと千鶴を欲しているようで、肌に残る吸い付くような感触をただ抱きしめた。自らを戒めることはなかなかに得意だったはずなのにな、と自嘲に口角を上げ、温もりの残滓にしがみつく左手を畳に投げた。むき出しの痩せた手首は頼りなく、古くくすんだ畳と同じ色をしていた。
遣る瀬無さに重い瞼を落としてみても、闇に浮かぶのは何の躊躇も無く千鶴に触れていた、あの春の京都での日々で、青空に映える千鶴の笑みが、耐えられなくて眼を開いた後にも灰色の天井に浮かんで見えるように、胸に残る。静かで、たおやかで、きらびやかな笑みをなみなみと湛えたあの光の色の目が笑うのを最後に見たのはいつだったのか、もう沖田には思い出せない。記憶にあるのは、温かでゆたかで、それでいて侘しさを含んだ別れのようなものしかない。
すこしだけ部屋に入ってくる隙間風が、波立った沖田の心を更に騒がせる。もう腕を振って抵抗することを諦めてしまった沖田に、まだ腕を振れと騒ぎ立てる。もうそんな力もないよ。そう眼前に迫る無限に呟いて、お別れをするように小さく手を振った。ただ、それでも胸に消え残る薄紅色の影が風を立てて、沖田の胸が凪ぐことはなかった。