盲目の秋U

 外気は多くの水を孕み、じっとりと肌に張り付く生温い空気がすこし寝苦しい。昼にはそろそろ他よりも幾らかせっかちな蝉が鳴き始める頃だろうか。さらさらと夏の訪れを待ちわびる葉の歌は深く緑色を増し、水が落ちるようなその音は暑い夜にほんの少しだけ涼を添えた。
 蝉が落ち、蜻蛉の飛ぶまで生きていられるのだろうか。沖田は窓の外に横たわる闇へと視線を投げる。地の中に眠っているだろう夏を待つ虫の翅に、その透明を見るまではと思いを乗せてはみるけれど、その思いに比例するように、持ち上げようとした腕は重かった。
 たん、と小さく板を踏む音がして、沖田は夜を告げる聞きなれたその音をもう随分と体も馴染んでしまった布団の中で聞いた。耳に心地よい床板が軋む音は、もはや歩くことすら難儀になった沖田にとって春を告げる雲雀の歌だ。顔を向ければ、姿は未だ見えずとも音が黒髪の美しい女の姿を届けているようで、初夏の木々にも負けない深い緑色の双眸を細くした。
「沖田さん、入りますよ」
「うん」
 すっと開く襖に添えられた指は決して他より白いとは言えず、欠けた右の中指の爪がまるでそんなことを気にする暇などないのだと言っているようで、沖田はその手を包みたくて布団の中で少し指を折り曲げた。
 髪を下ろし、質素な小袖姿の千鶴にも、はじめの方こそ少々らしくないなどと思ってしまっていたが、今はもう見慣れて、当たり前のようになっていた。低い位置で纏められた長い髪は胸の下まで垂れ、前と変わらぬふたつの満月を抱く目元はしかしずっと大人びた。それでも、沖田の視線に気付き、どうしたんですか、と微笑む仕草はどこかあどけない少女の色を残したままだ。
 千鶴は毎日、日々の仕事が片付いた後、一日の終わりに沖田の部屋へ火を消しに来る。以前は沖田が自分で消していたが、もう起き上がり火を吹き消すことすら辛い沖田のために、千鶴は毎日の終わりに沖田の部屋へやってくる。それが時間を窓からしか読み取れない沖田にとってはその日の終わりを告げる証になり、最近は千鶴が来るまではまったく眠気など感じないのに、千鶴が来て帰ると急に眠くなってくることすらあった。
 ぼんやりと輪郭を暈かし、仄明るく照らされた千鶴の微笑みに沖田はそっと笑い返して、明かりを消しに来ましたよと光源の傍らに座る千鶴をじ、と見た。肌は年齢相応に荒れていく。髪の艶は失われつつある。それでも、千鶴の美しさが損なわれることは微塵もなく、沖田の目にはむしろ年月を重ねる毎に、まるで肉体に反するように美しくなっていくように映る。
 まだ若いとはいえ、婚期を逃し、娘盛りを過ぎ、女としての幸福も楽しみも捨て、それでも文句のひとつも泣き言のひとつも言わずに、寝たきりの自分に寄り添う千鶴を愛することは、沖田にとってはごく自然で、そこにたどり着くまでには迷いなど生じなかった。ただたどり着いたとて、そこに相手の気持ちが重なっているかはわからない。最近まで沖田はそのことをすっかり失念していたのだが、死期が近づく今になって、急にそれが不安になってきている。沖田は自分があんまり自然に千鶴を愛していたから、てっきり相手もそうだとばかり思っていた。しかし、そうだとは限らないのだ。体はおろか、唇さえ重ねたことのない二人の想いが重なっていると、どうやって断言できようか。
 沖田がゆらゆら揺れる明かりに照らされた千鶴を見ていると、千鶴はくすりと笑いを漏らした。沖田と目を合わせたいように首をちょっと傾げる。
「どうしたんですか、沖田さん」
「ん? 見てただけ」
「嘘。絶対、なにか考えてたでしょう」
「なんにもないったら」
「もう、私が今更、そんな簡単な嘘に騙されると思ってるんですか?」
 ほらほら言ってください。楽しそうに笑う千鶴に苦笑して、本当に何でもないのにとため息混じりに吐き出した。
 言ってしまっていいものか、と塵の欠片も浮かばない千鶴の目に、少し迷う。しかし、今を逃してはきっと機会はないだろうと、沖田は腹を括った。これを逃してしまえば、この想いは沖田の胸に仕舞われたまま葬られることになるだろうと、そう思ったのだ。それでもやっぱり真剣な雰囲気に持っていくのは怖くて、茶化したような物言いになってしまうのだけれど。
「こんなに綺麗なのになあって、思っただけ」
「何がですか?」
「千鶴ちゃんが。こんなに綺麗なのに、どこにも嫁に行かないなんて、勿体無いねって」
「今更、どこに嫁に行こうとも思いませんよ」
「そう、だから勿体無いって、思ったの」
 僕なんかに構っているから、そうして自分の幸せを逃すんだ。そう言いかけて、飲み込んだ。そう言ってしまったら、千鶴が悲しむことなんて分かりきっている。それに、もしそれでじゃあどこぞにでも嫁に行きますなどと言われてしまうことがあるかもしれないと思うと、恐ろしくてとても言えるものではなかった。
 沖田の目に掛かった前髪の房を摘んで退けてやると、千鶴はもう明かりを消しますよと言ったが、沖田はもうちょっとだけ待って、と千鶴の裾を掴んだ。千鶴がわかりましたと微笑み、その手を包もうとすると、沖田はすぐに手を布団の中に逃がしてしまった。
 あ、と思わず声を漏らした千鶴に苦笑して、胸の中でだけごめんねと謝った。布団の中の右手が、ひどく寒い心地がした。
「勿体無いね。だから、僕が娶ってあげるよ」
「え?」
「だって、勿体無いでしょ? どうせなら、僕が娶ってあげる」
 空々と冗談めかして笑う沖田に、千鶴も喉で笑う。千鶴の自らの裾を握る手に、ぎゅっと力が篭るのを、沖田は怖いような目で見ていた。
「ふふ、仮にも武家の沖田家に、町医者の娘なんかが嫁入り出来ませんよ」
「そう? 別に僕が跡を継ぐわけでもないんだから、いいと思うけど」
「それでも、無理です。でも、すごく、嬉しい」
 涙を零すまいと、瞬きが多くなる千鶴に、沖田はほ、と息を漏らした。嬉しいと、その一言だけでも救われる気がしたのだ。ああ確かに愛されていたと、そう思うだけで沖田の恐怖に震えていた心は変わる。先の見えないどころか、先は暗闇と決まっている沖田の言葉に、嬉しいと涙を堪える千鶴が愛しくて、沖田は誘われそうになる涙を飲み込んだ。千鶴が泣かないのなら、自分も泣いてはいけないと思った。
 暫しの沈黙の後、沖田はそろそろ明かりを消してよ、と先ほどまでより安らいだような微笑を浮かべた。千鶴はちょっと焦りながら、はい、今消しますねと小さな火を吹き消した。
 真っ暗になった室内で、夜目に慣れない沖田の目が千鶴を捉えることはない。きし、と退室を告げる音がして、千鶴がもう襖に手を掛けているのだろうことが沖田にも窺い知れた。
「では、おやすみなさい、沖田さん」
「うん、おやすみ、千鶴ちゃん」
「はい、また明日来ますね」
「ありがとう、おやすみ」
 幾度にも重ねられる挨拶は、まるで別れを惜しむようだ。もう日常の挨拶として定着してしまったこの厚い挨拶は、まさに別れを惜しむ沖田と千鶴の情が反映されているのだろう。
 す、と襖の滑る音、離れていく足音に耳を澄ませ、沖田はひとつ欠伸を漏らす。窓を見れば、時間のせいか雲のせいか、闇に月が浮かぶことはなかった。
 ああ、月がないなあ。窓の輪郭だけが薄っすらと見える、小さな星の瞬きに目を細くして、沖田はせめて瞼に月を浮かべようかと目を閉じた。