盲目の秋V

 もう覗き見ることすら叶わない外の世界では、もう蝉がけたたましく鳴き、やっと訪れた夏を祝う虫たちが煩いくらいに乱れ飛んでいることだろう。隔離されたこの部屋にも、やかましい音の片鱗くらいは聞こえて、僕はああもう夏なのか、と足を忍ばせて近づく太陽の影を感じた。
 大した時間は残されていないのだろうと、僕が一番に良く分かっていた。でもそれを言ってしまうと、千鶴ちゃんがそんなことは言わないでと泣いてしまうと思うから、なんでもないよと笑っている。けれど誰の目から見ても、僕の命が残り少ないのは明白で、きっと千鶴ちゃんも、いつまでも目を逸らしてはいられないだろう。勿論、僕も。
 良い匂いが僕の部屋まで舞い込んできて、幾刻も経たないうちに、千鶴ちゃんが朝餉を持って来る。ひとりで身を起こすことも出来ない僕を支えながら、食べやすいように、体に良いようにと工夫を凝らした朝餉は良い匂いだしおいしそうだとも思うんだけど、最近はどうしても食が進まなくて、その度に少し悲しげに眉尻を下げる千鶴ちゃんが可哀想で仕方がない。それでも、おまけに付いてくる薬は、やっぱりいただけないんだけれども。
「おはようございます、沖田さん。良い朝ですね」
「おはよう、千鶴ちゃん。今日もおいしそうだね」
「ふふ、ありがとうございます。大分、上達したでしょう?」
「そうだね。前よりずっと、上手になった」
 こうして暮らしている内に、千鶴ちゃんは色んなことが上手になった。料理も、掃除も、洗濯も、僕を支えるのだって、初めの頃よりもずっと上手くなった。それは長い年月を重ねてきたから当たり前なんだけど、僕は千鶴ちゃんの成長がいつも嬉しくて、些細なことでも褒める癖がついてしまった。
 手伝ってもらわないと食事すら出来なくなってしまって、色んなことに千鶴ちゃんの手を借りなければならないようになってしまった。一度それが申し訳なくて、僕は柄にも無く謝ってみたのだけれど、千鶴ちゃんがくすくす笑って、甘えてもらっているようで嬉しい、だなんて言ったから、僕はなんだか気恥ずかしくて、それ以降はお礼は言っても謝ったことはない。今思えば、千鶴ちゃんなりの虚勢だったんだろうと思う。気まで弱くなってしまった僕が、悲しかったのかもしれない。
 動かない分、あまり腹も空かないから、そんなに量はいらない。早すぎるような食事が終ると、千鶴ちゃんがはい、と素早く薬と白湯を僕に押し付ける。それはもう、手馴れた動作で。にっこりと笑う千鶴ちゃんに、僕は何か言おうと空気を吸い込んだけど、それが言葉になって口から出て行く前に、千鶴ちゃんが「飲まないと駄目ですよ」と笑顔を一欠片も崩さないままに、怖いくらい優しい声色で言った。
 薬だけは、どうも嫌だ。以前に、まだ体がここまで不自由になる前は、飲んだふりをしてこっそり箪笥の裏に隠していたんだけれど、今はそんな隙すら与えてもらえない。箪笥の裏に隠した分も、見つかったときは本当に、少しは病人を労わってくれって思うくらいひどくお説教されて、しかもその後は後生だから飲んでくださいと泣き付かれて、ほとほと参ってしまった。お説教はともかく、泣くのは卑怯だよ。僕はどうにも出来なくなってしまうじゃない。
 もうこの命だって長くないんだから、今更、薬なんて飲まなくてもいいんじゃないかなぁと思うんだけど、それを言ったら千鶴ちゃんはきっと泣いてしまう。でも、僕も薬を飲むのは嫌なんだよね。
「……どうしても、飲まなきゃ、駄目?」
「どうしても飲まなきゃ駄目です」
「何があっても?」
「何があっても」
「うー」
「唸っても駄目です」
 ぴんと背筋を伸ばして正座した千鶴ちゃんは、なんだか逆らえないような雰囲気があって、それが僕の姉と少し似ていた。薬は嫌いだけど、こうして千鶴ちゃんがなんとしても飲まなきゃ駄目だと言ってくれるのは、僕を案じてくれているのが目に見えて、少し嬉しい。そんなことを思っていたら、自然と頬が緩んでいたようで、千鶴ちゃんが「なに笑ってるんですか」と、ちょっと怒ったような声で言った。
 苦い薬を一息に飲み干すと、それでも舌の上には吐きたいくらいの苦味が広がって、うげぇ、と思わず声を漏らした僕に、千鶴ちゃんが良く出来ました、とくすくす笑いながら言った。そんな幼子を褒めるように言われてもなんにも嬉しくないけれど。
 千鶴ちゃんが僕に微笑む度に、その笑顔があんまり可愛いから、僕はつい手を伸ばしたくなる。でも僕は、病を抱えたこの身のままで実際に手を伸ばして、千鶴ちゃんの頬を包む勇気なんてなく、そんな勇気なんていらないとも思う。ただ、たまに、もしもこの病が伝染するものではなかったら、と心の中で嘆いてみるだけだ。
 でも、触ることは出来ないけれど、この病が頭や目に影響を及ぼすものでなくてよかったと思う。だってもし頭の病だったとしたら、時間と共に千鶴ちゃんのことを忘れてしまう日が来るかもしれない。もし目の病だったなら、二度と千鶴ちゃんの顔を見ることは出来ない。もし耳の病だったなら、あの可愛い声を追うことも出来ない。これが肺の病だったことは、僕にとってせめてもの幸運だったのかもしれない。
 今まで、そんなことは思っても口に出したことはなかった。だって、言ってしまったら、二人で必死に積み上げてきたなにかが崩れてしまうと思ったから。でも、でもね、今は、もう最期だから。もうすぐ最期で、言う機会すら奪われてしまうから、今日はこっそり言ってみようと思うんだ。言わないで後悔しながら死ぬなんてことは、したくないから。
「ねぇ、千鶴ちゃん」
「なんですか、総司さん」
「なんで僕は、君に触れてはならない病にかかってしまったんだろうね」
「え?」
「別の病だったなら、たとえ同じ命に関わるものだとしても、君に触れてもよかったのかな、って、思ったんだ。別に、今更この病を恨む気持ちなんてないけど、ただ、千鶴ちゃんに触れてはいけなかったことだけは、少し恨めしいから」
 千鶴ちゃんの双眸に、どう形容していいのか分からない色が混じる。ただ、薄い涙で揺れた二つの満月が、悲しみに揺れているのではないことを、僕はそっと願うだけだった。ちょっと俯いた千鶴ちゃんを追って、前髪が黒く顔を覆ってしまう。常のように寝ていたならば、俯いた千鶴ちゃんの表情を覗き見れたのだろうけど、上体を起こした今は見ることが叶わない。
 かたかたと小さく肩を震わせて俯く千鶴ちゃんを待っていると、不意に投げ出していた手を掴まれた。否、掴まれた、というよりも、包まれた、の方が正しいかもしれない。驚いて目を見開いた、その瞬間に頬に触れた熱に、僕の中には驚きを通り越して焦りが湧き上がってきた。跳ね除けようとした腕は上手く動かなく、今ほど病が恨めしいと思ったことは、きっとない。
 きっと、本当に一瞬と言っていいほどに、短い間だったんだと思う。でも、それだって危ういことなんだって、千鶴ちゃんは知っているはずなのに。僕は荒くなる声をどうにも抑えることが出来なくて、肺一杯に吸い込んだ空気を余すことなく吐き出した。
「千鶴ちゃん!!」
「はい」
 僕の言わんとしていることなんて、千鶴ちゃんは分かっているんだろう。でも千鶴ちゃんは微笑んだままで、危機感のない表情に僕の焦りは半分怒りへと姿を変え始めていた。
「そういうことをして欲しいわけじゃ、ないんだよ。千鶴ちゃんだって分かってるでしょ。もしも君に病がうつったら、どうするの!」
「はい、わかってます」
「じゃあどうして!」
「私はうつっても構わないですけど、沖田さんが悲しむから、そんなことはしません。でも、もうしませんから、許して下さい。沖田さんの頬に、口付けるくらいは」
 泣き出しそうに顔を歪めた千鶴ちゃんが、無理矢理に微笑むから、僕は何も言えなくなってしまった。大丈夫だから、きっとうつったりしないからと言う千鶴ちゃんを撥ね付けることが出来ないくらい、僕が弱くなってしまったのかもしれない。もう一度だけと、乾いた僕の頬に口付ける千鶴ちゃんの涙が、長い睫毛を伝って僕の頬に水滴をひとつ残した。垢っぽい皮膚についた水は落ちていくこともなく、ただ涙に成り損ねた水が歪な形で頬に張り付いていた。
 今でさえこんなに泣き虫で、こんな些細な事ですら涙を流しているのに、近々に僕が死ぬとき、この子は一体どうなってしまうんだろうか。
 きっと死の床で、力なく転がる僕の姿に、可愛い目を驚きに染めるのだろう。もう僕の手は上がらないだろう、もう僕の喉は「千鶴ちゃん」と名を呼ぶことすら出来ないだろう、だから目を細くして笑うことしか出来ない僕に、千鶴ちゃんはただ泣いて欲しい。そのときは、なにも考えていては嫌だ。たとえそれが僕の為に考えてくれているのでも嫌。ただ、いつもは風に抱かれ揺れる豊かな睫毛に水滴を飾り、蜜色の双眸にはららかに涙を含んで、そっと僕の上に胸を開いて。僕の胸にうつ伏して、病に痩せた背を強く掻き抱いて、そのまま殺してしまってもいい。
 そうして僕の体が死んだなら、もう病に汚れた血を吐くこともない唇に、そっと触れるだけの口付けをちょうだい。短いそれが離れたら、どうか千鶴ちゃんの温かな涙が僕の眦に落ちて、まるで僕のもののように僕の乾いて引きつった肌を滑っていくまで、僕の落とされた瞼を、じ、と見ていて。そのときに、君が好きだと言ってくれた、この猫毛の髪を指で梳いてくれたら嬉しい。
 それすらも過ぎてしまったら、涙を拭いて、泣き腫らした赤い目で微笑んで、僕の名前を一度だけ呼んで。一度だけがいい。それが、僕の名前を呼ぶ最後がいい。だから可愛い目を細くして、艶めかしい薄紅の唇にゆるい弧を貼り付けて、ただ鮮やかな笑顔を死んだ僕に注いで欲しい。
 その笑顔を消したときに、どうか一緒に僕のことも忘れてしまって。真っ白で空っぽに還った胸に、新しい幸せを満たして欲しい。
 でも我儘を言ってもいいのなら、もう二度と、どうか二度と泣かないで下さい。それが千鶴ちゃん自身のためでも、僕のためでも、他の誰かのためでもだめ。君だけは、もう二度と泣かないで。




すれば私は心地よく、うねうねの黄泉路の怪をのぼりゆく
title by.中原中也 盲目の秋より一部抜粋