こっちにおいで

 自らの肉と皮に包んだその鋭い気配の欠片すら覚らせない、しなやかな獣の足取りで、ちょっと離れた背後から一度だけ名前を呼ぶ。睦言でも囁くような声色で、それが相手に聞こえようが聞こえまいが構わないような小さな音で、決して繰り返すことなく名前を呼ぶ。千鶴が少しだけ肩を震わせて振り向けば、何も言わずに千鶴を見て、二、三手招きをする。それに千鶴は眦を下げて、苦笑のように僅かに眉を寄せた。
 始めのうちは何だろうかと小首を傾げていた千鶴だったが、新選組と共にあって何年もの月日を過ごした今では、それが沖田が自分を呼ぶときの仕草であり、しかも特に、何かからかうようなことがあるときのものだと知っていた。だから千鶴は小さなため息をひとつ、沖田からはわからないようにこっそりと吐き出して、何でしょうかと頭ひとつ分よりずっと高い沖田の顔を見上げて駆け寄った。
 それを鼠を待ち伏せする猫の双眸でじ、と見つめ、沖田はにんまりと口角を上げた。夏の庭にはこびる大葉子の葉の青を瞳の奥に沈め、千鶴の日に透かした菊花の花弁の色をした丸い目を覗き込む。そこに何か沖田の危惧する色が見えなかったので、ほぅと肩の力を抜いた。しかし千鶴はそれには気付かず、少しの距離を保ったままに立ち止まって、また小さく首を傾げた。そうしてから、不意にいたずらに微笑むと、右手の指を自らの唇に当てころりとひとつ笑った。
「沖田さん、また山崎さんに怒られちゃいますよ」
「なんで山崎くん?」
「体調が良いからってふらふら歩き回っていたら、そりゃ怒りますよ」
 両手を腰にやって怒るふりをする千鶴に、沖田はゆるゆると目を細くして、白い喉を鳴らした。
「ふふ、でも、千鶴ちゃんは怒らないんだ?」
「もう諦めました」
「それは、ありがとう」
 引きつりそうになる喉を庇うように右手を顎にやって、掠れた音でくすくす笑った。以前、嫌という程に道場に響かせていた厳しい気合いとは全く別の色をしたその音が、高鳴ることですら酷く痛む心臓に爪を立てた。
 弱くなってみて、初めて周囲の強さに気付いた。脆弱だ貧弱だと蔑み、路傍の小石程度と爪先程も気に止めなかったものが、内に潜めていた美しいまでの強固なものに気付いた。両足でしかと地を掴み立つことが、どんなにか難しかったのだろうと気付いた。ましてや千鶴は、踏み締めるべき地そのものが、ゆらりくらりと揺らいでいたというのに。
 「沖田総司」という入れ物の強さは、近藤のためでもなく、ましてや千鶴を守るためなんぞでもなく、ただ中身の脆さを補うためだったのだろうと、他人事のように沖田は考える。僅かな衝撃でも端からぼろぼろと崩れていってしまうような中身を守るために、外の箱をとびきり強くしたのだ。ただそれに気付きもせず、あんまり派手に使いすぎたから、錆び付いてしまったのだ。鋏のように。
 見かけ倒しだったのだ、きっと。沖田はそう胸で自嘲して、三歩分先の千鶴に手を伸ばそうと人差し指を動かしたが、それ以上を戒める程度の強さは保っていた。それは沖田が決して得ることの出来ない強さを持つ千鶴に縋ることで、惨めになりそうな自身を守るための防衛本能だったかもしれない。
 枯れそうに深緑色をした大葉子が、花の暮れゆく庭にはびこっている。人の踏む道に、沖田が良く歩く場所だけに、大葉子の葉が広がっている。沖田はそこまで頻繁に庭に出るわけではないから、大葉子が生えるような道が残るわけがないのに。
 沖田は同じ色をした目を僅かに見開いて、いつの間にやら庭に広がっていた大葉子の掠れた緑を見つめた。風に揺れることすらない葉は、自ら望んで錆びた血の色をした地に這いつくばっている。
 大葉子から目を逸らさないままに、沖田は降り始めた小雨の音でぽつりと口を開く。灰色の蜆蝶がふらりと花のない大葉子を掠めていった。
「相撲取草が枯れそうだ」
「もう、秋が来ますね」
「うん」
 くらくらと黄昏の赤に沈んでいく晩夏の庭に、塀越しの蜩の声が忍び込む。それに驚いたように、小さな蜆蝶は青草の影に消えた。
 千鶴は庭に下り、先が灰色に枯れた大葉子の茎を二本摘み取った。何をしてるの、と問う沖田の目を庭から見上げて、千鶴は相撲取草ですよと二本の茎をちょっとだけ振ってみせた。
「どっちがいいですか?」
「え?」
「どっちか選んで下さい。遊びましょう」
 ほら、と二本の大葉子の茎を差し出すと、沖田は難しく唇と眉を歪めたが、ため息と共に破顔した。つられて千鶴が笑ったから、余計に笑みを深くした。
 沖田が右の茎を取ると、千鶴はそれに左の茎を交差させた。茎の両端を持って向かい合うと、童心に帰ったようで、妙に照れ臭いような気分になる。
 少し茎を引いた瞬間に、そうだ、と千鶴が目を輝かせたから、沖田は込めた力を抜いて千鶴を見た。
 カナカナ、と遠くから蜩の声が聞こえる。怯えた灰の蝶は落ちたまま姿を見せることはなく、夏の終わりを告げる風は僅かに冷たかった。
「負けた方が、勝った方の言うことをひとつ、聞きましょう」
「いいの? そんなこと言って」
「どうしてですか?」
「だって僕が勝ったら、山崎くんを部屋に入れないで、とか、十日間は薬を飲みたくないとか、言うかもよ?」
「えっ、それは困ります!」
 途端に眉尻を下げた千鶴に、沖田はくすくす笑った。千鶴の素直な反応は、いつだって楽しい。
 大丈夫、そんなこと言わないよと笑ってみせても、疑り深い蜜色の目はじっとりと沖田を睨む。本当ですか、と僅かに低い声で言うから、本当だよ、と言ったのに、千鶴の目から窺う色は消えない。いつの間にこんな疑り深い子になったのだろうかと考えて、自分が散々にからかったせいかと気付いて、なんだか少し嬉しくなった。
 まあいいですと僅かに瞼を落として、聞き分けのない幼子の頭を撫でるように口角を持ち上げた。
 茎の端を持って、少し引く。大葉子の茎は切れる様子もなく、緩くその身を絡めあっている。
「言っておくけど、僕、負けないよ」
「私だって」
 互いの目を見て、ひとつ笑った。
 青臭い茎を目一杯に引いてやれば、きしきしと擦れる音がする間もなく、ぶちんと迷いない響きを残して、大葉子の茎は切れる。残った片方には、切れた茎から染みでた汁が、茎の緑を深めるのみだ。
 一瞬で終わってしまった戯れに、不意に夏の終わりを感じた。線香花火が落ちるような寂しさが胸を掠めて、沖田はほんの少しだけ眉尻を下げた。
 薄く蜩の声だけが、共に時間まで切ってしまった大葉子の茎が残した静寂の上に積もっていく。赤と白の交わる空に、鈴虫の鳴き声がちらほらと弾けだす。箱庭に黄昏が秋を連れてきてしまう。
 切れたのは、千鶴の持つ方だった。
「私の負け、ですね」
「うん、僕の勝ちだね」
「約束ですから、何か言ってください」
「そう言われてもなぁ。山崎くんは追い出せないし、薬も飲まなきゃ駄目なんでしょ?」
「当たり前です」
「うーん、困ったなぁ」
 小首を傾げて、思案する素振りを見せる沖田に、千鶴はむっと頬を膨らませて、二秒後に、悲しげに眼差しを伏せた。満月の色をした明眸が、不安定に揺らぐ地ばかりを映す。  それが落日のように寂寥の情に拍車をかけ、沖田はたまらず名前を呼んだ。先のように、消えそうな音で。
 しかし千鶴はその声を拾うことはなく、むしろ、被せるように強い調子で、沖田さん、と名前を呼んだ。それからゆっくり眼を上げる。良く見知った緑色に、泣きそうな千鶴の顔が映る。なんて阿呆面だろう、と千鶴は少し笑いたくなった。
「勝ったのに、なんでそんな顔するんですか」
「そんな顔って、どんな?」
「わかりませんか?」
 射抜くような千鶴の目に、沖田の顔が歪んで映る。その色に苦笑して、なんて阿呆面なんだろうと沖田は甘い蜜色の自分を見た。置いてきぼりの子供のような顔が、透明色の甘露に溺れている。
 千鶴に叶えることができる願いなど、たかが知れているだろう。挙げ始めれば切りがない欲の中で、その爪先程度のものですら、叶えることができるかどうか怪しい。しかし沖田が千鶴に望む願いや欲もまた、千鶴が叶えられるものの中でも、更にささやかなものしかないのだ。例えば、どんなに小さな声でも、名前を呼んだら振り向いてほしい、だとか。
 千鶴はゆるゆると頬を持ち上げ、目を細くして沖田を見る。あなたのお願いなんて分かっているのよと昔に笑った姉と似た形で、全く違う色を灯した目で、千鶴は沖田の言葉を待っていた。
 それは色合いこそ違えども、確かに温かい情に満ちたものだと、沖田は知っていた。たった今まで、知らないふりをしていたけれど。
 嬉しくて、面映ゆくて、瞼を落として笑った。
「千鶴ちゃん」
「はい、なんですか?」
 三歩分の距離に、沖田は小さく右手を差し出す。細く大きな手は、重なる小さな手を待っていた。壊れてしまった刀を握る手に、ひび割れた何かを握るために。
 眦を緩めて、沖田は千鶴の双眸をしかと見た。そこに映る自身ではなく、その奥の、千鶴の懐かしい夏の花の色をした目を。
「こっちに、おいで」
 一歩、二歩と歩み寄り、沖田の右手を両手で抱いた千鶴の頭のてっぺんに、掠めるだけの口付けをした。
 千鶴はほんの少し肩を震わせ、沖田の右手の中指に、口付けを返した。こんな些細な感傷で流れるような涙は、とうの昔に飲み込んでいた。しかし、こんな些細な幸福で流れ出しそうな涙は、飲み込むことなんてできやしなかった。
 左手で、千鶴の束ねられた髪をさらりと流す。夕日を吸って、黒髪は血に濡れた赤になる。
 庭に落ちた三本の大葉子の茎が、軒下から生まれた夜に沈む。蜩の声は相も変わらず、死んでしまった夏を悼むように震える。それを蔑む鈴虫の澄んだ歌声が、夏を惜しむ沖田までもを嘲っていた。