朱に散りぬれど風花

 人を食う、鬼がいるらしい。否、人を食うのではなく、血を啜り殺すらしい。鬼は、男しか食わぬらしい。鬼は、それは美しい女の姿をしているらしい。鬼は、月の無い夜のような黒い髪をしているらしい。否、鬼は、足跡のない雪原のような白い髪をしているらしい。鬼は、満月のような蜜色の目をしているらしい。否、鬼は、刺すような金色の目をしているらしい。鬼はつり上がった目で、全てを憎むようにじろりと睨むらしい。否、鬼はやわらかい目をして、悲しい悲しいと人のように涙を流すらしい。
 そんな噂が実しやかに伝わっている蝦夷の果ては雪の降る季節であった。叩きつけるような吹雪がしきりに安宿の板をいたぶる夜に、あまやかな声は「馬鹿よね」と男の耳元でささやくように告げた。突き放したような声は嘲笑を多分に含み、男はそれを些か不快だと思いつつ、肌蹴た小袖から覗く雪のような女の背を掻き抱いた。互いをよく知る男女ではない。一夜の、金で繋がった仲である。ひそりと、自らの裾に手を差し入れ、小さく冷たいそれを握った。その挙動に少しも警戒心を抱いていない女を胸の内で笑った。
 女は笑うような、泣くような色を双眸に湛えて、男の細い首に走る血の流れる脈を掻き切ろうと袂に忍ばせた刃を宛がう。しかし刃は男の首を裂くことはなく、一層しなだれかかる女の目は驚愕と安堵の入り混じったような、奇妙な色をしていた。男の手によって、ずぶり、と女の背に突き刺されたそれは鉄にしてはひどく怜悧な輝きを放ち、背から心臓を一突きにした男の目もまた、女の背に咲いた銀の翼のような冷え切った色をしていた。翼をもぎ取り、女を突き返して畳の上に転がした。女の髪は白く変貌していた。
 女は薄く笑って「なんでわかったんですか?」と掠れた言葉を血の筋と共に吐き出した。男は苦笑するように眉を八の字に寄せて「血を吸う鬼と聞いて、すぐに新選組の羅刹だと思いました。それが君だったとは、予想もしていなかったのですが」と力なく横たわる女から少し離れたところで胡坐をかいた。男の涼しい目元は彼の兄によく似ていた。
「お久しぶりですね、雪村千鶴君」
「あなたも、鈴木さん」
 旧友と交わすような穏やかな挨拶とは裏腹に、現状は閑散として残酷だった。溢れる血を垂れ流す女の髪は白く、鈴木の記憶では穏やかな月の色をしていた双眸は輝くような金色に変わっていた。しかし、鈴木は些かも心乱すことなく、ただ理解出来ないというように、何故、と呟いた。千鶴は笑っていた。
 鈴木三木三郎は、新選組の参謀として名を馳せた伊東甲子太郎の弟である。御陵衛士として新選組を離隊した後、油小路の変を生き延び、後の行方は知れていなかった。その鈴木が今、千鶴の目の前で、兄とよく似た目を細く歪めて笑っている。なんだか滑稽だった。
 何故刺したの、などと野暮なことは千鶴は問わなかった。ただ口から唾液と血を垂れ流したまま、穏やかに微笑んで「元気そうですよかったです」と、力の入らない肺でくすりと笑った。鈴木は顔をしかめて、声は返さずにただ頷いた。とても理解出来ない、と黒々とした双眸が語っている。その様子が千鶴には益々可笑しく、ずるずると畳に染みていく赤黒い血を見て、また笑った。新選組にいたときの聡明な顔つきをしていた千鶴も、羅刹となればただの狂女か、と鈴木は改めて赤い毒薬の恐ろしさを知った。腹の中がからっぽで寒いような心地がして、思わず下腹のあたりをさすった。
 星屑の色に変わった双眸を弓なりに曲げて、千鶴は見て、と血に塗れた右手を軽く持ち上げた。外を一面の白に侵しているだろう雪も、千鶴の雪のような白肌にこびり付いた鉄錆を洗い流してはくれないらしい。べっとりと付いた血は羅刹の血である。鈴木は潜在的な嫌悪感から軽く眉根を寄せたが、狂ったようなかつての仲間を、時代に揉まれた女を哀れんだのか、話だけは聞く気があるらしい。ため息交じりに「なんですか」と言って、しかし千鶴に寄ろうとはしなかった。
「こんなに血が出てるのに、私、まだ死んでないんですよ。可笑しいですよね」
「今はまだ生きていても、もうすぐ死にますよ。あの小太刀は、舶来物で純銀製ですから。羅刹は銀でつけられた傷は治せないでしょう」
「ええ、もちろん分かってます。私、もうすぐ死ねるんです。やっと終ります。本当はもう少しだけ生きている予定でしたが、もういいです」
 千鶴の受け答えがあまりにまともだったから、鈴木は千鶴が本当に狂っているのか、男を殺していた鬼とは噂ばかりで千鶴とは無関係だったのではないかと思った。しかし千鶴を殺すことを後悔はしていない。羅刹は全て殺してしまわなければ、後々に禍根を残すことにもなりかねない。鈴木はちょっと迷いながら、畳を赤黒く染める死にぞこないの女鬼の顔をじ、と見た。曇りひとつない白に染まった髪も、暗闇に炯炯とした猫のような黄金の目も、汚らしく血を垂れ流しながらも淡く笑んだ表情も、狂ったようにしか見えなかった。しかしその笑んだ唇の形が、どうもあの屯所で見た、まだ少女だった千鶴の可愛らしい笑みと重なるのだ。純粋で、ひたむきな言葉を紡ぐあの唇と同じ形で、狂った女が笑っていた。
 鈴木は好奇心と一匙の同情から、千鶴に「雪村君」と言葉をかけた。恍惚のような顔で、虚ろ気にとろけた視線をゆっくりと投げかけた千鶴は、失血からか段々と意識がぼやけてきているようだった。じくじくと蠢く血の筋を、上手く動かない指で遊びながら、なぁに、と舌っ足らずの幼子のような声で言った。
「男を殺して血を啜っていたのは、本当に君なのですか?」
「はい、そうです。体の代わりに、金子と血と、命を貰ってました」
「何故? 君はそんなことをするような子ではなかったはずだ」
 千鶴は目を細めて、にこりと花のほころぶように笑った。あの、張り付いた面のような笑みではなく、心から笑ったように鈴木には見えた。あの昔に見た千鶴の純朴な笑みが、唇だけでなく、目元にも頬にも重なった。それに鈴木は驚き、再度「何故」と、今度は問うのではなく、思わず呟いてしまったような声で吐き出した。千鶴は鬼の目に悲しみと憎しみを乗せて、馬鹿ね、と掠れた声で、あまやかに弧を描く美しい唇から紡いだ。
「もう、どうでもよくなっちゃったんです」
「どうでもよく?」
「はい、生きてさえいれば、何がどうなってもいいんです。この世に、もうあの人はいないんですから。私は、あの人がくれた命を使い切るまでは死ねないけど、それまではどうでもいいんです」 「沖田君ですか」
「ああ、久しぶりに、あの人の、沖田さんの名前を、他人の口から聞きました」
 感極まったような声を出す千鶴が狂っているのか、はたまた正気なのかはもう鈴木には分からなくなっていた。分かる必要もない気がしていた。自分が狂っているかいないかなどは千鶴本人には関係なく、また、もうすぐに死に逝く千鶴が狂っていようといまいと、鈴木にも関係なかった。ただ鈴木に分かるのは、狂いそうなほどに千鶴は沖田総司という人間を想っているということだけだった。
 懐かしそうに、暫し瞼を閉じた千鶴は、映っているであろう赤い闇に沖田の顔でも思い浮かべているのだろうか。鈴木はもう沖田の顔など茫洋としか思い起こせないが、千鶴の瞼には鮮明に、生きているときの人好きのする軽い笑みのままで映っているのかもしれない。しかし、それは鈴木の知るところではない。
 瞼を開いた千鶴は、同時にはらりと一滴の透明な水を畳に落とした。それが刺された心臓の痛みからくるのか、それとも沖田への想いからくるのかはその表情からは知れないが、それ以上の涙は千鶴の目から流れなかった。少し潤んだような、てらてらと光る目を天井に向け、語り部のような、抑揚の失せた声で、ねぇ、と投げかけた。豪雪の音に掻き消されそうな小さな掠れ声を、鈴木は何とか拾った。
「ねぇ鈴木さん。あなたは、死んだらどこに行きますか?」
「それは地獄でしょうね。私も、多くの人を斬った」
「あなたでも、地獄に行くのですね。じゃぁ、もっと沢山の人を斬った沖田さんは、どんなに深い地獄にいるのでしょうか」
「少なくとも、私よりは深いでしょうね。雪村君、君よりも」
「ああ、やっぱりそうですか。まだ、私でも足りないんでしょうか」
「どういう意味ですか?」
「死んでも沖田さんと同じところには行けないなんて、残酷ですよね。少しでも罪を重くすれば、沖田さんと同じところに行けると思っていたのに」
「君は、そのために人を殺していたのですか」
「はい、そうです。時間だけは余っていたので、死んだらすぐに、沖田さんに会えるように。でも、まだ足りないだなんて」
 鈴木は、氷の手で背を撫でられたような心地がした。これは狂っていると思った。それはあの赤い劇薬が狂わせたのではなく、千鶴が自ら狂ったように思えた。混じりけのない狂気に吐き気すらした。しかし鈴木は、不思議と千鶴を醜いとは思わなかった。恐ろしく美しいままに狂った女だと思った。外で安宿を叩く吹雪のように、激しくも白い、暗くも端麗な千鶴の胸は流れ出る血にも似ていた。
 ふと、地獄の沖田はどんな目で千鶴を見ているだろうか、と考えて、鈴木は千鶴より沖田を哀れに思った。好いた女が自分に会いたい一心で罪を背負い、狂っていくのを見ているのはどんな心地だろうか。千鶴はそれを考えたことがないのだろうか。考えたことはあるかもしれないが、目を背けてしまったのかもしれない。
 鈴木は、それを千鶴に問うてみた。千鶴はきょと、と目を丸くして、今気づいたといった顔で、鈴木の顔を見上げた。いまいち焦点が合わない視線は、きっともう鮮明に物を見ることが出来なくなっているのだろう。鈴木の顔すら、きちんと見えているか定かではない。
「そんな、私、間違ったことをしてたって言うんですか?」
「少なくとも世間から見れば、君は間違っている。それが沖田君にとってもそうだかは、私の知るところではないが」
「私、ああ、どうしよう」
 千鶴は腕を上げて顔を覆いたいようだったが、腕は持ち上がることなく、微かに浮いてすぐに畳の上に落ちた。それを自嘲するように一瞬だけ切なげに笑い、はたはたと忙しく動く瞼に押されて、眦から幾粒もの涙が血に汚れた千鶴の頬を伝った。もはや慟哭の声すら上げる力も無いのか、喉をひくつかせて涙する様子は昔話の鬼女そのもののようで、しかし鬼女にはない豊かな悲しみを含んでいた。
 その様子を、変わらず冷めた目で見ていた鈴木は、初めて唇にゆるく弧を描いた。蔑みでも哀れみでもなく、千鶴の心が鬼から人に戻ったような気がしたのだ。せめて最期くらいは、人の心を持って逝けと、誰に言うでもなく胸の内で呟いた。
涙は千鶴の頬に付いた汚れを落とし、雪のような白い肌に戻していった。本来はきっと純粋な子なのだろうと鈴木は思っている。純粋であるから、一度捻じ曲がったとき、元に戻る術を見出せなかったのだ。
「こんなことをして、沖田さんに嫌われてしまうかな。嫌、そんなことだけは嫌。沖田さんに嫌われてしまっていたら、どうしよう」
「君は、沖田君が好きなのだろう?」
「はい、はい。沖田さんだけには、嫌われたくありません」
「じゃあ、沖田君を信じてあげなさい。そこまで自分を好いてくれる女を捨てる男なんて男ではない。君が好いた男は、そんな些細なことで君を見限るような男だったのか?」
「そう、ですね。沖田さんは、そんな人ではないですよね。沖田さんは確かに、私を愛してくれてたんですから」
「それでも沖田君が何か言うようなら、私に言いなさい。地獄まで赴いて、彼にきついお灸を据えてあげよう」
 はい、お願いします。千鶴はそう言って、掠れた空気の音しか吐き出せない喉で笑った。鈴木は笑みを零し、畳に散った白い髪を一房掬って、さらさらと落とした。羅刹の強い治癒力を失った千鶴に、本来の色が戻ってくる。刻限が近づいていた。鈴木はそれを心の端で少し残念にも思ったが、このまま死んだ方が彼女の為だろうと蓋をした。生きることが幸せという世間の通例は、必ずしも万人に当てはまるわけではないらしい。
近づく自らの終わりが千鶴にも分かるのか、ゆるゆると動かない指で自らの荷物の方を指した。千鶴の荷物は、風呂敷ひとつに包めてしまえるほど少ない。
「少しですがお金と、簪が入っています。お金は、ここの畳の弁償代にでも当ててください。簪は売って下さい。以前頂いたもので、そこそこ良いものらしいですから、少しはお金になるはずです」 「分かった。感謝する」
「いいえ、私こそ、鈴木さんに感謝しなければ」
「君を殺した私に?」
「はい。ありがとうございました、鈴木さん。私を殺したのが、あなたでよかった。まだ迷惑を掛けてしまいますが、宿の後始末だけ、お願いします」
「相分かった。沖田君に、よろしく」
 はい、と柔らかな光を灯した双眸をゆるめて、千鶴は灰に変わった。畳には赤く咲いた花が残ってるにも関わらず、千鶴は灰になって白く消えた。それに驚くでもなく、悲しむでもなく、ただ後始末が少し面倒だな、と思いながら、鈴木は無機質な目で白い灰を暫し眺めていた。やがて黙祷するように両の眼を閉ざす。考えることなどなく、追悼の言葉も浮かばなかったが、ひとつ聞き忘れた問いが胸に浮かんだ。もう消えてしまった千鶴に対して、小さく問う。
「君は、幸せだったか?」
 愚問であるか、と苦笑して、鈴木は立ち上がった。灰を片付けて、畳代を宿屋のおやじに渡さなければ。どの道、外は雪だから、この晩は千鶴の残骸と共に眠ることになってしまうだろうけれど、それもなんだか悪くない気がしていた。血生臭いのは慣れている。
 千鶴の灰を残った着物に包んで、部屋の端に置いた。外では相変わらず白魔が吠えている。白に染められた明日の朝に、この灰を風に乗せてやろうと鈴木は薄汚れた着物を小さく撫でた。