くるり

 青年は何も知らなかった。否、何も覚えていないまま、気付けば新月の宵のようなまっさらな漆黒の闇の中空を泳いでいた。
 温かな闇の中で、小さな少女の声が聞こえた。拙い音で壊れたように一つの言葉を繰り返すそれは、川を流れてゆく灯籠のように仄かに明るい。青年は黒髪を長く垂らした少女の後ろ姿に妙な既視感を覚えたが、それがなんなのかまでは記憶を持たない彼には分からなかった。立ち尽くす青年に、少女は振り向いた。二歳くらいの、幼い顔が白く浮かぶ。蜜色の大きな目が青年を捉え、すぐに手にした卵のような光の玉へ戻された。見慣れない不思議な服を着た小さな少女が、手鞠ほどの仄明るく光る卵を抱いていた。
「はやく、あいたいな」
「はやく、うまれてきて」
「まだかな、もうすぐ」
 歌うように、歳不相応に恍惚とした笑みを浮かべ、少女はその卵を撫でる。青年はなぜだか気になって「なにがもうすぐなの?」と少女へ声を掛けた。弾むような声色で、幸福そうに少女は卵を小さな胸に抱き締める。
「もうすぐね、あえるの」
「誰に?」
「だいすきなひと」
「なんで離れちゃったの?」
「わたしのほうが、はやくうまれちゃったの。そうじさんのつぐないがおわるまえに、わたしのほうが、はやくおわっちゃったから。そうじさんのほうが、つみがおもかったから。でも、もうすぐうまれてくるの」
 愛しそうに卵を撫でる。少女が抱く光の玉は小さく明滅して見えた。
 青年を見た少女の双眸はひどく大人びていて、青年は底知れぬ不可思議な色を孕んだその目をじっと見つめ続けていた。また、既視感。どこかで、いつかに見たことが、出逢ったことがあるような気がして、青年は少し頭痛がした。つきん、と頭を打つ既視感。青年が頭を押さえたとき、少女の持つ光がぱっと花火のように弾けた。閃光が目を射ち、思わず目を瞑った。次に目を開いたとき、青年の視界に少女はいない。
 消えた少女に気を遣う暇もなく、脳天を打つような頭痛は速度を増し、青年の目からはぼろぼろと涙が落ちた。激痛を伴って脳裏に雪崩れ込む記憶の欠片たちの中に、愛しい蜜色の目がはらはらと舞う。総司の記憶は涙になって温かな羊水の中に溶けた。
 消えた少女の代わりに、胸に飛び込んできた確かな重みを抱き締め、総司は「ちづる」と舌足らずで湿った声で呼んだ。千鶴は懐かしい薄桃色の着物を翻し、総司の首にしがみついた。総司の目から零れ落ちる滴が千鶴の黒い髪を濡らし、頬を滑り落ちる千鶴の涙が星屑のように闇に瞬く。
「君は、僕を待ってたんだね、千鶴ちゃん」
「はい」
「ごめんね、遅くなって。人を斬りすぎたんだ」
「はい」
 つかの間の再会すら許さない、とでもいうように、不意に、ぐいと総司の体が強い力で後ろに引かれた。抱き締めた千鶴が離れ、繋がれた手すら離れそうになる。総司は手が離れる前に千鶴のほろろと止めどなく涙の流れる目に笑いかけた。千鶴は頷き、ふわりと羽のような笑顔を作ってみせた。それは生前の総司が最期に見たような、儚くも力強い笑みだった。
 押し寄せる光を押し退け、総司は鮮やかな闇に向かって叫ぶ。まだ二人の指先はかろうじて繋がっていた。
「待ってて、きっと、どんなに遠くても、見つけるから!すぐ行くよ!だから千鶴、僕を待ってて」
「はい!私、ずっと待ってますから、総司さんを。総司さんが見つけてくれるのを」
「うん、絶対見つける。そうしたら、君を呼んで全速力で走っていくよ。走って、君を抱き締めて、初めましてって言うよ。千鶴ちゃん、未来でまた出逢おう」
 涙を散らした千鶴の、満開の桜のような笑みを最後に、総司は弾け飛ぶような光の渦にとけていった。卵を抱いた少女はいない。ただ揺らめく温かな闇がひろがるのみだった。