めぐり

 耳元で鳴るのは、最近流行りのポップス。軽いメロディと恋する女の子を可愛らしく描いた歌詞が人気で、僕はあまり好きでもないそれを、別れる前日に友達に無理やり音楽プレーヤーに入れられて、仕方がなく聞いている。ノイズ交じりのラブソングは現実味がなくてつまらない。ケータイはさっきっから活動しっぱなしで、電車内では迷惑になるからマナーモードにしたのにバイブの音が嫌になるくらいうるさい。
 今年の春から高校に上がる僕は、実家の東京から遠く離れた京都の私立校を受験した。親は反対したんだけど、姉さんの嫁ぎ先が民宿をやっていて、姉さんも義兄さんも手伝いをするなら一部屋開けてくれる、男手がいればこちらも助かると言ってくれたから、両親も渋々許しを出した。今は順調に行けば、これから三年間を過ごすだろうその京都に向かう新幹線の中、暇つぶしに僕は音楽でも聞いてぼんやりと景色を眺めていたところだ。友達やクラスメートから来ているのだろうメールが少し鬱陶しくて、僕はメールを見ることなくケータイの電源を切った。
 特にその高校が魅力的だったわけでも、とても行きたいわけでもなかった。一番家から近い、平均よりちょっと偏差値の低い県立高校に行くものだと、僕も数ヶ月前まではそう思ってた。でも、なんでかは分からないけど、とても遠いその京都の学校のパンフレットを見た瞬間に、僕はここに行きたいって、使命感にも似た思いを感じた。桜が散る、ありがちだけど、とても綺麗な写真が大きく使われたパンフレットだった。そう、僕は京都に帰らなきゃ行けないって、なんでか思ったんだ。
 ずき、と右の脳が鈍く疼き、僕はまたか、とため息を吐いてじくじく痛むそこを押さえた。最近、頭痛が酷い。ふとした時に、ずくずくと痛んでは体にわけのわからない衝動を巡らせて、ふつっと消える。会いに行かなくちゃ、探しに行かなくちゃ、もうずっと待たせてるんだから。そう思うけども、会いたい誰かなんているはずもなく、それでも僕はわけもわからずその誰かを探してる。痛みを増す脳の疼きに瞼を落とすと、黒い髪をポニーテールにした女の子の後姿がいつも映る。僕はその子がとても愛しくて、手を伸ばすけどその子は霞に消えて、名を叫ぼうと空気を肺いっぱいに吸い込むけど、その子の名前を僕は思い出せない。顔のないその子は桜のような声色で、待ってますから、と優しく言って、そこでぷつりと頭痛も止む。わけのわからない頭痛。夢のような女の子の幻。非現実的なことばかりが僕を取り巻いて、僕は普段のリアリストの僕でいられない。
 意味がわからないことばかりが増えていくけど、一番わからないのは僕自身だ。そんな兆しは、きっと自分の根底に昔からあったんだろう。たとえば、小学校の頃に「将来の夢」という題で作文を書いた。僕は誰かを探して会わなくちゃならないって書いたんだけど、先生から「誰に会いたいのかな?」って聞かれても、それが誰だか自分でもわからなくて、結局当たり障りのない未来図を書いた。中学で、部活のマネージャーから付き合ってくれと言われたときも、僕は好きな人がいるからと断った。好きな人なんていなかったのに、その言葉は迷わず僕の口から飛び出していって、僕自身がちょっと驚いてしまった。思えば今まで、女子と付き合うなんて考えは、何度か告白されても浮かばなかった。友達から「モテるくせに、もったいない!」なんて言われて、なんで、ってまともに聞き返して唖然とされたこともあった気がする。
 そういえば、僕は友達と別れて京都に行くと決めたとき、友達と別れて悲しいなんて、ちっとも思わなかった。いや、思ったけど、京都に行かなきゃって思いが強すぎて、友達がどうのクラスメートがどうのなんて飛んで行ってしまったみたい。薄情者だと我ながらに思うけど、どうしてここまでして執着しているのか、僕自身だってわからないのだ。
(ねぇ、君は誰なのかな)
 目を瞑れば瞼に浮かぶ、小柄な女の子。見たこともないし、似た特徴の子も知らない。頭痛と共に僕の前に現れて、ぱっと消える桜の花びらのような子。いつまでも僕の心に引っかかって取れない、魚の骨みたいな残像。
 アナウンスが僕の降りる駅の名を告げて、僕は少ない荷物をまとめた。大体の荷物は先に宅急便で送ってあるから、今日の荷物はメッセンジャーバックひとつに入りきってしまうくらい少なかった。財布と、ケータイと、音楽プレーヤーと、駅で買った読みかけの漫画雑誌。あとは弁当のゴミを駅のゴミ箱に突っ込んで、僕は改札を出た。義兄さんの民宿まではバスを使って15分くらいのところで、あんまり近いから、車で迎えに来るといってくれた誘いを僕は断っていた。春から通う学校は民宿とは反対の方向にあるけど、僕は一度見ておこうと思って、反対側のバスに乗った。本当はそんな面倒臭いことをするつもりなんかなかったんだけど、なんとなく、見ておこうかなと思った。単なる好奇心、暇つぶし。それ以上なんてない。
 バスの中で、通り過ぎる景色。東京より、少しだけ緑の多い町並み。初めて来る場所なのに、僕はそれが酷く懐かしく、ああここを曲がればあそこに行ける、ここは昔と変わっていない、なんて、知りもしないはずの町の構造を事細かに思い描けた。こんな感覚を、テレビではよく超能力だ、千里眼だ、前世の記憶だと馬鹿らしく祭り上げて、夏休みに合わせて放送したりする。けど僕は生まれてこのかたそんなものを信じていたことはなく、ただの偶然の一致、または行ったことのあるどこかに似ているだけんだろうと思う。テレビに映って、それっぽく理屈をこじつけて語る人だって、結局は今の僕と同じなんだろう。だって、そうじゃなきゃ、僕のこの胸に湧き立つ感情はなんなのだろう。超能力がどうとか、前世がどうとかなんて、昔っから信じていないのに。
 だから僕は自分に言い訳をして、これをうやむやにする。

 頭痛の原因は?
(さぁ、疲れてるんじゃない? またはストレスとかさ)
女の子の幻は?
(僕の好みのタイプとかね。清純派は好きだよ)
京都の町並みに見る既視感は?
(テレビでしょ。母さんが新選組のファンじゃない、京都なんて良く見てた)
じゃあ、なんで涙が出るの?
(頭痛のせいだよ、きっと。それ以上なんてない)

 どれも上手くないね。でもそうでもしないと、僕は自分の中のわけのわからないものを片付けられない。僕はこの目で見て、この耳で聞いて、この手で触れたものしか信じない。だからこれは僕にとってとても消化しにくい、鬱陶しいものだった。
 古い木造の町並みが残る。明治・大正なんてものじゃなく、それこそ江戸時代くらいから残っていそうな、古びた家々が並ぶ。そこは学校へはまだ遠いのに、気づけば僕の指は降車ボタンを押していた。じくじくと右の脳が痛み出す。あんまり鋭い痛みに、僕は頭を抱え込んで目を閉じた。できたての闇の中に、あの女の子の姿はない。吐きそうな痛みの中で、僕はそれを少し残念に思ってしまった。忌々しい頭痛の原因とも思われる女の子の姿を、僕はいつの間にか痛みの中に求めていた。
「なんなんだよ、もう」
 車内は僕と、遠い席にお婆さんが一人だけ。僕の様子に気づく者なんていない。額に脂汗が伝うのが分かり、頭を金槌で殴られているような痛みに、僕は小さく呻き声を漏らした。闇の中に女の子は出てこない。その代わりに、強い衝動だけが血に乗って体をぐるぐる回る。会いに行かなきゃ。探しにいかなきゃ。涙で滲んだ視界で窓の外を覗けば、ああ、なんて懐かしい光景なんだろう。
 程なくして、バスは停車した。僕は料金を投げ込んで、バスから転がるように駆け出した。どこに行くかなんて、自分でもまったく分からない。ただ、血と一緒に廻る衝動のままに、僕の足は走っていた。早く、早く、もっと速く。正面からぶつかって来るまだ冷たい風がむき出しの眼球をちくちく刺して、僕の目はさっきとはまた違った涙で曇る。稀にすれ違う人々のいぶかしげな視線も、未だ脳みそを叩き続ける金槌も、もう気にならない。
 路地に入った。細い、ちょっと暗い路地。複雑に入り組んだ、わかりにくい路地裏。
(そう、ここを右に曲がって、その先に、まっすぐ、まっすぐ)
 なんでか、行くべき道が分かる。どこに続くかは分からないけど、足はこっちだよあっちだよと勝手に道案内してくれている。
 脳みその奥で、冷静な僕が警鐘を鳴らす。どこに行くの。姉さんの家に行かなきゃ。信じてないんじゃないの。そんな曖昧な勘を頼りにしていては駄目だ。早く戻れよ。ああ、信じられない、それでも僕なのかい?
(うるさいな。少し黙ってなよ)
 押し殺して、走る。角を曲がって、あとはひたすたまっすぐに。そうしたら、きっとあの影が見えるんだ。僕の中の不可思議な確信。
 あんまり風が痛くて、涙を落とそうと一瞬だけ目を閉じた。また見える、女の子の後姿。今度は今までより鮮明に、ゆれる黒髪、ピンク色の可愛い着物、男の子の七五三みたいな、白い袴。赤い結い紐、振り向く瞬間の、その目の色。
 目を開ければ、遠くに酷く良く似た後姿が見えた。黒髪のポニーテール。でも服は、僕が行く予定の学校の、女子の制服。長めのスカートが髪と一緒のタイミングで風に揺れてる。
 そうだ、僕は走って行かなくちゃならない。約束したんだから。走って、走って、全力で走って、手を振って行かなくちゃならない。ああ、でもまだ何か忘れてる。その何かが思い出せない。
 ぐんぐんと縮まる距離。走るのは速い方だし、同年代と比べて背が高い僕は比例して歩幅も大きい。
 あと50メートルくらい。目の前に迫るその子が、ゆっくりと振り向く。前髪の間から覗き見える、満月みたいな色の目。驚いて、見開かれた可愛い目。すぐに涙でいっぱいになって、じわりと細く歪む。
 約束したんだ。走って、手を振って、そう、名前だ。君の名前を喉いっぱいに呼んで、肺が壊れるくらい叫んで、そうして、君を抱きしめるんだ。君の名前が、そう、君の名前は。

「千鶴!」
 ゼロになる距離。僕の腕にすっぽり収まった、小さい君。目の奥で弾けた、いくつもの薄紅色の君の影。最期に見た君の、涙と血でぼろぼろに崩れた顔が僕の網膜に焼き付いて、やがて桜が散るようにぱっと消えた。
 僕の服の裾をはっしと握って、嗚咽を漏らす君がやっと顔を上げてくれる。僕の顔をまじまじと見て、ぐしゃぐしゃに濡れた顔で笑った。僕の目もじわじわと押し寄せる涙に押し切られて、彼女の頬にぼたぼたと落ちた。僕の涙と彼女の涙が混ざって、頬を伝って落ちる。
「遅いですよ、沖田さん」
「ごめん、もうずっと待たせちゃったよね。僕は、今思い出したばかりなんだけど」
「もう、私ばかり待ってたみたい。私は、もうずっと前から気づいてたのに」
「ごめん、ごめんね、ああ、でも、また君に出会えてよかった。千鶴ちゃんに会うまで、僕はきっと僕じゃなかった」
 断片的に脳内に浮かぶ時代錯誤な景色には、いつも蜜色の双眸がある。繋がらないほどにバラバラで大雑把な記憶の粒は、僕自身が体験したものではないけれど、確かに僕のものなのだと脳でなく心臓が告げていた。浮かんでくる欠片の中に、いつもいる千鶴ちゃんの姿はいつも笑っている。でも、明るいものばかりではなかったのだと、たった一つだけの悲壮な泣き顔が付きまとう。それでも僕は、今の僕は千鶴ちゃんにもう一度出会えたというそれだけで、そんな欠片はどうでもよかった。
 腕の中の、小さい君が笑う。前に出会ったときと同じ、綺麗な月が空には浮かんでいた。薄い闇の中で、しかしその表情に驚愕と恐怖はなく、柔らかな泣き顔があった。
「沖田さんは、前より背が高くなった気がします」
「ふふ、だって僕、今180以上あるんだよ。君は相変わらず小さいままだね。もしかしたら、もっと小さくなったかも」
「沖田さんが大きくなったんですよ」
「そうかも。でも、身長なんて、今はどうだっていいよ」
 どうだっていいけど、やっぱり千鶴ちゃんは小さくなったかもしれない。150ちょっとしかないんじゃないかな。千鶴ちゃんは昔と変わらないままなのかも。
 千鶴ちゃんは「そうですね」と笑って、更に距離をなくしたいように、僕の背にぎゅうとしがみついた。もう千鶴ちゃんの顔は見えない。ただ僕の胸にあるあったかい温もりが、千鶴ちゃんが確かにここにいると僕に教えてくれた。
「はじめまして、雪村先輩。東京から引っ越してきた、沖田総司っていいます」
「はじめまして、沖田総司くん。雪村千鶴です」
 僕たちはくすくす笑って、なんだか可笑しいね、と僕は千鶴ちゃんの頬にキスをした。これで約束は全部果たせた。おかげで、リアリストで冷静な僕はどこかに飛んでいってしまったみたいだけど、僕はそれでも満たされていた。
 腕の中の小さな先輩に、また学校で会えるでしょ、呆れた声で額を叩かれるまで、僕は千鶴ちゃんを離さなかった。花冷えの夜の冷たさも、今は心地よく頬を冷ましてくれるそよ風みたいに思えた。