ゆがみ

 目の前を、桜の花びらが、時々花が過ぎていく。端々が赤錆びた非常階段は校舎の裏側にあり、一昔前で言うなら体育館裏のような風情がある。たかが高校の校舎で風情もなにもないと思うけど、一言で言うならここは人気が無く、静かな目立たない場所だった。そのくせ昔の名残なのか、大きな桜の樹がぽつりと一本だけ植えてあり、今の季節には葉の混じった桜が花を落とし、異様に綺麗だった。
 僕はその赤錆びた非常階段の、螺旋の一番てっぺんに真新しい制服の尻を落として、膝を抱え込むみたいに座っていた。眼前を過ぎっていく桜を見て、たまにちろりと隣に視線を移して、これが夢じゃないのか確かめる。僕と同じような、でももっと洗練された上品なポーズで座る彼女との間には、学校指定のスクールバッグ二つ分の距離がある。
 さらさらと桜と一緒に流れる綺麗な髪に隠されて今は見えないけど、入学式で一瞬だけ合った目の、満月の光を凝り固めたような色合いは今まで見てきたどんな輝かしいものよりも綺麗だった。たった数時間前の入学式ので、僕は彼女を見付けた。二度目の出会いに僕はポーカーフェイスで過ぎ去ろうと思ったけど、僕を見付けたときの彼女の目が、あんまり泣きそうに見えたから、僕もつられて泣き出しそうになってしまった。中学の卒業式でも泣かなかったのに、高校の入学式で泣きそうになっただなんて変な話だ。
 僕と、この隣に座る先輩とが会ったのはたったの二度で、一度目はもう暗くなった町の裏路地で、そして二度目は今日の入学式で。入学式の後のオリエンテーションで、部活紹介のところにいた彼女に声を掛け、こっそりと約束をとりつけた。今、ここで会っているのがその約束の内容だった。会っている、というのも少し可笑しい表現かもしれない。だって彼女と僕との間に会話はなくて、僕はただ落ちていく薄紅色と怖いくらいに透き通った空を見上げて、彼女は錆びた螺旋のその下を見続けているだけなのだから。
 僕はきっとおかしくなったんだと思う。彼女に最初に出会ったその瞬間から、僕は東京で暮らしていたときの僕とはきっと別人になってしまったんだ。そう思いたいけど、そんな馬鹿げた話が現代日本にあるはずはない。たとえあるとしても、イロモノな深夜番組とかだ。ああ、でももっと馬鹿げている、信じられないような現実が、僕の目には浮かんでいる。だって、今も泣きそうだ。
「あの……沖田、さん」
「別に敬語じゃなくていいですよ、雪村先輩。今は君が年上だし」
「あ、うん。って、そうじゃなくて、なんで私をここに呼び出したの?」
「……わかんない」
 ただ、見つけたから。ただ、話がしたかったから。ただ、声が聞きたかったから。なんとなくそんな思いが浮かんできて、この口は憎らしいことに僕の了解をとる前に先輩を誘っていた。でも、これといって話しもないし、不躾にその可愛い顔を見続けることだって、僕が恥ずかしいし、話がなければ、声だって聞けないし。自分でも、なんであんなことを言ってしまったのかわからない。
 彼女は長い睫毛の房に縁取られた、可愛い大きな目をぱちぱちといくつか瞬かせて、わからないの? と小首を傾げた。その仕草につられて揺れるポニーテールの一房が、さらりと白い首筋に掛かって、その白の黒の対比が嫌なくらいに色っぽいように見えてしまう。
 目の前を桜が吹き過ぎて、彼女の蜂蜜色の左目を一瞬だけ隠した。この目の色が、何度も頭の奥で瞬く色が、どうにも僕を捕らえて離してくれない。
「……ねぇ、先輩。覚えてますか?」
「なにを?」
「この前、初めて会ったときのこと」
「忘れられるわけ、ないじゃない」
 眼差しを伏せて、そんな質問は不本意だと言わんばかりに、ちょっと頬を膨らませる。そんな幼いような仕草が可愛らしくて、でも、脳に張り付いて消えない既視感。ちがう、僕は彼女のこんな顔は見るのは初めてのはずで、でも、僕は昔からこの表情がすごく好きで、笑った顔の次に好きで、よくわざと困らせるようなことを言っていたなぁなんて懐かしく思う気持ちが血と一緒に心臓から全身に流れていく。
 僕はこの、時折感じる既視感が嫌いだ。まるで僕が僕なのに、僕じゃないような感覚。僕が主役の映画を見ているみたいな、いや、僕が演じたものを、見直しているみたいな。その映画には必ず彼女とよく似た女の子が出ていて、僕はその子がとても好きで、愛していて、恋していた。それを、映画のなかの感情を現実まで引きずってきているようで、僕はこの感覚が嫌いだ。まるで目の前の「雪村先輩」じゃなくて、映画の中の女の子である「千鶴ちゃん」を見ているみたいだ。
「ねぇ、忘れてくださいよ」
「え?」
「僕のこと、一度全部忘れて、リセットして」
「なに、それ……そんなの、出来るわけが、ないじゃない」
 みるみる涙の膜で覆われていく瞳に、僕は焦ってしまって、違う、そういう意味じゃなよと思い切り首を振って否定した。そんな、忘れて欲しいなんて言ったら、そういう風に伝わってしまうよね。僕も馬鹿だなぁ、彼女以外なら、きっともっと、ゆっくり言葉を選んで、泣かせるなんてしなかったのに。なんでだろう、一番泣いて欲しくない人なのに。
 それってどういうこと、と未だ潤んだ目で見上げる先輩に、僕はうーんと一度唸って腕を組んだ。どう言っていいのかなんて、僕だってまだ見つからない。ただ、違うんだ。僕は先輩に愛して欲しいわけではないし、先輩を愛したいわけでもないんだ、まだ。だから、お互いに一度、リセットボタンを押したいんだ。
「あのね、今の僕を忘れてほしいんじゃないんだ。ただ、なんていうか、前世の記憶とか、ぶっちゃけ馬鹿らしくありません?」
「……沖田君は、そう思ってるの?」
「勿論。僕、現実主義者なんで。だって、普通に考えて可笑しいでしょう? たまたま、昔おんなじテレビ番組を見て、おんなじように自分の記憶みたいに覚えてしまってるとか、そう言われるならまだ信じられるけど、前世とか、覚えの無い記憶とか、なんの確証もないわけだし。だから、そういうの無しにして、いっそ全部忘れて下さいよ」
「沖田君は、私にそうして欲しい?」
「はい。でも、でもですね、もしも全部忘れて、それで、今の僕を見て、それでも、僕を好きだって思ってくれたなら、僕は嬉しいんです」
 あ、だめだ、もう顔を見るのが恥ずかしい。だって先輩ってば、すごく嬉しそうに頬を染めるから。僕はちょっと俯いて、恐らく集まった血潮で赤くなっているだろう顔を隠した。上手く隠せているかはわからないけど、先輩はきっと隠せていなくても見逃してくれる気がするんだ。なんとなく、そんな気がしてる。
 ざわざわ、とさっきまで耳障りだったはずの桜が落ちていく音も、今は自分の心臓の音で聞こえない。むしろ、この心臓の音が煩い。先輩もこうなのだろうか。こうだったなら、嬉しいな。
 軽くブレザーの裾を引かれて、視線だけちょっと投げかけた。そうしたら、先輩が可愛い目を細くして、にっこり笑うから、僕は反射的にもう一度、視線を落としてしまった。
「沖田君がそう言うなら、一度、リセットしましょう」
「はい」
「でも、リセットしても、また沖田君を好きになってしまったときは、私と付き合ってくれますか?」
「はい、勿論。千鶴先輩にもう一回好きになってもらえるように、頑張るよ」
「うん、頑張って。私も、もう一度好きになってもらえるように、今度はうんと綺麗なお姉さんになるように、頑張る」
「え、それは困るな」
 どうして、と小首を傾げる先輩に、僕は言っていいものか迷ってしまう。だって、こんなこと言ったら、まるで口説いているみたい。今より綺麗になってしまったら、他の誰かに取られちゃう、だなんて。でも、それはそれでいいかもね。だって先輩が僕でなく別の男を選んだのなら、それは僕を忘れて幸せになってくれるってことだから。だけど、ちょっと寂しい。これは僕の我儘だけど。
 僕は答えを胸にしまって、教えない、とわざとそっぽを向いた。なによ、教えてよ、と腕を掴む手に、僅かの懐かしさを感じながら、僕はねぇ、と声をかける。少し下がってしまった声のトーン、聡い先輩にはばれてしまったかな。
「ねぇ、もう一度、好きになっても、いいですか? もう一度、君に恋をしても、いい?」
 もう一度、恋をしよう。前から引き継いだ愛情は、全部一度リセットして、もう一度、恋から始めようよ。僕は今の千鶴先輩に恋をして、先輩は今の僕に恋をして、また他人から始めよう。初めて出会った、あの月の綺麗な夜に戻ろうよ。
 何も言わないで微笑んだ先輩の答えは、わざわざ言葉に出さなくたって分かってる。
 桜がはらはら散るなかで、先輩はありきたりな制服でも可愛い。さらりと揺れる黒髪も、薄色の目も、しなやかな指先も、まるで幻想のように綺麗。
 もう一度、恋から始めよう。そしてもう一度、今度は今の雪村千鶴を好きになろう。今の沖田総司として、好きになって、恋をして、思いが通じ合うならば、また愛せばそれが幸せ。