艶文と私

 沖田先生、文預かってますよ、と沖田に文を、それも風情たっぷりに花なんぞの添えられた文を手渡したその男は、さすが先生、やりますねぇと楽しげに笑った。対する沖田はといえば、特に喜ぶでもなく、かといって男の言動を諌めるでもなく、ただありがとうと感情の浮かばない声で形式的に礼を述べるのみだった。強いて言えば、その深い色の双眸がぽつりと、面倒臭いなと呟いていた。
 鍛錬に戻っていくその男は真面目は真面目なのだが、如何せん遊びも好きで、よく色町へ出向いていたから、沖田への文を任されたのだろう。可愛く添えられた花を無造作に庭に捨てて、内容を見てみればありがちな誘い文句と鬱陶しい女の慕情の羅列であった。普通の者が受け取ったならば、自分を慕う女からの可愛い艶文と素直にそう思うのだろうが、若い頃からとんとそういった事情に興味を示さなかった沖田という男の前では、さして気に留めるべきではないただの紙切れと文字の羅列だった。
 文からは花の匂いに混じって、女の白粉の匂いがして、扇情的とも感じられるその匂いに、沖田は露骨に嫌な顔をした。以前から化粧臭いのは嫌いだとぼやいていた沖田であったが、ここまでくると筋金入りである。女が苦手というわけでも、人と関わるのが苦手というわけでもないのに、沖田は花町の女から文が来るのを酷く嫌がった。以前なんかは、匂いが移る、なんて言って井戸まで走って手を洗いに行ったりもした。
 ふぅ、とため息を吐いて、それをぐしゃぐしゃに丸めようとすると、桃色の愛らしい袖が「なにやってるんですか?」と沖田の手を止めさせる。千鶴ちゃん、と沖田がその名を呼べば、大きな蜜色の目がころりとやわらかく笑う。はたはたと小走りに来て、並び立ってもまだ小さい千鶴の肩に、沖田は少し目を落としたあと、文だよ、とだけ答えた。丸めようとした力は足から廊下に抜けていってしまったようだ。
 沖田の胸より少し上の位置にある文をちょっと背伸びしても覗き見れない千鶴が可愛くて、沖田はついくつくつと笑い、意地悪に「見たい?」なんて少し文を持つ手を上げた。千鶴は少し迷ったが、お仕事に関係するものでないなら、と控えめに、しかし気になる旨を伝えた。恥じた伏目の、黒々とした睫毛の房が先ほどの文よりもずっと艶めいて見えた。
 女からの文が仕事に関係するはずもなく、千鶴に隠したい思いも無かった沖田は、見てもつまんないと思うけど、と前置きして、千鶴にその文を寄越した。手にした途端に、ふわりと香った花と化粧の匂いに、千鶴も内容を読むまでもなくそれが艶文だと分かったらしく、すぐに沖田へと付き返した。薄紅色が咲いた頬は恥じらいか怒りか、沖田には区別がつかなかった。読まないの、とにやにやとした笑いを貼り付けた唇で問えば、読めるわけないじゃないですか、と千鶴にしては鋭い声が返ってきた。
「恋文じゃないですか」
「うん。仕事に関係はないでしょ?」
「だからって、他の人に見せていいものじゃないでしょう」
「えー。土方さんなんて、貰った恋文の束、実家に送ってたけど?」
「土方さんは土方さん、沖田さんは沖田さんです!」
「なにそれ」
 変なの、と軽く腕を組んだまま肩を震わせた沖田に、千鶴は呆れた目でこっそりとため息を吐いた。どうしてこの人は女心というものがひとつも分からないんだろう、とその可愛い目が語っていたが、くすくすと笑みを零す沖田がそれに気付くはずもなかった。
 沖田の森を固めたような深緑色の双眸を下からじ、と見て、子供を諭すようなゆったりした口調で、千鶴は「沖田さん」と呼んだ。きょと、と丸くなる沖田の目がゆっくり細くなって、なぁに、とこれまた子供を相手にしたような、甘い声で笑う。千鶴は沖田の調子に飲まれまいと乾いてきたちょっと唇を舐めた。沖田は相変わらず、深い感情の読めない目で笑っている。
「沖田さんを好いてくれて、だから勇気を出して文をくれたのに、私なんかに見せてしまったら、その人に失礼でしょう?」
「なんで? 僕が貰ったんだから、どうしようと勝手じゃない。向こうだってそんなの承知の上だよ、きっと」
「でも、その人は沖田さんの為だけに言葉を選んで、沖田さんを想いながら文を書いたと思うんです。それは、他の誰かには見てほしくないはずです」
「そうかもしれないけど、僕の知ったことじゃないじゃない? 興味ないもの」
 全く意味を成さない言葉の応酬に、千鶴は今度は、沖田にも聞こえるくらい大きく、はぁ、とため息を吐いた。沖田はそんな千鶴の様子を楽しげに観察している。沖田とて、二十数年間もこの考えで生きていたのだから、たとえ千鶴の言っていることが世の中では正論だったとしても、簡単に考えを曲げるはずがないのだ。他の、例えば試衛館時代からの連中なんかは、面倒臭がったり、もう諦めていたりして沖田の考えを正そうともしないから、沖田にとっては千鶴の真っ当な反応が新鮮なのだろう。千鶴といる時の沖田は基本的に楽しげだ。
 どうすればこの捻くれた男を納得させられるか、と千鶴はちょっと思案してみたが、残念ながら舌先は千鶴より一枚上手な沖田を言い負かせる名案は浮かばない。むむ、と喉で小さく唸った千鶴に、沖田は腕を組み替えて「もうお仕舞い?」とからかうように言った。
 きっと顔を上げた千鶴の、ちょっと怒ったような目の色に、沖田はおや、と驚いた。そしてああ、この子はこの文の女に自分を重ねてしまっているのか、馬鹿な子だ。と先ほどとは違う種の笑みに唇を歪めた。沖田からしてみれば、千鶴は焦がれる側の人間ではない。むしろ文を貰う側の人間であり、今の沖田のように数多の文を、しかも千鶴自らが気付かぬ内に捨てていくような、ともすれば沖田よりも酷薄な焦がれられるべき存在である。千鶴がこんな女に自分を重ねることなんてなくていいのに、と沖田は今すぐに手の中にある文を破り捨ててしまいたい衝動にかられた。しかし今それをしたら、千鶴は烈火の如く怒るだろうな、と呆れに眉を歪めて、ため息ひとつで済ませた。
「じゃあ、沖田さんがそうだったら、悲しくはないですか?」
「うん?」
「沖田さんが、もし好きな人に文を書いても、その文を捨てられて、他の誰かに見せられてしまったら、悲しくはないですか?」
「え、そんな僕、想像出来ないんだけど」
「じゃあ頑張って想像してみて下さい」
 誰かに恋文をしたためる自分が想像出来ない沖田は、戸惑いながらも頑張ってみた。そもそも机に向かうことすら億劫なのに、私情で文を書くことなどこの先あるのだろうか、と沖田は我ながらにちょっと呆れながら考えてみる。
 沖田は生まれが良いから、仕草や書はどこか洗練された美しさがある。ただ、それを生かそうとも思わない奔放な気性であるから、やらせれば上手いが、基本的に作法も大して気にしないし、書や文など滅多に書こうとしなかった。近藤などは「全くもったいない」と沖田の書の上手さを羨んだことすらあった。
 暫し考えてみても想像出来ないから、やっぱり無理かも、と零してみると、千鶴も一緒になって代案を考え始めるから、その素直な様子が可愛くて、沖田ももう少し頑張ってみる気になった。その頑張ってみる内容が「文を書く自分」であるのがぱっとしないが、沖田にはどうしても想像できないのだから仕方がない。
「あ、じゃあ沖田さん、文はいいので、もし誰か、とても好きな人が出来て、その人に冷たくされたり、気付いてもらえなかったりしたら、悲しいでしょう?」
「気付いてもらえなかったり?」
「はい」
 ああ、気付かなかった。そう呟いて、小さな白い紙に目を落とした沖田の、その双眸に宿る感情の種に千鶴は気づかない。ただちょっと眉尻を上げた得意げな千鶴が、ね、そうでしょう。と腰に手をあててみせた。
 沖田の手の中にある文は、今でも沖田にとっては白い紙と、文字の羅列が合わさったものでしかなかったが、今は何故かぐしゃぐしゃに丸める気にも、破いて捨てる気にもならなかった。白粉臭いのは変わらず気に入らないし、色町の、もう顔を覚えてもいない女からの文など何の感慨も浮かばないのは確かなのだが、なんとなく無下に捨てるのは躊躇われた。
 ちろりと千鶴を覗き見て、風に踊る艶やかな黒髪の香りそうな軽やかさに眩しげに目を細めて、沖田は文の文面をじ、と見た。黒々とした、千鶴の髪のような墨の跡は沖田への慕情を辿って文字の形を作っている。
(この文は、僕と同じかもね)
 すぐ切り捨てられてしまう文は沖田自身と重なって見えた。恋心というのは、打ち明けても相手に受け入れられなければあっさりと捨てられてしまう。関係が切れてしまっても構わないという度胸はないけれど気付いて欲しいという臆病者が恋心を伝える有効な手段が恋文だ。例え受け入れられなかったとしても、ただ文が返ってこないだけである。臆病癖は沖田とそっくり似て見えた。不要ならばすぐに切ってしまえる、気付かれぬ内に捨てられてしまう小さな文。
 しかし沖田にはこの曖昧でか細い関係を切ってしまう勇気などなく、この先、文机に向かってその美しい字を紙に表すこともない。この仲間でもなく、同胞でもなく、家族でもなく、想い人でもなく、他人でもない、それら全ての交わった交点に立っているような千鶴に、その足場を壊して、新たな場所を形成出来る自信もない。自嘲気味に笑って、紙の端に出来た皺を少し指で伸ばした。
 沖田はその文を袂へ突っ込み、これでいい? と言わんばかりに軽く両腕を広げて見せた。眉尻の下がった、ちょっと困ったような笑みは「参った」の合図である。最近、沖田はよくこの顔を千鶴に見せるようになった。そしてこの表情を見せる度、考え方が少しずつ千鶴に影響されていく。
 千鶴は満足げに笑って、なんでか「ありがとうございます」と礼を言った。沖田は小さく目を丸くして、なんで僕が礼を言われるの。と呆れたような声を出したが、千鶴は八分咲きの桜のような可愛い笑みを崩さないまま、嬉しいから言ったんです。そう言うだけだった。
「なんで千鶴ちゃんが嬉しいの?」
「だって、沖田さんが誰かの気持ちを無下にするのは、悲しいですから」
 意味が分からないよ、と小首を傾げる沖田に、千鶴はただ微笑んだまま、分からないなら分からなくてもいいんです。と奥行きのある瞳で沖田を見る。吸い込まれるような色合いの目がなんと言いたいのか、明確な答えは沖田にはとても読み取れないが、どくんとひとつ大きく血を打ち流した心臓の、鼓膜に貼り付いたその音が、なぜか泣き出しそうな音に聞こえた。
 後ろに手を組んで、照れ隠しのように自らのつま先を見る千鶴の髪が千鶴の顔を隠してしまって、沖田からは見えない。なんて、生意気ですね。ぽつりと呟いて、今度は開き直ったように勢いよく顔を上げてからりと笑う。ころころと変わる豊かな表情は軽やかに風に踊る花弁のようであるのに、時折、酷く大人びたような深い色合いで笑う双眸は月のない夜よりじっとりと深く重かった。
 そんな千鶴が心に引っかかって取れない沖田は、こんなときはどんな表情を作っていいのかわからなくて、ただ曖昧に視線を泳がせて、そうだね、生意気だね、と言葉を濁すしかなかった。それに千鶴はちょっと拗ねたように頬を膨らませて、沖田さんだって、意味分かってないくせに、とまた生意気をひとつ言うものだから、沖田もだって、千鶴ちゃん聞いても教えてくれないでしょ。なんて拗ねた顔を作ってみせた。
「そんな顔しても教えてあげないですよ」
「ぶー。千鶴ちゃんの意地悪!」
「沖田さんがそんなことしても可愛くないです」
「そう? 千鶴ちゃんは可愛いよ」
「な、なんですか、いきなり! もう、からかわないで下さい!」
 本気で言ったのになぁ、と悲しげに呟いてみる沖田に、その言葉すらからかわれていると思う千鶴は腰に手を当てて、もう、と怒ったような呆れたような顔で小さく胸を張った。とても恐ろしくは見えないその仕草に、沖田は思わず喉を鳴らした。
(僕には、このくらいがいいな)
 こうして、からかっていると思われているときが一番いい。ひっそりと眼差しを伏せた沖田に、千鶴は気付かない。気付かれては困るのだから、沖田にとっては気付かれない方が都合がいいはずなのだが、胸を掠めた一抹の寂しさを誤魔化すことは出来なかった。しかし、この心地よい距離感を手放せない沖田はただ深い双眸を千鶴に向けるのみだ。
 沖田は袂に突っ込んだ文から仄かに香る、花と化粧の匂いを嗅ぎながら、お前は僕と一緒だな、とらしくもなく胸の内でだけ、もう顔も思い出せない花町の女に思いを馳せてみた。会ったのは、きっと一度きりだろう。沖田は基本的に色事に興味はないし、馴染みの女も作らない。文を寄越した女も、自分のように懊悩し、思考の海を彷徨った挙句にこういう答えを出したのだろうか、と思うと、どこか女が近しく思えた。もう一度会ってやるのもいいかもね、と思ったが、実行する気はさらさら無かった。
 手探りで文に触れ、紙の端をちょっと折り曲げた。後でこっそり燃やそう、と沖田はそのまま紙を握り潰した。手に付いた墨と花と化粧の匂いに少しだけ眉をしかめ、僕はこれくらいがいいよ、と誰に言うでもなく、呟いた。何か言いましたか、と小首を傾げた千鶴の揺れた目に眦をゆるめて、なんでもないよ、と千鶴より茶けた前髪を指で摘んだ。長い前髪に遮られなくなってさっぱりした視界で、薄紅色をした千鶴はやはり、握りつぶした文よりずっと愛らしく艶やかだった。