結ばぬ縁

 日は高々と青空に昇り詰め、金色の光を惜しげもなく地に降らせる。それがありがたいのか迷惑なのかは人々の感性によるのだろうが、今の千鶴には少々疎ましいものに思えた。
 鍛錬に勤しむ隊士たちや、稽古といえるのか分からないほど滅多打ちに隊士たちを叩きのめしている沖田や、それを制止することも諦めたのか、沖田の方をまるまる無視して自らの受け持つ隊士たちに稽古をつけてやっている斎藤など、今日はとんと平和な屯所を見回しながら、千鶴は初夏の強い陽射しに目を細めた。
 そろそろ昼の巡回の時間だが、幹部でも千鶴のよく知った人物の隊にしか同行出来ない。千鶴が今日は誰だったかしらと思いを巡らせていると、すぐ目の前から「雪村君」と低い声で呼ばれた。多少皺がよったような声は千鶴の知る限り一人しかいなく、千鶴は浅葱色の羽織に袖を通したその姿をみとめ、嬉しそうに「井上さん」と微笑んだ。今日の巡回は井上の隊のようだ。
「今から巡回だけど、雪村君も行くかい?」
「はい、ありがとうございます」
「うん、でも、何が起きるかわからないからね、隊から離れてはいけないよ」
「はい、わかりました」
 千鶴は井上の隊の巡回に同行するのが好きである。好き、というより、井上の隊に同行するときが一番安心できるのだ。純粋な実力や安全に関して言えば、新選組でも一、二を争う腕を持つ沖田や斎藤、永倉の隊に同行した方がいいのだろうが、人柄や雰囲気など、その他の要因を足したとき、千鶴にとって井上の隊が一番安心感を持って自らの目的を果たせるのだろう。だから千鶴は、井上と一緒の巡回ならば一も二もなく頷く。時には千鶴から同行を申し出ることもあるが、それも井上は一度も断ったことがない。
 巡回とはいえ、そう毎回毎回大きな事件があるわけもなく、一度も刀を抜かないことだって多い。しかし危ないから、と念を押して千鶴を気遣ってくれる井上が、剣術はそう上手くないとしても、千鶴にとってはとても頼もしく見えるのだ。
 その日の巡回も例によって何事もなく、屯所へ帰り、それから暫く経った夕方に、千鶴の部屋を井上が訪ねてきた。外に用事があるから、千鶴も一緒にどうだと誘いに来たのだ。千鶴は用事の邪魔になってはいけないからと遠慮したのだが、聞けばそれは重大な用事ではなく、軽い買い物のようだったので、井上の言葉に甘えて同行することにした。
 巣に帰る烏が、一時の別れの挨拶をしているように高い声を柿色の空に響かせて鳴き交わしている。千鶴と井上はそんな空を見上げながら、今日も一日平和でなにより、だなんて冗談めかして笑ったりした。浅葱の羽織を脱ぎ、脇差のみをぶら下げた井上は、あまり武士という言葉が与える堅さを感じさせない。本人は喜ばないのだろうが、そんな井上を千鶴は好ましく思っている。
 思いのほか、所用は早くに片付いて、まだ半刻も経たない内に二人は帰路に着いた。ほたほたと、ゆっくり歩く。千鶴の小さい歩幅に合わせて、のんびりと、一歩一歩踏みしめるように歩く井上は優しさが滲むようで、千鶴は嬉しくなってちょっと足が早くなる。そうすると、必ず井上はくすくす笑って、そんな急いでどうするんだい、転んでしまうから、もう少しゆっくり歩きなさい。そう言って、更にゆるりと、千鶴がゆっくり歩いたときと同じくらいの速さで歩き出すから、それも千鶴の心を和ませてくれる。
「ああ、雪村君、今日はつき合わせてしまったから、茶屋で一服して帰ろうか」
「え、でも、悪いです。それに、あんまり遅くなると、井上さんが怒られてしまいます」
「大丈夫、用も早くに済んでしまったから、ちょっとくらい寄り道したってばちは当たらないさ」
 井上は千鶴の手を引いて、近所の茶屋に入っていった。店の主人とは顔なじみらしく、井上と千鶴を認めた途端に、娘なのだろう女に二人分の団子と茶を用意させ、井上と軽い世間話などを交わす。主人は井上が新選組の井上なのだと知ってるようで、今日は非番ですか、などと笑っていた。
 茶屋の主人はちら、と一度、千鶴の方を覗き見て、すぐ井上へ視線を戻したが、驚いたように目を見開いて再度千鶴を、今度はまじまじと見た。千鶴は戸惑いながらもぎこちない愛想笑いを浮かべていたが、やがてからからと笑う主人に肩をばしばしと叩かれ、思わず躓きそうになった。茶屋の主人は千鶴の薄い肩に手を乗せたまま、感慨深いように「この子、もしかして井上はんのご子息どすか?」となにやら妙に嬉しそうな声色で言った。井上はやぁ、と手を横に振り、この子は新選組で預かっている子だよ、と苦笑気味に言った。なぁんだ、と肩を落とした男に、なにやら千鶴は申し訳ないような気がしたが、千鶴の頭を撫でて「勘違いしてすんまへんでした」と人の好い顔で眉を下げるから、千鶴もいいえ、と笑った。
 暫しの間、茶屋で茶と団子とを楽しんでいた井上と千鶴だったが、お使い帰りという手前、そう長居するわけにもいかず、ぼちぼち帰ろうか、というころ、茶屋の主人は「勘違いしてしまった詫び」などと言ってお土産に団子を持たせてくれた。井上も千鶴も悪いからと断ったのだが、茶屋の主人はいいから、とはんば無理矢理に団子を千鶴へ押し付け、自らはさっさと仕事に戻っていってしまった。二人は顔を見合わせて暫し唖然といていたが、先の娘が二人に「貰ってやってくださいな」というので、ありがたく貰っていくことにした。
 赤の濃くなった土を踏み、屯所へ帰るころには日も半分が地に吸い込まれていた。赤々とした陽射しに照らされて、千鶴の白い袴も薄紅に染まる。薄紅に満たされた屯所の、その端っこで、井上と千鶴とは並んで落ちる日を見ながら貰った団子を食っていた。
「井上さんと親子に間違えられるなんて、びっくりしました」
「そうだね。ご子息、だなんて、驚いたなぁ」
 二人はくすくすと喉で笑って、しかし井上は一時、眉根をやわく寄せた。薄紅色の小さな肩を見ながら、でも、と戸惑い気味に紡いだ言葉に、千鶴は眼差しを上げた。
 遠くでは未だ気合の声や、床板を殴る足音が薄く風に乗って、二人のいる場所まで届く。
「ご子息、なんて、少し心外だったけどね。せめて可愛い小袖を着せてやって、ご息女と言われたいものだけど」
「嬉しいです。でも、やっぱり男装は必要ですから」
「うん、それは分かってるんだけどねぇ」
 井上は団子の串を持ったままの右手を顎に当て、むむ、と小さく唸って赤い空仰いだ。
 日は残すところもう頭のてっぺんあたりだけになり、対極の空は淡く藍色に装いを変え、薄い星々を煌かせる様子は闇色の振袖を下げて歩く女のようだ。
 眼を閉ざし、何事か思案する素振りのまま黙ってしまった井上を、千鶴は昇りかけの月と同色の双眸をはたはたと瞬かせて、じ、と井上の言葉を待っていた。
「じゃあ、いっそ源さんが本当に養女に貰っちゃえば?」
「お、沖田さん」
 突如聞こえてきた声に千鶴はびくりと肩を跳ねさせ、そろりと首を回せば、そこにはにこにこと楽しげな緑色を輝かせた沖田と、呆れ顔で眼差しを伏せる斎藤とがいた。いつの間に、と千鶴は日常でも気配すら感じさせてくれない二人に、思わず尊敬のような呆れのような感情が浮かんだが、井上は個人は特定できないまでも、気配には気付いていたようで、ああ、君たちだったのか。そう朗らかな笑みを浮かべ、視線を投げかけた。
 沖田が年齢のわりには幼いような印象を与える、猫のような目を楽しげに丸くして、ねぇ、そうしちゃえば。なんて繰り返す。その一歩後ろに佇んでいた斎藤が、こそりと「馬鹿か」と呟いた。
「えー酷いなぁ」
「どうやったらそんな考えが出てくるのか、一度、お前の頭の中を切り開いて見てみたいものだ」
 きゃー! とわざとらしい悲鳴を上げてみせる沖田が鼻についたのか、今ここで切ってみるか。と右腰に手をやる斎藤に、井上がまぁまぁ、と制した。
 盾にするように、千鶴の後ろに回りこんだ沖田に、千鶴は呆れた声で「沖田さん」と言ったが、沖田は笑みを崩さずに「なになに?」と何事もないように返す。千鶴はそれに真面目な言葉を返すのも、なんだか滑稽に思えてしまって、ため息交じりに「もう、いいです」と吐き出した。
「で、千鶴ちゃんはどうなの?」
「え」
「源さんの養女」
「まだ引っ張るんですか、それ」
「まだ引っ張るんですよ、これ」
「……でも、私には、父様がいますし」
「だよねぇ」
 うんうん、と何度か頷いた沖田は、千鶴の答えなど予想済みだったようで、千鶴は意地悪だなぁと思いつつ、そんな沖田の茶目っ気は憎めないのだった。
 斎藤は「まだ引っ張るんですか」のあたりから、もう沖田の妄言に付き合う気はあまりないらしく、話を聞いてはいるけれども、もう沖田の言動を追及する気はないようだった。呆れたように大きなため息を吐いて「あんたも大変だな」と千鶴の肩を軽く叩いた。
 千鶴は肩に張り付いた沖田はそのままに、でも、と井上を見上げる。
「私にとって、井上さんは新選組の中のお父様みたいな方だと思ってます」
「え、私がかい? 嬉しいなぁ」
「ねぇ、それって千鶴ちゃんにとってってことだよね? 新選組みんなのお父さんってわけじゃないよね?」
「総司、ちょっと黙れ」
 自分より大分高い位置にあるはずの沖田の後頭部を力いっぱいに叩き、いだっ! と蛙の潰れたような声を出した沖田に構わず、常のつんと澄ました顔で井上と千鶴の会話を見守っていた。


 あれから数日経った。あの会話があったからかそうではないのかはわからないが、あれから千鶴はめっきり井上に懐くようになり、井上も前にも増して千鶴を猫可愛がりするようになった。はっきりと目に見えるような変化に、幹部連中なんかは「なんかあったのか?」と噂したりもしていたが、二人の戯れが可愛らしく親子のようだったから、まぁいいか、と楽観して見ていた。
 しかし、それに素直に納得できないのが幹部連中のなかに一人、沖田であった。
 今日の昼の巡回は井上の隊らしく、春の野の兎のように走る千鶴を見ながら、沖田は胡坐の膝に腕を乗っけて頬杖をついた。その一歩後ろで斎藤が、やはり涼しげな、微量の微笑ましさの混じったような眼差しでそれを見つめていた。
「ねぇ、一君」
「なんだ、総司」
「僕さぁ、この前、なんかすっごく余計な事を言った気がするんだよね」
「言ったと思う」
 斎藤はちょっと小ばかにするような色を群青の双眸に浮かべて、今は下にある沖田の枯葉色のつむじを見下ろした。沖田は拗ねたような顔で、少し遠くの薄紅色の影を目で追っていた。
 やがて沖田と斎藤の目の前を過ぎようとする千鶴の背に「千鶴ちゃん、たまには僕たちもかまってよー」と投げかけて見るけれども、千鶴は振り返りはすれど足を止めることはなく「今から井上さんの隊の巡回に動向させていただくので、嫌です!」と跳ね返されてしまった。
 沖田は頬杖をついていた腕はそのままに、頭を落として「源さんに負けた……」とくぐもった声で呟いた。その言葉に、表情を一切変えず、その鋭いような硬質な視線だけを寄越した斎藤が「最初から勝ってるところなんてなかったと思う」と、やはり表情の浮かばない声で言った。