蛇と山茶花

 蛇という生き物は総じて冬篭りをするものだというのに、それは美しく据えられた切れ長の目を、にぃ、と細く歪めて笑うような形を作ってみせた。しかし、てらてらと粘着質に光る目はぽっかりと空いた穴のような、であるのに単に虚ろなとは表現し難い、例えば様々な色をぐしゃぐしゃに混ぜて出来た黒のような、そんな色で炯々としているのだ。
 几帳面に切り揃えられた爪が、薄く雪を被った紅色の花を弾く。雪は一瞬、剣火のようにぱっと弾け、すぐ地を覆う白に同化して消えた。花弁が一片、後を追うように、しかし白とは同化出来ずに積もった雪の上に落ちた。隅が小さく朽ちた紅色がぽつねんと白の上で寂しげに揺らぐ。
 その一片を見る目があまりに無機質なものだから、千鶴は好奇心にほんの少しの恐怖を孕ませて「山茶花、お嫌いなんですか?」と人形のように整った、感情の見えない顔に問いかけた。萌える紅緑と、鮮やか過ぎるその色を薄く覆う雪とは絵巻物のように美しく、その山茶花に添えられた指もまた、数多の血を吸ったとは到底思えぬ程に白く、女のように細かった。濡れ羽色の髪を垂らした横顔も、薄く笑んだような唇も、咲き誇る山茶花に劣らぬ程に艶やかだ。ただ、千鶴を見る双眸だけが闇を浮かばせていた。伊東は顎に指を添えて、わざとらしく小首を傾げた。顔に掛かる髪が音もなく揺れる。
「どちらかといえば、嫌いじゃないわ」
「じゃあ、好きでもないんですね」
 伊東は二つ目の問いには答えず、山茶花の花をひとつ毟って、ばらばらと雪の上に散らした。死んだ山茶花が白に滲んでいく。月のない夜の双眸に楽しげな星屑を添えて、指に残った花弁をひとつ、千鶴の髪を結う赤い紐に絡ませた。
 その行動の意図が読めぬまま、千鶴は小さく身を固くした。足に力が籠り、薄く積もった雪が、じり、と沈んだ。そんな千鶴には構わずに、伊東は山茶花を撫でる。山茶花の鮮やかなおしべの房と残った萼までもを赤の上に散らした。花はもはや山茶花の原型を留めてはいないが、雪の上に蒔かれた花の死骸は山茶花と変わらず鮮やかだった。
「ねぇあなた、山茶花と椿の違いは何だと思う?」
「山茶花と椿ですか?」
「そう」
「わからないです」
 伊東は困惑を示す千鶴の目を見やり、どこか雅やかなゆるりとした動作で山茶花の花弁を一枚千切った。千鶴の目の前にかざし、よぉく見てみなさい、と独特の細い笑みを浮かべた。指に咲く山茶花は蝋のような白い爪先に紅が塗られたようだった。
 山茶花の花弁をじっと見る。瑞々しい花弁は鮮烈な赤に薄雪を纏い、それ一片でも十二分に美しい姿をしている。しかし、よく見れば、ごく小さく、端から病に侵食されていくように土色に腐敗していた。死んだ赤と腐った茶が伊東の艶やかな爪先を飾っている。
「椿はね、花が朽ちる前に、萼ごとぼろりと落ちるのよ。良く似ているのに、山茶花は花弁が端から枯れていって、一枚々々、散るの」
 はらり、とまた伊東の手で殺された花弁が鮮やかに雪に滲んでいく。
 目の前で、伊東の言う美しいままに散らされた山茶花に千鶴は特に何の感慨も抱くことはなかったが、伊東はもしかしたら椿より山茶花が好きなのではないか、とふと思った。潔いという椿を賛辞する言葉には、千鶴の想像には余るような鋭い毒が含まれているように感じた。
 ふたつ据えられた夜をころがして、伊東はくつりと喉を鳴らした。顎に指を添えて、下手な太夫なんぞより優美に笑った。
「そうね、あなたは、椿でなく、山茶花のように死んでいけばいいわね」
「どういう意味ですか?」
「さぁ、私もなんとなく思っただけだから」
 意味なんてないんじゃないかしらと、おどけたような顔で伊東は彼の普段の雰囲気には不相応なくらい、ころころと無邪気に笑った。
 死ぬなどと不吉な言葉を投げられたにも関わらず、千鶴は不思議と嫌な心地はしなかった。山茶花のように、という言い回しが、醜く朽ちていけ、という意味なのか、朽ちゆこうとも生きろ、という意味なのかは分からないが、伊東の声色に嫌悪の色は見い出せなかった。
 自らが山茶花ならば、武士である伊東は椿だろうかと、千鶴はぼたりと雪に落ちる椿に伊東を重ねてみた。網膜に焼き付く赤は伊東の艶やかな立ち姿に似通うものもあるが、何の抵抗もなく呆気なく落ちる様はとても伊東には重ならなかった。
 そんな潔すぎる死に様を伊東は望んでいるのか、と千鶴は思ったままの疑問を口にした。伊東は興味深そうに、千鶴の言葉によって自らの内を探るように聞いていた。やがて伊東は少し思案する素振りを見せ、彼の癖なのか、袂に忍ばせた鉄扇を取り出し、ぱち、と開閉の音を幾度か鳴らした。千鶴は同じ質問を重ねる。
「伊東さんは、椿のように死にたいと思ってるんですか?」
 伊東は扇子の白い紙から視線を外し、千鶴の揺れる双眸をじ、と見た。瞬きをする度にぱさりと音の聞こえるような、豊かな睫毛の房が忙しく揺れる。それは伊東の動揺を知らない冴えた眼とは真逆にあるように思えた。仔犬のようなその目が不意にひどく好ましく思えて、伊東は思わずくすくすと笑った。
 ぱち、と半分だけ扇子を開き、ゆるく腕を組んで、そうね、と呟いた。
「私は椿のようにはなりたくないわね。椿は、綺麗過ぎてあまり好きではないもの」
「じゃあ、伊東さんは」
「私は、山茶花でも椿でもなく、梅のように死ぬわ」
 梅、と意外そうに繰り返した千鶴に、そうよ、と伊東は自らの艶やかな髪を指で梳いた。さらりとした髪が頬に掛かる様はどこか色気を感じる。
 雪に劣らず白い指が、山茶花の花に薄く積もった雪を弾く。薄雪の衣を剥ぎ取られた山茶花は寒そうに風に震えた。
「梅はね、香りが強いから、散ってもまだ香りは残るでしょう。私は梅のように死ぬわ。私が死んでも、後には香りが残るように」
 ただで死んではあげなくてよ、と伊東は茶化すように笑い、雪を落とした花弁をまた一片、千切って捨てた。
「あなたは、山茶花のように生きていけばいいわね」
 結い紐に飾られた花弁が、風に拐われて遠くに落ちた。伊東に殺された山茶花の残骸も、白から滲み出て去っていった。足元を赤い花弁が走っていく。
「私は、梅のように死ぬわ」
 さく、と雪を踏む軽い音を残して屯所へと帰っていく。山茶花の木と並ぶ立ち姿も、去り行く後ろ姿すらも彼は完璧なまでに美しかった。
 千鶴は梅の香りのように耳に残る足音を噛みながら、伊東をなぞるように山茶花の花を撫でた。瑞々しい花弁は冷たく指に吸い付き、触れた拍子に、隅から枯れ始めた花弁が一枚、はらりと落ちた。