遺産

 異国の風は生まれ育った土地のものよりも幾らか乾いていて、冷たくなる唇をべろりと舐めて湿らせた。緑の地平線のは奔放な気性にひどく似合って、気ままに、故郷のものよりも体の大きな馬を駆る日々は数年前の刀を握り血を被る日々よりもずっと朗らかで、この国を原田はとても気に入っていた。
 沈む赤々とした日に目を眇め、まるで眩しい、と文句を言うようにひとつ嘶く愛馬の長い鬣を撫でた。原田が苦笑して「もうちょっといいだろ」と呟けば、今は自らの上にある主の顔をちらりと覗き、仕方が無い。とでも言うように、手入れの行き届いた、滑らかな茶色い喉を震わせて鳴いた。
 赤に沈む世界を見ていると、なんだかあの頃に戻るような心地がして、遠い、もう言葉の不便も無くなってしまったほどに馴染んだこの異郷の地の風の中で、原田の周りだけに血の匂いが満ちるようだった。この季節の夕日は一等赤く、まるで原田を責めるように長く連れ添った愛馬までも赤く染める。  異国に渡った原田はその人柄からか異国の民にも親しまれ、ある部族と行動を共にし、今では長と兄弟の契りを交わした家族になっていた。そのことに後悔など微塵もなく、むしろ、余所者の自分をここまで受け入れ、家族だと言って憚らない友に気恥ずかしさと嬉しさを感じている。恩義はこの国の言葉と故郷の言葉との両方を使っても表しきれない。しかし、こう赤々と日の燃える火には、どうしても脳裏を過ぎる過去が泡沫のように原田の胸に湧き上がってくるのだ。
 さら、とあのころよりも長く伸ばした原田の髪を、赤い風が攫う。原田は口に掛かる髪を掻きあげて、ち、と苦々しく舌打ちをひとつ風に流した。
 原田はもう随分昔に着慣れてしまった服の、腰に下げた皮袋に手を突っ込み、風よりも冴え冴えと冷たいひとつの小瓶を取り出した。夕日に照らされ、更に深い赤に変わった小瓶の、その中に揺れる赤い水面をその目に映す。てらてらと光る赤はつんと澄まして、その濃い毒を隠そうとする。その様子はまるで故郷の、幾らか通った女にも似ていて、原田は懐かしさと思い出の苦さを唇と共に噛み締めた。  その毒を知りながらも、もしも万が一の時にはと持ち、その使い道を失い海を渡った後も、もう十数もの年月が流れたにも関わらず、なんとなく捨てられずにいた、赤い水を湛えた小瓶。幾度か、使おうか、と思ったこともあった。しかし、結局使うことはなく、今では毒薬の小瓶も遠い記憶のなかの面影を探すためのものになっている。
 風の噂で聞いたには、原田のかつての同志は一部を除いてことごとく戦場に散ったそうだ。しかし、原田はそれを「あいつららしい」と羨むような目で思ったものだった。自らの誇りを振りかざし、百の人にとって間違った道であろうとも、その中にほんの少しの正しさを求めて突き進んだ彼らを、原田は誇らしく、そしてほんの少しの羨望を込めた手で遠い地から風に花弁を流し弔った。
 そして原田が特別に気に掛かっていた少女は、東の果てで今も想い人の沈む海を眺めているという。原田が最後に見た少女は、年齢の割りに幼い目をゆるく滲ませ、ほんのりと赤い頬で微笑んだ。顔のつくりは幼いというのに、その表情がいやに大人びていて、原田はこっそりと、痛いほど拳を握り締めた。
 あんなにも愛らしい顔をしていた少女も、きっともう大人の女というのも憚られるような年齢になっていることだろう。しかし、彼女の美しさはきっと顔の老いくらいでは損なわれていないような気もしている。あのころの原田がひっそりと愛しく想っていた少女の美しさは、その愛らしい顔立ちでもたおやかな立ち姿でもなく、しなやかな竹のようなその気性にあったのだから。その気性が今でも変わっていないだろうと信じているから、原田は今も少女の面影を探して小瓶を見る。
 しかし、その面影を探してしまうたびに、原田は言いようの無い劣等感やにさらされる。彼女の想い人に、自分が劣っていたとは思わない。原田はそこまで卑屈な男ではない。しかし、自らの道を貫いて死んでいったその人や、何年も肩を並べた同志に対して、自分もその道を選んでいたのならば、もしかしたら彼女の心に一点の染みを残せたのではないか、と思ってしまう心があるのも、また事実なのだ。もしも自分がこの小瓶の中の赤を飲み干し、髪を白く変え双眸を赤く染め抜き、最期まで彼の人と共に刀を握り続けて果てていたならと、未練がましい思いが消えない。
 友と連れ立って隊を抜けたことも、戦が終り海を渡り異国を選んだことも、選んできた道に対しての後悔はない。ただしかし、想いを告げることも、自分の存在を心の片隅に残すことすら出来なかった可愛い女の目が、異国の民となった今でも時折浮かんでは原田の心臓を締め上げるのだ。
 原田は小瓶をぎゅっと握り締め、その拳を額につけて瞼を落とした。主人の感傷に飽きたと、急かすように馬が鳴く。原田はそれに苦笑して「わかったよ、ごめんな」と腕を伸ばして馬の額を撫でる。  今日こそ小瓶を投げ捨ててしまおうと、沈みかけた日に大きく振りかぶったが、その赤があまりに眩しく、原田は結局、小瓶をもとの皮袋の中に納めた。
 手綱を握り、愛馬の首を叩いてやれば、早く走り出したいとばかりに足を踏み鳴らす。駆け出した馬の、その上に吹く冴えた風のなかで、原田は目を細くした。
 背後をちらりと覗き見れば、沈んだ日の対極にはもう紺青の夜がその麗しい顔を出していた。水に濡れた女の黒髪のようなその色に思わず「千鶴」と懐かしい名を呟き、一時だけ瞼を落として、それを振り切りたいように馬の尻を叩いた。日の赤は沈めども、原田の心臓に残る情までも沈んでくれるわけはなく、腰に眠る小瓶の赤も一時姿を隠したのみで、変わらず過去と原田を細く強靭な糸で繋いだままだった。