跪いてキス

 それが金に困らず育ってきた、いわゆる「お坊ちゃん」だからくるものなのか、それとも生まれたときから彼の中にある性分ゆえなのかは分からないが、とりあえず彼は負けず劣らず育ちの良い千姫から見ても上品や華美を遥かに飛び越えて煌びやかなものを好んだ。それは調度品であったり庭の作りであったり随所に表れていたが、今日の着物は千姫が今まで見てきた中でも三本の指に入りそうなくらい、それはそれは煌びやかだった。しかしこれは彼の美徳と言ってもいいのだろう、普通の者が着たならばただただ下品としか受け取れない程に派手な着物であろうとも、彼が身に纏えばなんとなく様になって見えてしまう。目が慣れてしまったかのようで、千姫はそんな自分がちょっと嫌になったのだが。
 千姫は与えられた部屋に入ってきた邸の主に対し、露骨に顔を顰めたが、相手は気にする風でもなく、千姫の好みで変えられた部屋を見回して、相変わらず地味な部屋だ、と笑った。それに千姫はふんと鼻で返し、あなたの感性に品が良いとかそういう言葉はないのかしらと睨んだ。いつもならそれで睨みあいになるところだが、今回ばかりは何故だかくすくすと余裕ぶって笑っていた。気味が悪くて、千姫は転んで頭でもぶつけたのかしら、ざまを見なさいとそっと視線を逸らした。
「そういう強気なところも、相変わらずだ」
「ふん、悪かったわね。それで、風間家の御当主様が直々になんの御用かしら?」
 彼、風間千景は、千姫のあまりに直球な嫌味にくつりと喉を鳴らして返した。常ならば睨み合い、罵りあいに発展しても可笑しくない状況であるのに、なにやらにやにやと笑いっぱなしの風間が薄ら寒く、千姫は本能的に一歩引いた。それは幽霊やら妖やらの類を見た人間の反応に似ていたが、そのとき千姫の頭の中には「なにこいつ、気色悪い」としかなかった。
 一歩、千姫が引いた分より僅か大きく、風間が足を踏み出す。それが畳に付くより前に、千姫はまた一歩引いた。赤く燃える満月と同じ色をした千姫の目が、同色の風間のそれを睨む。にまにまと笑う目元が憎らしく、逃げるのにも苛々してきて、千姫は噛み付くように吼えた。
「ああもう! にやにやにやにや、気色悪いわね! 言いたいことがあるのなら、早く言いなさい」
 すると風間はむっとしたように目を眇めて、
「貴様に雰囲気を察するということは出来ないのか?」
 と言った。
 風間の口から吐き出されたその言葉に千姫は目を丸くして「あなたにだけは言われたくないわ!」と胸倉に掴みかかりそうな勢いで言った。相当不服だったのだろう、つり上がった眦は文字通りの鬼である。
 それだけで普段ならば殺し合いに発展しかねないものだったが、今日の風間はやはり少し笑うだけで、それ以上は何も言わなかった。
 おもむろに膝を折ると、新しく仕立てたのだろう、糊の利いた袴が僅かに音をたてた。千姫の白く美しい手を取る。剣を握る風間のそれとは違い、大切に大切に育てられた千姫の手は手首から爪先までひどく整った形をしていた。
 千姫は唐突な風間の行動を視線だけで追って、肯定も否定もせず、ただ見ていた。目の前のいけ好かない男が自分に危害を加えることはないと知っていた。危害を加えることも、恐らく手を出すこともない。可笑しなところで筋を通し、妙に礼儀を重んじる。風間はそういう男だった。
 風間はその千姫の手首に顔を近づけると、薄い皮膚を噛み切った。痛みに手を引くが、風間の手ががっちりと掴んでいて離さない。千姫は柳眉を寄せ、何をするの、と咎める声色で言った。流れ出るほんの少しの血を舐め、くつくつと喉で笑う。
「羅刹の真似事? とうとう、気が触れたのかしら」
「俺の気が触れたと? まさか。仮に気が触れたのだとしたら、貴様の方だろう」
「誰にものを言っているの?」
「まあいい。貴様のそういうところを、気に入っている」
「……頭でもぶつけたの?」
「つくづく失礼なやつだ」
 本気で風間の頭の状態を心配しだした千姫に、風間は大きなため息を吐いた。ため息を吐きたいのはこっちの方だわ、と言いたかったが、面倒臭くなりそうだったので止めた。風間という鬼はつくづく面倒な性分をしていると、千姫はしっかり学んでいる。
 噛み切られた皮膚は跡も残さず、何事もなかったかのように元に戻る。雪原のような手首の白をじっと見つめ、その元に戻っていく様を見つめ、風間はやはり純血の女は違うなと満足げに言った。
 千姫は小首を傾げて、今更そんなことを確認したかったの、と呆れたように言った。常ならば見上げなければ合わない視線が、落とした状態で合うのがなんだか不思議な気分だった。千姫の美しい面を見上げて、風間は千姫の言葉に返すではなく、先の続きとして言った。
「やはり、美しい」
「そんな味気ない言葉じゃ、何も出ないわよ。言われなれているもの」
「ならばどう言えと?」
「他に言いようがあるんじゃない?」
 風間は思案するように僅かに眼差しを伏せる。見下ろす千姫からは髪と同色の薄色の睫毛が際立って見え、ああそういえばこいつ顔は良かったんだっけ、と今更ながらに思った。つり上がった眦と驕慢な態度は高圧的な印象を与えるが、こうしてしげしげと見てみれば、きつい印象の目元も美しい虎のようだ。
 金色の前髪が僅かに揺れる様を見ていた千姫の視線を再度捉えて、風間は常とは少し毛色の違った笑みを浮かべる。千姫はそれをらしくない笑い方だと思った。
「貴様は美しい。この俺の邸の中で埋もれてしまわないほどに」
「それ、褒め言葉なの?」
「この上ない言葉じゃないか」
「この際だから言わせてもらうけど、嬉しくないわ」
「貴様を喜ばせるために言ったのではない」
「じゃあなんのために言ったのよ」
「俺の目に狂いがないということを、俺自身に示すためだ」
「ああそう。わけがわからないわ」
 肩を竦め、ため息交じりに吐き出した千姫に、風間はやはり笑った。まだなにかを腹に抱えているような気がして、それを追求したい気もしたが、取りあえず、まだ捕まったままの手が不自由だった。千姫がちょっと手を引いて「離して頂戴」と鋭い声で言ったが、風間はどこ吹く風で、千姫の手を掴んだままに立ち上がった。今度は両手で、しっかり捕まえて。
 また頭ひとつ分上に戻ってしまった風間の双眸を睨みつけ、千姫は早く言いなさいよと風間の言葉を急かした。右手の自由を取り返すことはひとまず諦めたらしい。
「こんな下らないことだけが、用事じゃないでしょう?」
「分かっているじゃないか」
「回りくどいのよ。いいから、早く言いなさい。そして手を離しなさい」
 風間は一度だけ千姫から視線を逸らし、また千姫の風間家の侍女など足元にも及ばない美貌を見つめた。流れる柳眉の下に据えられた、長い睫毛を飾った双眸がなによりも千姫の美しさを強く印象付ける。睨みあうように、数秒、互いの目だけを見つめる。にぃ、と口角を持ち上げて、風間は捕まえた千姫の手に口付けをひとつ落とした。
「俺の邸こそ、貴様に相応しい。千姫、風間の家に来い」
「……それは、私に嫁に来いと言っているのかしら?」
「他になんと聞こえる?」
 千姫は片眉を跳ね上げて風間を睨む。すこしして、はぁ、とため息を吐き出して、是とも否とも言わず、
「本当に回りくどい男ね、風間千景」
 と言って、苦笑のように頬を歪めた。