くるくる緋色

 雨が降っていた。
 重たい雲が我も我もと競って日を覆い隠し、すっぽり包まれた日が辛い辛いと泣くような雨だった。ほたほたと葉に地に屋根に落ちる滴のひとつひとつが、夏の朝露のように輝かしくはないにしろ、くすんだ光を灯して目が覚めるようだった。
 頬を過ぎていく風はしっとりと暖かく、肌にじんわりと見えざる軌跡を残していく。汗がつたう程ではないにしろ、重くなる髪や、時折、足に跳ねる小さな水が些か不快だった。
 雨の日は暇である。雨は視界を塞ぐため、千鶴の隊務への同行は禁じられている。けぶる視界、滑る柄、踏み切れない足といった悪条件の中で千鶴の安全を約束できるほど、新選組も手錬揃いではない。
 両足を持て余す千鶴は雨の滴る中庭を眺め、今頃沖田の一番隊は巡察だろうかとか、斎藤はきっと道場だろうとか、非番だと言っていた藤堂は島原に酒でも飲みにいっているのだろうとか、そんなことをぼんやり考えていた。夢想は思ったより時間を費やさないものであり、さらさらと流れる雨音に我に帰ってみても、特に日が傾くでもなく、薄暗い雲が千鶴の手の届かない先で漂っているのみだった。
 はぁ、とため息を吐いて俯くと、同時にじり、と湿った土を踏む音がした。視線が地に固定される前に目を上げた千鶴の目に入ってきたのは、掠れた色彩の中に不恰好に浮かび上がる、鮮やかな緋色だった。
 くるり、とひとまわし、緋色の傘が回る。柄を持つ手は青いほどに白く、指先にいくにつれて細く細く伸びる指は整えられた卵型の爪を頂いて美しい。女のそれとも男のそれとも言いがたい手はしかし剣を握るに相応しく、ちらりと覗いた手のひらは見ただけでも分かってしまうくらいに硬かった。
 こんな雨の日にどこかに行っていたのだろうか、伊東は千鶴の姿を認めると、雨粒の中で艶を増したように見える濡れ羽色の髪をさらりと肩から流して、あら、と口角を持ち上げた。一点の泥も見られない袴からそう遠出ではなかったのだろうと思われるが、歩きの美しい伊東は泥を跳ねさせないように歩くくらい簡単に出来てしまうのではないかな、とも千鶴は思った。
 ふらふらと落ち着きがない足を叱り、千鶴はこんにちはと頭を下げた。ええ、こんにちはと軽く頭を下げる伊東の笑みにつられて、千鶴の頬も自然と微笑みのかたちを作る。
「お出かけですか?」
「ええ、ちょっとね」
 三白眼気味の目を細くして、伊東は少し傘を傾けた。ぱしゃ、と傘に乗っていた雨が落ち、伊東のしゃんと糊のきいた袴の裾を、ほんの少しだけ濡らした。
 傘を持たない片手で顎を撫でる。伊東がなにか思案するときの癖だと、最近の千鶴は気付いていた。細い顎の線を、指がなぞっていく。その長くない間も、雨はほたほた中庭を濡らす。伊東の髪も着物も、傘を差しているとはいえ、本当に雨の中にいるのかというほど濡れていない。
「あなた、武田先生を知らないかしら?」
「今日はまだ、見かけていません」
「そう……困ったわね」
「なにかご用事なんですか?」
「ええ、けれど、居ないのではしょうがないわ。ねぇあなた、暇つぶしに付き合ってちょうだい?」
「はい、喜んで」
 千鶴は伊東がちょっと苦手なので、本心から喜んでと言ったわけではなかったが、伊東が嬉しそうにぱっと笑ったので、まぁいいかと思ってしまった。
 雨粒の滴る傘をたたみ、伊東は千鶴の隣に腰掛けた。足の上で重ねられた手の形が、千鶴が今まで出会ったそう多くない男の中で一番美しかった。
 なんの話をしようかと千鶴が話題を探っていると、伊東の方から、あなたは家族がいるのかしら、と小首を傾げて問うてきた。はい、父がひとりと言うと、あら、と伊東は眉を寄せた。母がいないことに、悪いことを聞いた気になったのだろう。千鶴は慌てて首を振り、母の顔も名前も知らないのだと言った。この時勢、母が死んだ理由など聞かずとも察せられる。流行り病で死んだか、それとも戦に巻き込まれたか。もしくは、役人や程度の低い武士に理不尽な理由で切られたかもしれない。町女とは、そういうものだった。
 千鶴は話題を逸らし、父のことを話した。町医者で、とても優しい良い父なのだと話すと、伊東は意外にも優しげに眦をゆるめ、眉尻を落として良い父上ですのねと微笑みのような色を見せた。底知れぬ深い星空の色をした瞳から、一瞬だけでも柔らかな色が覗いたように感じられたのは、千鶴の錯覚ではないかもしれない。
 にこ、と笑みを深めて、私には弟がいるんですよと灰色の空を見上げて伊東はとつと語る。
 伊東の弟のことは、千鶴も名だけは知っていた。鈴木三木三郎といい、剣の腕前はそれほどではないにしろ、兄思いの好青年だと聞いている。姓が伊東と違うのは、伊東が婿にいったためだと聞いた。それ以上を千鶴は知らない。
 それ以上のことを、伊東はぽつぽつと思い出をなぞるように話した。そこから伊東の家族に対する愛情深さが窺え、千鶴はほんの僅かばかり目を見開いた。普段の伊東は、周りの幹部連中が気をつけろと口をすっぱくして言い続けているせいもあるが、飄々として底の見えない、背筋が寒くなるようなところのある人物だった。剣ばかりでなく様々の学問にも造詣深く、知謀に長けることから冷たい人物だとも思っていた。それがあんまり嬉しそうに弟のことなど話すものだから、千鶴は目の前のこの人も血の通った人間だったのだな、と些か失礼な感想を胸に抱いた。
 話す間に、雨はしとしと勢いを弱め、霧のように細い筋が幾つか空を裂くのみになった。その雨粒のひとつを指に伝わせ、ぽたりと落ちる滴を見て、伊東はにまりと独特の笑みを浮かべた。つきたての餅にも似た粘着感を感じさせる笑みは、しかし餅などとは比べ物にならないくらい性質の悪い代物だ。
 その様子に、千鶴は自分でも知らぬ間に、雨は好きですかと伊東に問うていた。伊東は黒々とした睫毛に飾られた目をぱちぱちと瞬かせて、やがて目を細めると、どうして、と問い返した。何を思うでもなく口に出していた千鶴は返されて質問に戸惑い、目の端に紫陽花を見つけて、紫陽花が似合いそうだから、と切れ切れに吐き出した。すると伊東は薄い唇を長い指で隠して、ころころと猫のように喉を転がす。
「あら、意外とお上手ですこと」
「べ、別に、特に深い意味はなかったんですけど、なんとなく、伊東さんは雨が好きなんじゃないかなって思ったんです」
 気まずさに俯く千鶴に、伊東はますますころころ笑って。やがて笑いを収めた目をすぅっと細めた。ゆるゆると気付かぬ間に赤に青に紫に変わっていく紫陽花と、流れるように変化する伊東の表情はどこか重なって見えるようで、千鶴は雨の似合う人だとなんとなく思った。千鶴は伊東の白い肌やいつも綺麗な着物が血で濡れたところを見たことがないから、かさかさに乾いた血が黒く張り付く晴れた日より、雨で血が流されて綺麗に戻るこんな日が伊東は似合うのかもしれないと思った。
 伊東は雨が好きかという千鶴の質問には答えず、千鶴の薄い色の目をじ、と暫く覗き込んで、
「あなたは雨が似合わないわね」
とだけ言った。
 千鶴を見つめる宝石のような黒い目は獰猛な光を綺麗に隠したまま、その光すら魅力に変えてしまっている。この光に惹かれ、彼の元に集う剣客達も少なくないのだろう。千鶴にそう思わせるだけの光が、伊東の目には潜んでいた。それは近藤や土方が持つものとは違ったが、違うからこそ、彼だけが持つ色を湛えて美しかった。
 小首を傾げた千鶴に口元だけの笑みを返し、そうね、と伊東は鉄扇でぴしりと手首を打った。鉄扇を弄ぶことも、伊東が思案するときの癖のひとつだった。
「あなたは夏の終わりね。蜩が鳴くような、晩夏の黄昏があなたの時ね」
「夏の終わり、ですか」
「ええ、夏の終わり」
 猛々しい夏の、最後のあがきのような晩夏。伊東はそれが千鶴だと言った。それが言葉通りの意味だけではないだろうことは千鶴も気付いていたが、隠された意味は千鶴にはあまりに重く深く、町娘として育った千鶴が察せるわけがなかった。
 ぱっと緋色の傘が開き、油紙に付いていた水が細かく刻まれて散っていく。すいと流れるように立つと、再び傘の下に収まった伊東が深い深い黒を歪めて笑った。
「また、お出かけですか?」
「ええ、もう刻限なの。暇つぶしに付き合ってくれて、ありがとう」
「武田先生は、いいんですか?」
「もういいのよ。もともと、約束があったわけではないの」
 にまり。口角を持ち上げただけの笑みは背筋が凍るほどに美しく、しかしどの色が本当なのかすら分からない紫陽花のような黒い目は、どこか泥水のようにどろりとしていた。
 じり、と水に濡れた土が悲鳴をあげ、伊東はひらりと手を振った。彼の艶やかな髪が踵を返す伊東を追ってさらりと背に流れる。
「またお話しましょう、可愛い小姓さん」
「ええ、また」
 にこ、と幼いような笑みを落として、伊東はどこぞへ歩き去る。それきり振り返ることもなく、千鶴は気まぐれな緋色の傘と足音だけを見送った。
 雨は相変わらず細く長く降り続く。先と寸分も変わらないはずのそれに、溶けた少しの予感が、千鶴の肌をじわりと濡らす。
 夏の終わり、と口の中で呟いて、千鶴は重たい雲を見上げた。銀色の糸が落ちてきて、千鶴の眼球の端を突いて目の端から流れ落ちた。