君の名すらも

 柿の実も色づき始め、頬を掠めて走り去る風が鋭さを帯びてくる初秋に、藤堂と千鶴とは並んでまろやかな斜陽を楽しんでいた。否、斜陽を楽しむなどと風流なことが藤堂にできるはずもなく、またそんな堅苦しいことを考えているはずもなく、ただ二人でぼんやりと、拳ひとつ分ほどの距離に隣り合って座っていただけである。当たり障りのない話など交えながら、赤く染まった屯所を見ていた。話す内容はといえば、貰った柿が渋かっただとか、烏が鳴いているだとかそんな話で、殺伐とした日常にぽっかりと空いた穴のような千鶴との時間は、藤堂の心を和ませた。近すぎない距離も、白い喉が震えるときのちょっと掠れた空気の音も、藤堂の目にすっと染みこんで潤した。カァ、と暮れの烏が子を呼び、千鶴のころころと笑う声を刹那の間掻き消した。
 屯所内から出ることを禁止されている千鶴の、出会ったときよりも幾分か白くなってしまった肌を夕日が艶やかに染め、紅を塗ったような色の唇は瑞々しく愛らしい。その唇からもれる声も、歌う鳥のように涼やかだ。千鶴の容姿は、どちらかといえば愛らしい部類に入るのだろうが、太夫のような抜きん出た美しさはない。しかし男児のように高く結われた黒髪の、さらりと白いうなじに掛かる様は匂い立つような気配があった。薄紅の襟が濃い赤に塗り替えられ、ほの赤く流れる髪の様子が常とはどこか違うようで、藤堂は斜陽の魔力にでも捕らわれてしまったかのように、その髪の掠める先をじ、と眺めた。
「平助君、どうかした?」
「え?」
 ぼんやりと口を開けて、間抜けな返事を返した藤堂はしばし目をぱしぱしと瞬かせた後、慌てて「なんでもない!」と取り繕った。小首を傾げて、可笑しそうに笑う千鶴の、唇に添えられた華奢な指がそこらの町娘や、極上の遊女よりずっと愛らしく見えた。
 変な平助君、と満月を模したような、くるくるとした愛らしい目を細めて言うものだから、藤堂はなにやら気恥ずかしい心地がして、千鶴の方を見るにもどこに目をやれば良いやらと、ちょうど屯所の塀に囲まれた四角い空を過ぎて行った一羽の烏を目で追ってみたりした。赤に浮かぶ一点の黒い影が、藤堂を茶化すようにカァと乾いた声で鳴く。
 ちくしょう、と烏相手に胸の内で舌打ちをして、話題などこれっぽっちも浮かんでこない藤堂は苦し紛れに「千鶴って、なんで千鶴って名前なんだ?」と藤堂自身もなんで出てきたのか分からないようなことを言った。きょと、と丸く見開く千鶴の目はまるで子犬のようだ。
「私の名前? そういえば、由来なんて聞いたことなかったなぁ」
「でも、千鶴って、良い名前だと思うよ、俺は。千鶴に似合ってるし」
「本当?」
「うん、本当に」
 ありがとう、と千鶴が微笑む。夕日か血潮か、ほんのりと染まる頬も、弧を描く唇の形も、細くなる目元にちょっとだけ寄る皺も、小姓のような格好は変わらないものの、なんだか年齢相応の少女のようで、藤堂はその整った形に目を見開いた。柄にもなく千鶴の名前が可愛いなどと言ってみてしまったせいだろうか、常より千鶴のその目に吸い込まれそうな心地がして、藤堂はついと視線を落とした。
 例えば「千鶴」のその字の通り、千もの鶴が一斉に羽ばたいたとしても、千鶴の琥珀色の目の、そのひとつにすら敵わないだろう。万人がその情景の方が美しいだろうと言っても、藤堂は千鶴の目にすら敵わないと言うだろう。
 しかし心の内でそう思ってはいても、そんな歯の浮くような台詞は原田の仕事である。藤堂は喉まで出掛かった言葉の端を噛み砕いて、少々肌寒いような空気と一緒に飲み込んだ。程よく冷えたそれは頬に集まる熱を冷ましてくれることはない。他になにか、当たり障りのない褒め言葉はないかと脳みその中の桐箪笥を必死に探ってみるけれど、出てくるのはどれもまるで口説いているかのような甘ったるい甘露ばかりで、藤堂は自らの言葉の少なさを今更ながらに悔やんだ。
 藤堂は武芸のみならず教養も一般以上に持ち合わせており、言葉が少ないなどということは本来無いはずである。しかし藤堂の性質上、咄嗟に上手い言葉を探し出せないところがある。吉原の女なんぞは、そんな藤堂を「可愛い」などと言って可愛がっているものだが、千鶴はそういう相手でもない。それに、たとえば言葉を探す藤堂を見付けた千鶴に「可愛い」などと言われてしまった日には、容易に想像がつくくらい落ち込むだろう。藤堂はそういう男だ。
 探しても見つからない言葉なんぞ探すことすら無駄と、諦めた藤堂の口から出たのは「可愛い名前だと思うぜ」なんて、当たり障りのなさすぎる、路傍の石の如く、そこらにありふれた言葉だった。  呆けたような顔をして、千鶴が鸚鵡返しに「可愛い?」と紅色の唇から吐き出す。白く濁るほど低くない気温の中、ぽつりと落とされた言葉に藤堂は急に気恥ずかしいような気がして、ふいと眼差しを空に投げた。
「可愛い名前だなーって、俺は思うよ、うん。千鶴って可愛い」
「なんか、変なかんじ」
「なんで?」
「わからないけど、平助君に、そう言ってもらえて嬉しい。私、自分の名前が好きになりそう。変かな?」
「別に、いいんじゃね?」
 えへへ、なんてはにかんで、ぶっきらぼうに放り出されていた藤堂の手に、白く柔らかいそれを重ねてみたりするものだから、藤堂は動くに動けず、ちょっと首が痛いままに空を仰いでいた。顔だけでも前に向ければいいのだが、夕日の赤で誤魔化し通せないほどに熟れているであろう自らの顔を千鶴の前に見せることもなんだか憚られ、零れそうな四角い赤を眺めることしか藤堂に道は残されていなかった。故に重ねられているのだろう千鶴の可愛い指を自らの眼で確かめることも叶わず、じわりと皮膚を通して伝わる千鶴の熱に存在を感じるだけでいる。ああ、なんか損をしている気がする。そう思ってはみても、眼前に広がるのは曇りなき赤だけである。
 そのまま会話もなく、傍から見れば穏やかなような、しかし皮の中身はどくどくと早鐘を打つ心臓を抱えた藤堂が面白いように必死に空を仰ぎ、千鶴はあたたかな面差しを庭に向けたまま、という時間がそよ風のように続いた。空の半分、ちょうど塀で隠れるくらいが白く色を変え始め、平助の首がそろそろ痛みを訴え始めたころ、四角い赤に一羽の黒がカァと横切った。カァカァと立て続けに鳴く声はまるで藤堂を馬鹿にしているようにも聞こえ、どうせ意気地なしだよ。と胸の内でだけ烏に吐きかけて、ひっそりと眉を寄せた。