かたん、と軽やかに古びたを軋ませ、路地裏に現れた黒猫は気配を全く感じさせなかった先客の存在にびくりと肩を震わせた。先客はくつくつと喉で笑い「にゃぁ」などと猫の鳴き声を真似てみせる。黒猫は走り去った。
逃げた黒猫に、薫は可笑しそうに笑って、しかし不機嫌な足は路地裏に放置されていたベニヤ板を蹴り飛ばした。ち、と舌打ちをして「だから猫は嫌いだよ」と呟いた。遠くであの黒猫か、はたまた別の猫かが「にゃぁ」と鳴く声が聴こえる。応じるように、先ほどより少し高い音が「にゃぁ」と鳴いた。薫は気紛れに「にゃぁ」と真似てみたが、これに対する返答はない。
「だから、猫は嫌いだよ」
猫の一点の曇りもないような緑色の目は、薫がこの世で最も嫌う沖田総司にそっくりだ。猫のしなやかでやわらかな身のこなしは、薫がこの世で唯一憎み愛する雪村千鶴にそっくりだ。だから薫は猫が嫌いだ。
千鶴と自分とを繋ぐ太刀の柄を愛しげに撫で、薫は口の中で千鶴、とこぼした。それと同時に、まるで対であるかのように眼窩に沸き上がる男の顔に、薫はぎり、と奥歯を噛んだ。
薫は沖田総司という男が憎いわけではない。ただ、心の底から大嫌いなのだ。沖田総司という存在を、なにより嫌悪している。
(俺が、世界でいちばん、千鶴を想ってるのに)
憎悪も愛情も、薫が強い感情を向けるのは千鶴だけであって、それ以上は存在しない。否、あってはならない。
(なのに、千鶴にいちばん想われてるのは、あいつだなんて)
薫にとって、それはあってはならないのだ。千鶴を最も愛しているのが自分なら、千鶴が最も愛すものも自分でなければならない。子供染みた独占欲が薫の千鶴への想いの底辺にある。
(認めない、許さない、俺より千鶴に強い想いを傾けられるなんて、そんなやつはいちゃいけないんだ!沖田総司、絶対、いつか俺が殺してやる)
かたん、と板を鳴らす音にはっとすれば、先ほどの黒猫が、先ほどと同じ場所で「にゃぁ」と鳴いた。薫を窺うように小首を傾げる。
薫が「にゃぁ」と声真似すると、黒猫は弾かれたように走っていった。薫は黒猫の去った方向をひどく無機質な目で見ながら、
「だから、猫は嫌いだよ」
と呟いた。