天仰ぎ

 遠い北の地で、あの子は想い人と暮らしているのかしら。まるで姉が嫁に行った妹の身を案ずるような声色で、千姫はため息混じりに呟いた。愛らしい顔立ちをした東の娘は、年齢よりも幼げな目が印象深い人間の少年と一緒になったという。自らも一度、羅刹の毒に犯されたことのある千姫である、身を純血の鬼の身すら蝕む異国の鬼の血が、人間ごときに屈するわけがないと頭では理解していたが、彼と彼女ならばそんな枷すら些細なものと越えていけるのではないか、と淡い希望を抱く心が、どこかにあることは否定出来なかった。
 千姫が今しがたまで思っていた東の娘と対を成す西の男は、口では強引な割りに、千姫に対する姿勢は紳士だった。無理強いはせず、千姫が自ら屋敷に身を寄せるまで、幾度か使いは寄越したものの、強引に引き込もうとするようなことはなかった。与えられた絢爛な部屋は鬼の祖を引く千姫への深い敬愛が窺われ、嫌々身を寄せたはずが、風間千景という男を嫌いになりきれない自分がいることにも千姫は気付き始めていた。
 一度体内に溶け込んだ羅刹の血を浄化させることは、強靭な鬼の頂点に君臨する千姫を以ってしても簡単にはいかず、未だ時折苦しめられる発作のために部屋に篭りがちになっていた。風間も思い出したように訪ね来ては近況など聞いていくが、頻繁に来て世話を焼いているのはもっぱら天霧や不知火など、風間が多少なりとも気を置く鬼たちであった。
 姫、と低い声がかかり、いいわ、と端的に答えれば、薬湯を手にした天霧が気遣わしげな顔で部屋へ入ってきた。このところは天霧とも随分打ち解け、いっそ風間などより役に立つと、千姫は天霧に幾分も心を許すようになっていた。
「お加減は如何ですか?」
「ええ、今日はなんともないわ。ありがとう、天霧」
「いえ」
 言葉少ななやり取りの中にも、情を感じられるようになった。風間の家に慣れることは癪だったが、天霧の存在は千姫につかの間の癒しを与えてくれていた。
 苦い薬湯を飲み干すと、苦い、と舌をだして眦に涙を浮かべる千姫に、よく出来ました、と天霧は子を褒める親のように千姫の頭をその大きな手で包むように撫でた。ご褒美だと言うように、苦い薬湯を飲み干した後に甘い菓子を差し出す天霧を、千姫は自分を甘やかしすぎだと思いつつも、それが心地よかった。
 風間があなたを案じておりましたよ、と天霧が微笑ましいように笑みを浮かべて言うが、千姫は風間の名など聞きたくもない、と言わんばかりに頬を膨らませて、なんでもないような声色でそう、とだけ言った。その拗ねたような様子に、天霧はくすくすと笑い声を漏らす。
「風間が頻繁に見舞いに来ないのが、不満ですか?」
「そんなこと、言ってないじゃない」
「あなたの目が、そう言っていますよ。あなたはあの短い間に、東の娘に大分感化されたのでしょう」
 とても感情の変化がわかりやすい。そう笑う天霧に、千姫は頬を赤くして、そんなことないわとそっぽを向いた。天霧の控えめな笑い声が、千姫に負けず劣らず華やかに飾り立てられた部屋に響く。
 千姫はそんなのじゃないと自分に言い聞かせてみるけれど、簡単に看破されてしまった薄い虚勢の膜は中々修復できそうになかった。
 風間が来ないことが不満なのではなかった。それは虚勢でもなんでもなく、本当に、そんなに頻繁に様子を見に来て欲しいなどと思うほど、千姫は子供ではなかった。ただ、風間の考えていることが分からなかったのだ。こうして事実上自身の邸に囲っても、当初言っていた婚礼も子も話の影にすら出てこず、ただふらりと見舞いに来ては二、三言葉を交わして去っていく。そんな風間の行動が千姫には不可解に思えて、そんなことはないを分かっていても、なにか裏でもあるのではないか気を張ってしまうのだ。
 はぁ、と千姫は諦めたようなため息を吐いて、話し始めるのを無言で待っている天霧に向き直った。心穏やかな鬼の男は、今の千姫にとって唯一愚痴を吐ける相手でもあった。義理堅く誠実なこの男は千姫が言った言葉を一句として他言しないだろうと、彼の性格を少なからず信頼していた。
「ただ、風間が何を考えているか、さっぱり分からないから。それだけよ」
「それは、仕方がないことです。私たちとあなたは、考え方が違いすぎる」
「どういうこと?」
 肩眉を跳ね上げた千姫に、天霧はこれを言ったら風間に何か言われそうですね、と苦笑交じりに言った。
 友禅染めの華やかな振袖を流した千姫は、風間が並び立っても劣って見えるほどに気品がある。つまりはそういうことであるのだが、千姫は首を傾げるばかりで、私にはわからないわと眉を寄せた。
「風間はあなたに憧れているのです。血でなく、育ちでなく、ただあなたの在りように」
「わからないわ」
「例えるならば、鬼という種族は渡り鳥です。あてどなくさ迷い、一時梢に羽を休めたとしても、そこに身を置くことは出来ない。しかし、あなたは美しい籠の鳥です。怯えることなく、飢えることなく暮らす煌びやかなあなたが私たちには羨ましい。風間が惹かれるのも当然です」
「……私は、あなたたちが羨ましいわ。自由で、何に縛られることも、強要されることもない」
「そう、皆、自分にないものに焦がれるのです。あなたと風間も、つまりそういうこと」
 これ以上は風間に怒られてしまうと、天霧は早々に退室した。千姫は先の話を消化できず、ひとり残された部屋で天霧の言葉をひたすら噛み砕いていた。粉々になるまで噛んでみても、それを飲み込むことがどうしても出来ず、千姫は天霧が置いていった金平糖をひとつ、口の中の放り込んだ。溶け広がっていく甘さの中に、なにか苦いものが混ざったような心地がして、常ならば美味と感じるそれも今はどうしようもなく舌に絡み付いて気分の悪いだけのものだった。