嘘つきに

 嘘を吐くのはもう飽き飽きだと思っていたはずなのだ。原田は心の内でだけ、そっとため息混じりに呟いて、がりがりと首の後ろを掻いた。少し付き合ってみればすぐにそれと分かる彼の癖は、なにかどうしようもない事態に直面したときによく見られた。
 平素より少し下がった肩に、その大きな手のひらを乗せれば、千鶴はちょっと驚いた顔で原田へと振り返る。千鶴は下がった眉に無理矢理に笑顔を貼り付けて、原田さん、と名前を呼ぶけれど、普段の明るい、陽の光を練り固めたような声とはまったく違うその声色はちっとも隠しきれていなかった。まったく嫌なところで素直な千鶴に、原田は千鶴の不恰好なそれとは違う、完璧な笑みを口元に浮かべてみせた。人の好い、明け透けにも見える笑みは原田が性別や年齢を問わず多くの人に慕われる理由のひとつでもあり、彼の大きな美点でもあった。しかしこんな状況では、その美点すらも原田自身を苦しめる要因のひとつでしかなくなっていた。
 元気付けるように、がしがしといささか乱暴に千鶴の頭を撫で、極力明るく、からからとした声で原田は「どうしたんだよ、似合わない顔してんぜ」と笑い、まるで子供を諭すような仕草で、背を屈めて千鶴と視線を合わせた。原田は理由なんぞ聞かなくとも大方予想が付いていたが、あえて聞いたのは淡いふたつの期待故であった。
「土方さんに、また怒られてしまいまして」
「ははっ、またかぁ? なんだ、今度はなにやらかしたんだ?」
「いえ、怒られたというか、呆れられたというか……最近、体が鈍ってきてしまっていたので、少し仲良くして頂いている隊士の方に軽く稽古を付けてもらっていたんです。そうしたら、土方さんに見つかってしまって、その隊士の方も一緒に怒られてしまいましたし……」
「あー、それ、そいつが怒られたんじゃねぇか?」
「はい、だから、その方にも申し訳ないですし、土方さんにもまたご迷惑をかけてしまって」
 ははぁ、と原田は思案するような格好をして、柱の上の方を仰ぐように見た。染みだらけの汚い柱だ。よく見れば、男所帯の屯所は染みは放置するわ、すぐに泥やら砂やらで汚すわりに誰も掃除をしないわで、すこぶる汚い。改めて、可憐な千鶴には似合わない場所だな、とぼんやり思った。
 土方の胸の内など、ほぼ読めている原田であるが、破られた期待の八つ当たりにか、それは口にせず、ただ思案するふりでその場を長引かせていた。不安そうに見上げてくる二つの愛らしい目に若干の罪悪感を覚えないでもないが、どうしても負けたくないという意地の方が勝ってしまっていた。ここで千鶴に当たっても勝てるでもなく、ましてやはなから勝ち目など虫の吐息ほどにしかないというのに、それでも引けないのが原田という男の性分であった。
 天井の染みを見ながら、俺はいつもこうだ、と原田は胸の奥でため息を吐いた。屯所とは違って、きちんと手入れの行き届いた、小ぢんまりしていても綺麗な部屋が脳裏をすっと掠める。島原の、行きつけの女のところであった。
 原田には以前、ずいぶんと入れ込んだ女がいた。もう何人も男をその手で転がしてきた、男慣れしたすこし年増の女であった。とびきりの美人ではないが、笑ったときに薄く頬に入る皺が可愛く、ふっくらとした綺麗な指がどことなく匂うような色香を漂わせる、そんな女だった。原田はその女にずいぶんと入れ込んで、一時はその女と所帯を持つことまで考えたらしいが、散々に男を泣かせてきた女はその話を振るたびに「原田はんみたいなええ男とうちじゃぁ、とても釣り合いまへんわ」と可愛い頬でくすくす笑って、それとなく話題を逸らしていた。今の原田ならばそこで女がそこまで自分に気がないことに気付けたのだろうが、若い原田にそれを感づけというのも酷であろう。ある日、試衛館時代からの同胞で、酒を飲みに行った。もちろん、原田の入れ込んでいた女も呼んだわけだが、その女はころりと同席していた土方に惚れてしまって、今まで散々金を注ぎ込んでくれた原田のことなんてもう忘れた、と言わんばかりに、その日は土方にぺったりと張り付いていた。結局、原田は女を諦めざるを得なかったが、女の想いも報われることはなかった。すこし経って、その女が原田に文を寄越した時、読まずに破り捨てたのも原田の若さ故であった。
 なんて同じような状況だろう、と原田は高々と自嘲したい気分であったが、こうなっては泣いても笑ってもどうにもならないことを、原田は先のことで学んでいる。あの若い頃よりずっと成長して、逆に女を転がす立場になったというのに、そっくり写したようなこの状況はなんであろうか。
(いつもそうだ。本気で惚れた女に限って、勝負する前からとても敵わねぇような相手に取られっちまう。絶対に負けたくここ一番に限って、いつもこっぴどい負け方をする)
 自分に非があって振られるのならば、まだ潔く諦めることも出来るのだが、真っ向からぶつかることも出来ない、曖昧な状態のままに、手を出すも出さないも自由なままにされてしまっては、思い切って退くことも諦めることも出来なくなってしまう。いっそ「俺の女だ」と宣言でもしてくれればいいのに、そういうことに限って奥手な相手は千鶴の想いにすら知らぬふりで通しているのだから、これまたたちが悪い。
 いっそ負けを認めて背を向けたいが、もしかしたら、どうにかしたら、そんな淡い希望が鼓膜に張り付いて、一度は背を向けた想いに振り向かせる。無理だ、敵わねぇよと囁く本音に嘘を吐いて、まだ大丈夫、巻き返せると空の希望に縋るふりをする。敵わないと分かりきっているのに、それでも諦めきれないのは、平素竹を割ったような気性の原田には似つかわしくない一面であった。
 こっそりと覗き見た千鶴の、仔犬のような大きな目が答えを待っている。原田はもう一度だけ、胸の内で密やかにため息を吐いて、明るい笑顔を貼り付けた。
「大丈夫だって、そんな顔してんじゃねぇよ。土方さんには、俺から上手く言っておくよ」
「え、でも、原田さんまで怒られたりしませんか?」
「平気、平気。任せろって」
「すみません、ありがとうございます」
 ぱっと明るく咲く千鶴の顔に、ほんのりと胸に罪悪感が残る反面、このまま時間が止まっちまえばいいのに、なんて使い古された言葉が出そうになる。
 原田が土方に何かを言わなければいけない必要性なんて、どこにもないのだ。はなから土方は千鶴に怒ってなどいないのだから。ただ、心配だったのだ。千鶴が隊士と関わることによって千鶴の秘密が露呈してしまうこともそうだが、端くれの隊士とはいっても日々鍛錬を積んだ男である。何かを間違って怪我でもしたら、と思えばこそ、言葉も少々きつくなるのだろう。原田はそれをよく分かっていて、あえて「上手く言っておく」などと空言を吐いた。空言は何かを補うでも、何かを助けるでもなく、千鶴を傷つけることもなく、ただ原田の自尊心をちくりと切り裂いていった。