悲し過ぎることがあんまり続くと、人って泣けなくなるのね。そう言って、夜空の星々を白く濁した千尋の、らしくもない、ぽっかりと開かれた締まりない唇に、なぜだか僕の心臓はざわざわと葉擦れのような音を立てて騒ぎ出す。血の巡りは普段より遅いくらいに感じられるし、目の前の千尋の動きだってまるでスローモーション。なのに、心臓だけがからからと煩い。
月光の下で尚、きらきらと光るスパンコールの髪が、長く背に垂らされたまま風に吹かれる。天を駆る船に吹く風は強く、吐き出される白い息すら瞬きの間に飛ばしてしまう。跡形も残さず飛ばされてしまうのに、その風に千尋の涙が乗ることはない。
(泣けばいいじゃん)
言おうと思って、飲み込んだ。今の千尋は、きっと僕の陳腐な言葉じゃ泣いてくれないと思ったから。今までの千尋なら、その言葉で、髪を撫でるだけで、魔法でも掛けられたようにあっさりと泣いてくれたけれど、今の千尋は髪を撫でても、抱き締めてみたって泣いてはくれないんだろう。そんな気がする。
慰めを知らない僕は掛ける言葉を持たず、ただ千尋の後ろ姿を肴に息をしている。紺碧の空に流れ出る金の天の川は華々しく僕の網膜に焼き付いて、きっと消えることはないんじゃないかと思う。
僕の思いが空気になるなら、今すぐ千尋に伝えられるんだろうけど、そんなことはあるはずもなく、該当する音を見つけ出せない未熟な言葉は血潮をさ迷うだけだ。目を閉じてみても、開いてみても見付からない。目の前にさやさやと広がる天の川が、ただただ綺麗だった。
不意に、那岐、と呼ぶ声がした。見れば、振り向く千尋の青い目が、自嘲の色で深みを増していた。それを縁取る薄色の睫毛に雫がついていることを期待したけど、千尋の睫毛は常のようにすっと伸びて青い目を飾っていた。
「私、気付いたの。私、幸せになりたいんじゃないんだよ、きっと。幸せになってほしいだけなんだ」
「それは、千尋は、幸せにならなくても良いって言いたいの?」
「違うよ、那岐。私がどうのじゃなくて、ただ幸せになってほしいだけなの」
「理解出来ないね」
千尋は目を細めて、解らなくてもいいよ。とそう言って笑った。小雨のような微笑みに涙の雫が添えられればまだ可愛げもあるだろうに、乾いたそれは僕には痛々しいだけに見える。
千尋が幸せにならないでどうするの。千尋が幸せにならないままでどうするの。そんなのは幸せって言わない。少なくとも、僕の中では。
千尋を散々蔑ろにして、都合の良い時だけ手のひら反したように媚びてくる。そんな国の為に千尋が苦しむ必要なんてない。本当なら、千尋が泣く必要だってない。でも千尋は戦って死んだ兵の為に泣く。大敗で多くの兵を失った今、千尋は悲しすぎて泣けないと言う。溜め込んだ涙はどこに行くんだろう。飲み込んだ僕の言葉のように、身体中を巡るのだろうか。
「ねぇ、千尋。悲しいなら、今は、泣かなくてもいいよ」
今は泣かなくてもいい。吐き出さなくても、それを千尋が選ぶなら、そのままでいい。もう泣けよなんて言わない。
これは仮定の話。もしも、この先、どうにかして、千尋と僕とが両方生き延びて、国を取り戻して、千尋が国を統べる王になって、僕はその側近でもしてる。そんなお伽噺のような、ハッピーエンドが訪れたとしたなら、更にその先で、約束して欲しい。
「ただ、千尋が幸せになったそのときに、今の分の涙を僕にちょうだい。今、泣かなかった分だけ」
悲しみと一緒に、僕のところに置いていって、それで千尋は新しい涙に目を濡らして笑えばいい。それで最高のハッピーエンド。それなら、僕は幸せだと認めてやるよ。
千尋は目を丸く見開いて、すぐに細く弓なりにして笑った。見慣れた、いたずらっ子のような顔だ。
「那岐にはあげない。那岐には、別のものをあげたいもん」
微笑んだ千尋の、含み隠した言葉は僕にはわからない。言葉が空気になって伝わってくれればいいのに、やっぱりそんなことはなかった。
ただ僕はその「あげない」が妙に心地よく、反論も許されないまま「ケチ」と呟くのみだった。