バイバイ、僕の君

 その一言はどんなものよりも那岐の頭を強く殴り、思考を停止させるには十分過ぎるものだった。
 鐘を打ち鳴らす様な鈍い痛みが脳を襲い、思わずこめかみを押さえる。それでも痛みは止まず、むしろ秒刻みに増していくそれに眦に薄く涙が浮かぶかと思うほどだった。
 千尋は涙の痕を乱暴に拭うと、凛々しい双眸に遥かな空に映す。そしてそれを噛み砕いて飲み込みたいように、那岐の脳を揺さぶる呪いの言葉を繰り返すのだ。
「私は中つ国の二ノ姫だから」
 ずきずき、針を一本一本刺していくような痛みが那岐の脳を揺さぶる。きぃんと耳鳴りがして那岐には千尋のその声まで遠く感じられた。否、遠くに感じたいだけなのかもしれない。千尋の声は明瞭に、冴えた空気を伝って那岐の耳の奥まで響いた。
 千尋はこんなにも麗しい金の髪を揺らして微笑む。何かを決意したような、諦めたような、耐えるような花の様に強い微笑みは那岐の知っている千尋の笑みとは多少の差異がある。那岐がよく知る千尋の笑みは、曇りのない、憂いのない、晴れやかな嵐の後の空のような色だ。
 その姿に那岐の脳を刺す痛みは激しさを増し、くらくらと目眩で倒れそうになる。しかしそんな那岐の脳に反し、足はしっかと大地を掴んで、千尋と同じ色の目は風に流れる金の天の川をじ、と、見つめている。
(こんな千尋は、知らない)
 那岐の気持ちを知ってか知らずか、千尋は「私、お姫様になっちゃったよ」と冗談めかして笑う。辛さを隠そうとするところは前とさっぱり変わっていないが、全てを隠蔽する笑みを覚えた千尋は決定的に変わってしまった。痛々しいそれは以前の千尋ならば知る必要のないものだっただろう。
 それは、もしかしたら那岐の知らない千尋が出てきただけかもしれない。しかし那岐から見れば、幼少より良く知る千尋の目が、唇が、日を増す毎に形を変えてしまっているような気がしていた。それが今日、この瞬間で、決定的なものになってしまったのだ。
(そんな笑顔、いらないよ)
 那岐にとって千尋はいつだって何より大切なお姫様だったのに、民衆から求められる真実の姫に戻ってしまった今、千尋は那岐だけの可愛いお姫様ではなくなってしまった。姫になった千尋は遠い言葉を覚え、微笑の仮面を手に血を流さねばならなくなってしまった。
 その事実が千尋の笑みに一点の曇りを加えている理由なのだとすれば、そんなものはいらないと那岐の心臓は血を流して叫ぶ。しかし、それが千尋の耳に届くことはなく、叫び声は血に乗って那岐の体中をぐるぐると巡る。
「ねぇ、那岐。立場も状況も、世界すら変わってしまったけれど、私の傍にいてくれる?」
「…当たり前、だろ。家族なんだから。僕が、千尋の傍を離れるわけ、ないじゃん」
 震える咽でそれだけを絞り出すと、千尋はやっと以前のように優美に微笑む。制服を着た千尋と同じように、きらびやかな中つ国の衣装を纏った千尋も、寸分も違わず晴れやかに笑っていた。しかし、それもすぐに波に噛まれる白浜の砂の様に浚われ、姫の中に埋もれてしまった。砂浜に書いた名前が波に消される様に、千尋という名前が姫の波に呑まれていくようで那岐は堪らなくなる。
 千尋の七色の光りを乱反射する瞳はそれでも空と海の美しさを失わない。まるで痛い程に那岐の心臓を抉るそれは鋭いナイフの切っ先のようだ。千尋の髪も目も言葉も、この豊葦原の光のように誇らしく輝き、その眩しさは時に那岐の心を癒し慰め、時に切り裂く。
 ずきずき、くらくら。頭が割れてしまいそう。眼球が落ちてしまいそう。脳に血が足りない。心臓に言葉が足りない。千尋の本当の言葉が、足りない。


(そんな言葉、いらない。作り笑顔なんていらない。そんな瞳はいらない。武器なんていらない。力なんていらない。軍なんて、国なんていらない。民衆もいらない。豊葦原も常世も、龍もいらない。神子も、姫も、王も、全部いらない!)
(だから、だからはやく)
(千尋を、千尋がいつでも笑って、些細なことに怒って、下らないことで泣いて、つまらないことに悩んで、馬鹿みたいに自由で、前みたいに能天気に過ごせる世界を、返してよ。僕の千尋を、返してよ)