待ち人来たりて

 溢れ落ちそうな星が墨を垂らしたような夜空を華やかに飾り立てる。白い星に照らされて、闇から淡く群青に染まる様が忍人は好きだった。夜明けの涼やかな白も、真昼の突き抜ける青も、黄昏の零れ落ちそうな赤も、この国の空はひどく美しいと思っている忍人だが、真夜中の群青だけは群を抜いて美しいと思っていた。冴えた風が頬を切り裂いては流れていく。澄み切った冷たい夜の空気も、彼が夜空を好ましく思う要因のひとつかもしれない。
 夜の涼やかな風が吹き渡る堅庭は、天鳥船において彼の最も好む場所だ。人気の無い、凛と耳鳴りがしそうな程の静謐さも、忍人がこの場所を好む理由の一つだった。人混みを好まない忍人からすれば、小さな船に人が溢れるように乗っているこの天鳥船は落ち着かない場所なのだろうが、夜の堅庭は人もいなく、いつしかここは忍人の居場所になっていた。
 不意にはたはたと忙しい足音が静寂を掻き乱す。遠くから軽い足取りで聞こえてくるその音に忍人は耳を傾ける。基本的に静寂を乱すものは好まないが、この音だけは別格であった。落ち着きの無い、軽い音のそれは持ち主の人柄を表しているようで、忍人はくすりと小さく喉を震わせた。きっともうすぐ鈴を転がしたような声が聞こえる筈だと、忍人は柄にもなく心を踊らせる。
 足音は段々と近付いて来て、忍人から十歩程離れたところでぴたりと止まる。この時点で振り向いて華の顔を捉えるのもいいのだが、敢えて忍人は相手の言葉を待つ。この空気が動かない一瞬の静寂も、忍人の好むところであった。
「忍人さん」
 忍人の予想通り、百もの鈴を鳴らしたとて敵わぬような可憐な音が彼の名前を呼んだ。振り返れば、彼の可愛い主人がころりと瞳を転がして笑う。
 嬉しさを表情いっぱいに表す千尋に、忍人は自らも知らぬうちに目元に笑みを浮かべ、無言のまま一歩脇に避ける。
 それまでの忙しい足とは打って変わって、そろりと、一歩一歩確かめるように足を踏み出し、ゆっくりと歩く千尋は、千尋は忍人が空けた場所に収まって、隣合って星を見上げた。
 互いに言葉など無くとも分かっている、とでも言うようにどちらともなく肩を寄せ合い、群青に染まる空を眺める。その群青の中に、時折風に流された金の房が混じるのが、なにやらこそばゆいような心地がして、忍人はそれもいつしか好ましく思うようになっていた。
 静謐、足音、肩に触れる愛しい温もり。最早恒例になった時間の全てが忍人には至高の宝のように思えた。
「千尋」
 常ならば忍人から静寂を突き崩すことはしないが、今日は何故だか言葉にしたくなった。動かない静寂を楽しむのも、それに響く千尋の声を聞くのも忍人は好きだったが、今日は何故だか、自分が言葉にして伝えたくなった。冴えた三日月が綺麗な夜だからかもしれない。
「俺は、君とこうしている時がいちばん幸せだ」
 思いもよらぬ忍人の睦言に、千尋は白磁の肌を耳まで染める。普段ならば、こういうことは絶対に言わない忍人だから、そのなんでもないような言葉も、千尋の頬を赤く染め上げるには十分な効力を発揮した。千尋は照れながら「私も」と言う。ちょっと俯いてしまった青い目の、それを縁取る豊かな睫毛の房が伏目を飾って美しい。
 忍人は「そうか」とだけ言って頷き、また堅庭に無音の帳が降りた。二人にとって何より心地好い闇であった。