白の世界

 白の中にほんの少しだけ砂糖を混ぜたような、淡い色をした粒が地に降り積もり、まるで入学式のように薄紅色の絨毯を作る。少し強い風が吹いただけで、ざぁ、と幾百か幾千かと思うほどの花弁が風に乗り、薬球を割ったような華やかさが青い空を飾り立てる。豊かな春はまるで遠い世界のクリスマスのように賑わい、宮の中にいても、視察で外に出ても、皆晴れやかな笑みを浮かべて「陛下」とこの良き春を歌う言葉を贈ってくれる。
 執務室の窓から見える桜の下は、まるで雪が降ったような白に埋もれて、しかし少し視線を上に持っていけば薄紅の端々に覗く若葉の緑と空の青が、確かに麗らかな春を告げている。
 目の前に積もっていたはずの仕事は既に無く、早くも手持ち無沙汰になってしまった私は、ただぼんやりと桜を見ていた。日を増すごとに少なくなる書類や視察の要請はこの国がひとり立ちしていく証で、それがすこし寂しく、まるで巣立つ子を見る親のような心地になるが、それでも良い国になったと笑ってくれる民がいるのなら、それも構わないかと思っていた。
 春の豊葦原は美しく、四季折々に美の在り所を変える国の中でも、春は一等綺麗で好きだった。咲き乱れる花々に、零れ落ちるような緑、空を飾る白い花弁、全てが美しく、潤っていた。陽光に白刃が煌くことはなく、振り下ろされるのは地に刺さる鍬のみ。舞う水滴はどこまでも透明で、豊かな土地に赤が降ることはない。どれもこれも民の努力あってこそと思うが、私を良き女王と思ってくれていることは素直に嬉しい。私は私の全てを以って、この国を愛していると声高に叫ぶことが出来るのだから。
 積もる白を見ていることは、一時は楽しいけれどやはり飽いてきてしまって、こんなときに風早や那岐がいてくれればいいのにと思わざるを得ない。それか、柊や道臣さんが新しい仕事を持ってきてくれたのなら、こんな春を堪能しなくてもよいはずなのに、こんなときに限ってそれもない。
 降り積もる花弁はどこまでも優しく、大地を抱くように白に埋めていく。それが少し忌々しく、けれど彼が好んだ花を嫌いになれるはずもなく、止め処ないように降る白はただ眩しくて、私の涙腺を刺激した。
「千尋、今帰ったよ」
「お帰りなさい、那岐」
 あんまり良いタイミングで帰ってくるものだから、私は嬉しくなって、思わず常よりも弾んだ声が出てしまった。だって、那岐が今、帰ってきてくれていなかったら、きっと泣いてしまっていたかもしれない。
 面倒そうに長い官服の裾を持ち上げて、なんで僕がこんなことを、と愚痴を零しながら椅子に腰を落とした那岐は、私が手をつけていない菓子を見ると、はぁ、と大げさにため息を吐いた。那岐は言いたいことは、痛いほどわかる。でも、那岐はそれを直接口にしないから、私も知らない振りをして、どう? なんて気軽に那岐に菓子を進めることも出来る。
 那岐は練り菓子を一口食んで、甘い、と眉を寄せた。桜を模した菓子の愛らしい形は那岐の歯によって崩され、不恰好なその形は今の私のようで、なんだか親近感を覚えた。
 那岐が甘い菓子と格闘している間に、私の視線はまた四角い白へと注がれる。四角い木枠に切り取られた白い世界は綺麗で、以前視察に行ったときに会った、桜の花弁を夢中で追う幼子の姿が網膜に浮かんでくるようだった。あのときはつい私も童心に帰って、一緒に桜の花弁を追った。勿論、その後に風早と那岐からお小言を食らったのだけれど、あのときはとても楽しかった。
「ねぇ、那岐」
「なに」
「豊葦原の春は綺麗ね」
「今更、なに言ってんの」
「そうね。でも、豊葦原の春は、とっても綺麗」
「……まぁ、ね」
 那岐は食べかけの練り菓子を皿に戻して、さっきまでも私の視線をなぞるように桜を見た。白く、ほんのり甘く埋まっていく四角い世界は那岐の目にはどう映っているのかはわからないけど、私の目にはひたすらに綺麗に映る。
 頬杖を付いて、一見は面倒臭そうに、でも長年の付き合いのある私から見れば、少し迷うように桜を眺める那岐の姿は、まるで言葉を探しているようにも見えた。それこそ今更だ。私にかける言葉をいちいち探すだなんて、那岐らしくない。全ては春のせいかもしれない。
「ねぇ、那岐」
「なに」
「私ね、思ったの。きっと、春があんまり綺麗だから、駄目なんだわ」
「どういうこと?」
「内緒」
「なに、それ」
「ふふ、言ったら、那岐泣いちゃうかもしれないから、内緒」
「馬鹿なこと言うなよ」
「本当よ? だから、内緒」
「そこまで言われたら、ますます気になるじゃないか」
「でも、内緒」
 きっと那岐は泣かないと思う。ただ、泣きそうな私の頭をぐしゃぐしゃにして、ばーかって言うだけだと思う。だけど、内緒。だって、言葉にしたら私が泣いてしまう気がするから。

(ねぇ、忍人さん)
 今はもう遠い、ずっと遠い隔たりのある世界で、流行りのロックミュージシャンは歌ってたわ。幸せと不幸は半分ずつのシーソー・ゲームだって。生まれてから死ぬまでの幸福の量と不幸の量はピッタリ一緒になるんだって。あの曲を聴いた当初の私は、幸せなんて自分で探すものなんだから、努力次第で多くも少なくもなるわ、なんて中途半端に叫んでみたりもしたけれど、今はあのミュージシャンは間違ってなかったんじゃないかって思うの。きっと世界はシーソー・ゲームなんだわ。幸福な分だけ不幸があって、綺麗な分だけ汚くて、嬉しい分だけ悲しいの。釣り合う関係なら全ての物事に当てはめられると思うの。友人でも、恋人でも、主従でも。
(あなたがあんまり優しいから、プラスマイナス0にするために世界は冷たいのね、きっと。それなら、私も納得出来るわ)
 私はあんまり幸せだったから、今、その埋め合わせをしてるんだ。あなたはあんまり優しくて、温かくて、だからその分だけ、残酷な道を強いられてしまったと思うの。そして取り残された私は、忍人さんがくれた幸せな時の分だけ、長い冬の中で生きなきゃならない。ひとりきりでも、待たなきゃいけない。でもあの幸せの分の不幸なんて、きっと一生掛かっても埋め合わせなんて出来ないんだと思うわ、私。だってあのときの私は、誰よりも何よりもどんなものよりも幸せだったんだもの。
 一瞬だけ風向きが変わって、数枚の花弁が部屋に舞い込む。食べかけの桜の上に降った白い一枚ごと口に放り込む那岐に、私は思わず笑ってしまった。一枚飲み干したところで、外に降り積もる雪のような白は消えることなどないのに、那岐が消してくれた一枚がひどく重いような心地がした。