青にその面影

 あの後、ナーサティヤがやはり白い花を持って白沙の庭へ足を運んだのは、それから三日後のことだった。部下から少しは休んでくれと泣き付かれ、仕方が無い体を装って一日の休みを取ったのだが、その内心は、仕事を放っていく罪悪感にも勝って、白沙の庭へ行く時間が長く取れたことが純粋に嬉しかった。
 扉を開けたときに、エイカだろうかと少々投げやりな視線を投げかけた千尋の目に入ったのは、僅かの間にも関わらず、懐かしくすら思える白い花弁だった。すぐさま椅子を飛び降り、扉に駆け寄る千尋の声を受け止めながら、ナーサティヤは目の色を少しだけ歪めて「遅くなった」と千尋の髪を撫でた。それに千尋はぶんぶんと大きく首を横に振って、青い硝子球の目を細くして笑った。
 白い花を飾る間すら惜しいように、普段は椅子に座って待っている千尋は、ナーサティヤの腕にしがみ付いて離れなかった。ナーサティヤは一度だけ、苦笑するようにほっと小さなため息を吐いて、千尋、動きにくいと言ったが、千尋が誤魔化すようににこりと微笑むと、それ以上は何も言わなかった。
 いつものように長椅子に腰掛けると、千尋はその隣にぴったりと張り付いて、寄り添うその温かさを噛み締めるように一時だけ瞼を落とした。ナーサティヤはちょっとだけ口角を持ち上げて千尋の閉ざされた目を見ていたが、千尋がまた目を開くそのときには、もう常のともすれば酷薄ともとれる感情の浮かばない表情に戻っていた。
「今日は、エイカは来ないの?」
「いや、後で朝食を持って来るだろう」
「三人分?」
「……そうだな、お前が言うなら、三人分にしよう」
「うん、皆で食べよう」
 思い出したらお腹がすいたと、自らの薄い腹をさする千尋を、エイカがもうすぐ来るさと宥る。
 ナーサティヤはそのまま、ふと真剣な色を含めて千尋の目を見ると、それから何かを感じ取ったのだろうか、千尋の目を見たままに「私が来ない間に、何かと会ったか?」と空色に問うた。千尋は思いも寄らない質問に目を丸くしたが、ちょっと首を傾げて「うん、会ったよ」と素直に答えた。
 千尋は何でナーサティヤにそんなことが分かったのかと驚いたが、ナーサティヤがそれが当たり前とでも言うような目をしているから、そんなものなのかと一人で納得した。
「何に会った?」
「えっとね、白くて、青い目をした獣なの。でもね、不思議な姿をしているのよ。馬のような足なのに、鹿のような角があるの。それでね、空を駆けて、壁を通って来るのよ。ねぇサティ、あれはなんという獣なのかしら」
「……それは、私にも分からぬな」
「ふーん。エイカなら、知ってる?」
「いや、エイカも知らぬだろう」
「そうなんだ。でも、きっと危険な子じゃないと思うの。だってあの子、すごく私を心配していたもの」
 ナーサティヤは茶化すような調子で「千尋は獣と会話が出来るか」とくすりと笑った。千尋はもう、そうじゃないわと頬を膨らませたが、拗ねる風でも、怒る風でもなかった。
 扉が軽く叩かれ、エイカの声が千尋様と呼ぶ。千尋は扉の向こうにいるだろう影に「エイカ!」と喜色を滲ませた声で呼びかけ、早く入ってと急かす。しかし扉は開かなく、ナーサティヤが無言で腰を上げた。扉が開かれると、両手一杯の盆を持ったエイカがお手を煩わせて申し訳ありませんとちょっと情けない声を出した。ナーサティヤはいや、いいと言ってエイカがの入室を待ち、扉を閉めた。
「エイカ、頑張りすぎよ」
「申し訳ありません、千尋様。久々のおふたりでのお食事と思ったら、ついつい持ちすぎてしまいました」
「あら、ふたりじゃないわ。ねぇ、サティ」
「どういうことでしょう?」
 エイカがナーサティヤの方を窺うと、ナーサティヤは頷いて「そういうことだ」とだけ言った。千尋の方を見てみるも、千尋はえへへ、とはにかんで笑うのみである。
 戸惑うエイカに、ナーサティヤがふぅとため息を吐いて、もう一度行ってこいということだ、とやけに遠回りした言い回しで告げた。エイカは黒布の下で目を丸くすると、承知致しました、と一度頭を下げて早足で出て行った。
 そのエイカにしては珍しい、焦ったような様子に千尋はくすくす笑って、ナーサティヤに本当にわかってくれたのかしらなんて言ってみたりした。ナーサティヤも眉根を寄せて、たぶんな、とだけ言った。
 千尋が背伸びして卓を見れば、そこには常より一品も二品も多い料理の皿が並んでいて、エイカの気合の入りようが窺われる。千尋の口に入る料理は、基本的に土蜘蛛が作る。それというのもナーサティヤの用心深い性格のためで、自分が食べて安全と判断するもの以外は、決して千尋に与えようとしない。
 扉が叩かれ、今度はナーサティヤの手を借りずそれが開く。エイカの手には千尋の好きな果実が盛られた皿があり、千尋は予想と違うそれに目を丸くした。ナーサティヤがちらりとエイカを睨んだが、エイカは肩を竦めて、そっと皿を卓に置いた。
「エイカ」
「申し訳ありません、私はもう食事を済ませてしまっていましたので」
「えー。エイカも一緒に食べようと思ったのに……」
「申し訳ありません、千尋様」
 黒布の下で微笑んだ気配を見せたエイカに、千尋はぷくっと頬を膨らませたが、しょうがないわね、とちょっと気取った素振りで腕を組んで、やがて花が綻ぶように笑った。
「次は一緒に食べようね」
「はい、承知致しました」
「約束よ?」
「はい、約束です」
 結局、その日は千尋とナーサティヤとふたりでの朝食となった。しかし、私ごときがご一緒に卓を囲むなどと、と大きく首を振ったエイカも、千尋の説得により、渋々ながらも椅子に座って茶など飲んでいた。しかし、黒布の下の頬が、常よりちょっと緩んでいるのは、きっとナーサティヤは気付いていただろう。
 その日は、ただ何をするでもなく、時折雑談などしながら過ごした。普段はエイカが受け持つ千尋の勉強も、この日はナーサティヤが教師役をやっていた。ナーサティヤの教え方は中々上手なようで、千尋はわかりやすいと喜んでいた。エイカは朝食の後に、皿の共にすぐ部屋を出て、次に白沙の庭に帰ってきたのは夕食の乗った盆と共にだった。


 夕食を済ませ、千尋が眠った後、エイカとナーサティヤはそっと部屋を出た。貴重な一日を千尋の為に潰してしまってよいのかと、エイカは忍ぶ声でナーサティヤに問いかけたが、ナーサティヤは常の無表情のままに、一言よいのだと言って押し黙った。
「エイカ、千尋の気配が変わったのに、気付いたか?」
「千尋様の? いいえ、私は何も感じませんでしたが」
「そうか。お前には分からぬのかもしれぬな」
「千尋様に、何かあったのでしょうか?」
「詳しくは分からぬ。しかし、白い獣が来たと言っていた」
「白い獣……」
「ああ、麒麟かもしれぬ」
「麒麟とは、アシュヴィン様と同じ、麒麟ですか?」
「良き王を選ぶ獣だ。千尋の元に現れたとて、不思議なことはない」
 麒麟は、良い王の時代に現れる神獣だ。現皇の元には現れなかったが、黒い姿をした獣はナーサティヤの弟、アシュヴィンを良き王になる子と認め、彼に従っている。黒麒麟がアシュヴィンの元に現れた日、皇はとても喜んでアシュヴィンを跡継ぎとすることをその日の内に発表した。黒麒麟は常世の王族と一部の貴族しか存在を知らないが、それほどまでに、常世の王族にとって麒麟とは大きな力を持つ獣なのだ。
 千尋から聞いた獣の特徴は、あまりにアシュヴィンに従う黒い獣と被る。ただ、その体の色が白いというだけで。ナーサティヤは麒麟の来訪を、白麒麟が千尋を中つ国の良い王になると認めたと、そう理解していた。
 エイカは少し黙り、ナーサティヤは恐れているのかもしれない、と主の心情を考えていた。中つ国にあまり良い感情を抱いていないナーサティヤが、龍の声が聞こえない王族という立場に同情し、生かして連れ帰った娘が千尋である。白麒麟が現れたということは、いずれ中つ国の女王の座に千尋が就くことを意味する。ナーサティヤはそれを望まないのかもしれない。ナーサティヤの三歩後ろに控え歩きながら、エイカは「探しますか」と低い声で言った。探すか、とは、探して殺すか、ということである。主がそう望むのならば、忠実な土蜘蛛は神獣にすらその大鎌を振り下ろすだろう。
 ナーサティヤは苦笑するように眉を寄せて、やはり波風の感じられない声でいや、と返した。
「千尋はあれを気に入っているようだ。それに、麒麟の方も、今のところは何をする気もないらしい」
「ですが」
「探してみたところで、見つからないだろう。アシュの黒麒麟を見れば分かる」
 アシュヴィンが呼べば影のように姿を現し、アシュヴィンの言葉にのみ従う黒麒麟と、千尋の前に現れたという獣が対のものならば、その獣も千尋の声にのみ反応するのだろう。
 ナーサティヤはそれより、と麒麟の話を打ち切り、例のものはどうだったと、言葉を濁してエイカに問う。エイカははい、と声を改めると、一歩ナーサティヤに近づいた。
「やはり、何か抱えているようです」
「見たか?」
「いいえ。しかし、食料を大量に自室に持ち込んでいるようですし、意味深な言葉で部下に接触してきてもいます」
「ほう?」
「土蜘蛛の長に、贈り物があると。そう部下に告げたそうです。恐らく、ナーサティヤ様へ贈り物があると言っていた件と同じものかと。如何致しますか?」
「もう少し泳がせる」
「承りました」
 漆黒に呑まれた離れの邸は、ナーサティヤとそれに続くエイカの足音に塗り替えられていく。エイカはほっと怪しい笑みを零す隻眼の男を思い浮かべながら、さてどうするかと今後を考えた。罠に嵌った振りをするか、それとももう少し焦らしてみるか。まるで色恋の駆け引きのようだと思いながら、エイカはいつしか闇に消えた。それに振り返ることすらなく、自室に向かうナーサティヤの目の色は、やはり常と変わらぬ凪いだ湖の色だった。



 中つ国は豊かな土地だ。その連なる山々の麓、慎ましく生きる人々の村は数知れず、土地を良く知る残党軍が身を隠すに易く、侵略軍が残党を滅するに難い土地だった。
 今にも崩れそうな納屋の中で、滴る雨音の奥に耳を済ませながら、薄く眠る部下の顔をちらりと覗き見てその人は微笑んだ。一夜、寝ずの番というわけではなく、あくまで交代の順番が回ってきただけであるが、この一隊を率いる彼にとって、部下の穏やかな休息程、彼自信の心も休まる瞬間はなかった。
 腕に抱えた刃を抱きなおし、また目を閉じて耳を澄ませる。水の中に土を踏む音を認めて、彼は腕に抱いた剣を素早く握りなおした。耳の良い部下も、一人二人と目を覚まし始めている。
「将軍様、音が」
「分かっている」
 声を潜めて言葉を交わすと、また濡れた足音に集中した。部下の一族特有の、三角の耳がゆっくりと右に左に音を探す。真っ直ぐこちらに向かっているな、と彼が眉を寄せると、部下のひとりが同じことを言った。分かっている、と投げやりに返し、近づく音に息を飲む。
「将軍様、この足音は、聞いたことがあります」
「ああ、俺もだ」
 ほっと息を吐き出すと、彼は剣を鞘に収めて足音の到着を待った。彼の部下達も、それぞれの武器をゆっくりと下ろして息を吐く。
 じゃり、と湿った土を踏む音と共に、見慣れた青い髪がひょっこりと姿を見せた。人好きのする笑顔が青年の人となりを窺わせる。
 髪に頬に滴る雨粒をそのままに、青年は憮然とした顔に彼にまずごめんと謝った。
「ごめんよ、忍人。思いのほか、帰るのに手間取ってしまって」
「いや、構わない。それより、帰るのに手間取った、とは?」
「いやぁ、土雷の軍が思ったよりも効率がよくてね。柊は流石、手抜かりないね」
「敵を褒めてどうする、風早」
「ごめんごめん。でも、ここももう危ういかもしれないよ」
 風早の言葉に、そうか、と神妙な顔をして頷いた彼、忍人は、明日にも移動しようと部下に告げた。部下たちは頷き、早々に準備をしようとするが、忍人は明日の真夜中に撤退する、だから今は休めと苦笑した。
 止め処なく滴る水を手で拭う風早に、忍人はため息をひとつ落として手ぬぐいを渡す。風早はそれで髪を拭きながら、そっちはどうだった、と近況を訊ねた。あまりよくないと、眼差しを落とす忍人に風早はころころと笑ってなんとかなるよと言ってみせた。楽観的な兄弟子に、忍人はまたため息をひとつ落とす。
「なにが大丈夫なものか。国の頭も居ないこの状況では、軍を立て直すことすらままならないのだぞ」
「うん、そうだね。でも、きっと大丈夫だよ」
「なにを根拠に」
「ただ、なんとなく」
 安堵に満ちた微笑を落とす風早に、楽観し過ぎているとため息を吐いて、忍人はまた瞼を落とした。眠っているのではなく、耳を澄ませているのだろう。部下思いの彼のことだから無理をしてはいないかな、と思った風早は、濡れて冷たい手で忍人の俯いた頭をがしがしと撫でた。
 何をする、と目尻を吊り上げる忍人に、風早は声を漏らして笑った。
「忍人、君が一番、寝ていないんじゃないか? 今は俺が番をするから、君も寝た方がいい」
「……寝ていないわけではない」
「それでも、他より多く番をしているだろう。ほら、今は大丈夫だから」
「分かった。感謝する、風早」
「どういたしまして」
 また膝に顔を埋めた忍人が、今度はちゃんと眠る気なのだろうと長年同じ師の下にいた風早には分かった。それでも身体を横たえることはしない忍人に、そこまで頑張らなくてもと思いながらも、責任感の強い彼にそこまで言うのも酷かと苦笑した。
 先ほどは根拠がない、楽観し過ぎていると言われた風早だが、根拠なら確かに胸の内にあった。口に出すことは出来ないが、風早には、今は辛くとも絶対に大丈夫なのだと言える自信があった。
(姫が笑ってくれたから、大丈夫)
 ならば自分は、彼女が座るべき王座を奪い返し、その王座をどの国よりも美しく輝かしいものに磨き上げようではないか。今は箱庭に閉じ込められた、愛しいただ一人の子のために。そう胸の奥にしまった、異国の服を翻した小さな姫の笑顔に語りかけながら、風早は先の忍人のように耳を澄ませた。水が地に落ちる音はいつかの姫の涙の落ちる音を思わせて、明日には降り止めばいいのにとほっとため息を吐いた。