灰花の沈黙

 ひとつ、暦が流れた。多忙な常世の将たちにとっては刹那の間に過ぎた時であろうとも、白沙の庭で過ごす千尋には途方もなく長い時間であった。この頃にはエイカもナーサティヤと同じ、とまではいかないまでも仕事が多く、数日分の食事を持って行っては、ろくにかまってやることも出来ないまま戻ることが多かった。それに千尋が文句も言わずにいるものだから、エイカはそれが余計に可哀想に思えて、せめて国内の紛争だけでも押さえ切れれば、と唇を噛んだ。
 中つ国に遠征していた軍は、大方が常世に帰還していた。残党を抑えるだけの少数の兵を残し、これからやっと国内の政策に手を伸ばそうというところである。それに伴って、ナーサティヤは更に山積みの仕事に追われることになった。執務室に詰まれた竹簡の山に向かいながら、ふぅ、とひとつ息を落とした。千尋は大丈夫かなぁ、などと思い、白沙の庭を最後に訪れた日から指を折って今日まで数えてみれば、もう一五の日が過ぎていた。エイカが細々と面倒を見ているから、そういう不安はないものの、やはり自分の目で見ていないからには、些かの心配事はある。考えるだけでは仕方が無いか、今はこの竹簡を片付けてしまおうと筆を取ると、計ったように分厚い木の戸が叩かれた。エイカは音も無く現れるから、エイカではないことは確かである。ナーサティヤは少々投げやりに「誰だ」と扉に問う。すると扉は聞きなれた、しかし懐かしい声で「俺だ」と答えた。入室の許可を得ないままに入ってきたそれは、ナーサティヤと似て非なる赤い髪を軽く結った姿で現れた。
「アシュ、帰っていたのか」
「俺だって、中つ国に無駄に長居したいわけではない。忙しそうだな、サティ」
「誰かが仕事をしないせいでな」
「そう言うなよ、帰ってきたばかりなのだから。俺だって、自分の仕事は自分で片付けるさ」
「そういうことはリブの手を煩わせないようになってから言うんだな」
「……誰から聞いた、サティ」
「文官からだ。もう少し、文書も覚えろ」
「俺は文書はいいのだ。いずれ皇になれば、こんなものは書かなくてよくなる」
「皇とて、書の処理はする」
「……リブがいるから、いい」
「リブも可哀想に」
 数年の後もお前にこき使われるなんてな、と喉で笑うナーサティヤに、アシュヴィンはむむ、と唸って、拗ねたようにそっぽを向いた。いつもは三つ編みにされている、今は結われただけの長い後ろ髪がその動きに合わせて跳ねる。鎧を脱いだアシュヴィンは、民や兵が見る戦場に立つ凛々しい皇子の姿より幾分も幼く、年齢相応の青年だった。兄の前ではその傾向が顕著になるのだろう、ナーサティヤの前で話すアシュヴィンは少々甘えたような雰囲気がある。
 ナーサティヤは竹簡を広げながら、そう拗ねるなとちょっと眉尻を下げた。白い袖に、ほんの少しだけ墨の黒がついてしまっている。アシュヴィンはそれを見止めると、仕事を投げてきていることが少し後ろめたくなったのだろうか、そうだ、とわざと思い出したように話題を変えた。
「レヴァンタの部下に、中つ国の者がいることを、知っているか?」
「知らぬな。何故、中つ国の者が、レヴァンタの部下に?」
「それがな、我らが中つ国侵略を決めたときから、既にレヴァンタに接触してきていたらしいのだ。道理で橿原宮の兵が薄かったはずだ」
「裏切り者、か」
「裏切り者はそれだけで信用ならん。出来れば、関わりたくないものだ」
 アシュヴィンは片方の眉を上げて、蝿でも払うように右手を顔の前で振った。アシュヴィンはナーサティヤより幾らも柔軟な価値観の持ち主だが、それでも裏切りだけはどうにも許せないらしく、その顔も知らないレヴァンタの部下を、話を聞いたときから毛嫌いしているようだった。なんでレヴァンタも裏切り者の手など借りたか、とその愚痴が同僚にまで及んできたあたりで、ナーサティヤは「そのあたりで止めておけ」とため息交じりに言った。
 竹簡にさらさらと何か書きとめ、墨を乾かす間にもうひとつを開いた。文官たちも忙しいのだろう、常より些か急いだ文字を目で追い、ナーサティヤは署名をして、先の竹簡を丸めた。生乾きの墨は表に掠れた黒を残したが、そんなものを気に掛けている程、暇ではなかった。
 アシュヴィンは暇そうに棚の中を漁ったり、部屋に飾られた壷なんかを弄ったりしていたが、それも飽きたのか、椅子に腰掛けてナーサティヤの作業する机に顎を置いた。
「そうだ、サティ。橿原宮で、中つ国の姫の話をしたのを、覚えているか?」
「ああ」
「その姫じゃあないのだが、例のレヴァンタの部下が、金の髪をした子供をひとり、連れてきたという噂があるんだ。どう思う?」
「中つ国の姫は、従者によって逃がされたと噂がある。別人ではないか?」
「うん。俺もそう思う。しかし、その子供を見たという者も確かにいるのだ。どうなのだろうな」
「そんなもの、レヴァンタに聞いてみるしかあるまい」
「いや、そのレヴァンタも知らぬと言うのだ」
「なに?」
「あの裏切り者は臭い。レヴァンタにも、従順なふりをして、心を許していないと見える」
「そうだな。少し、探らせよう」
「そうしてくれ。常世の兵より、そういうことはサティの土蜘蛛の方が得意だから」
 にぃ、と口角を持ち上げるアシュヴィンは、きっとナーサティヤのこの返事を期待していたのだろう。これでなかなかずる賢いと、ナーサティヤもそれに乗っかってやった。
 ナーサティヤとしても、レヴァンタの部下が連れてきたという金髪の子供は、少々気になるところであった。二ノ姫のはずはない。千尋はナーサティヤの住む離れの、白沙の庭にいるのだから。だとしたら、同じ金の髪を持つ子供とは、ナーサティヤの記憶にも新しい、橿原宮で見かけた少年だろう。それと中つ国の裏切り者が、何故、一緒にいるのだろうか。ナーサティヤは思考の渦に入り込もうとする自らをここらで引きとめ、また竹簡に視線を落とした。
 俺も自分の仕事を片付けねばな、とアシュヴィンにしては早々に部屋を出た。恐らく、ナーサティヤばかりに仕事を押し付けては、という思いが少なからずあったのだろう、その日のアシュヴィンは珍しく自分から机に向かったという。
 ナーサティヤは再び静寂に呑まれた部屋で、竹簡の山を見つめながら薄くため息を落とした。窓辺を見れば、未だ瑞々しい白い花弁を広げた花が、惜しげもなく甘い香りを振り撒いている。ナーサティヤは筆を持ったままに頬杖をついて、千尋へ持っていく土産は何にしようか、など考えてみた。竹簡が減らない間は、その土産を持っていくことも無理な話だとは、十分に分かっていた。



 白沙の庭は、相変わらず美しかった。しかし、常より幾らかは、端の方に薄く埃が溜まり始め、千尋がふぅと吹けば白い粉が舞った。けほ、とそれにひとつ咳を落として、千尋はまたひとつだけの小さな窓から空を見た。
 もう長い間、ナーサティヤもエイカも、白沙の庭に寄り付いていない。否、エイカは頻繁に足を運んではいるが、長居は出来ないため、千尋は少々寂しい日々を過ごしていた。ひとりではすることもなく暇だろうと与えられたものにも、とっくの昔に飽いてしまった。
 不意に、ぼんやりと眺めていた紅色の空にふと白い光が差したような気がして、千尋はその光が掠めたような気がした方角を目で追った。頬杖をついていた千尋は思わず顔を上げ、子猫のような目を大きくして、ぽかんと顎を落とした。開かない窓の向こうの光景は、いつの間にか紅色から白に変わっていた。
 断崖に面した白沙の庭の、空と岩しか見えないはずの窓の向こうに、白い肌に金の羽衣を纏ったような獣がいた。窓越しに、千尋を窺うように、ちょっと遠くから千尋を見つめる双眸は、千尋と同じ青空を玉にしたような色をしていた。
 千尋は宙に浮くその獣に、ちょっと小首を傾げたあと、ちょいちょいと指先で手招きした。おいで、と微笑む顔に恐れは見えない。一歩、中空に足を踏み出した白い獣に、千尋は目を輝かせて、再度おいでと手招いた。
「ねぇ、怖がらないで、おいで。わたし、サティもエイカも来てくれないから、退屈なの。遊びましょう」
 白い獣は美しい青色の目を瞬かせて、ゆっくりともう一歩を踏み出した。獣に触れたいように窓に両手をつける千尋に、獣はちょっと眼差しを伏せた。千尋と同じ、空色の目に掛かる、金の睫毛の房が憂いを帯びたように美しい。それ以上近づこうとはしない獣に、千尋は残念そうに眉尻を下げ、もう一度だけ、祈るような声で「おいで」と言った。
 その声に、獣は顔を上げると、窓ではなく、すぐ横の壁へ寄っていった。千尋が不思議そうにそれを目で追う。窓越しに見た獣の体は、壁に吸い込まれていった。
 驚いて目を見開く千尋が、はっとして部屋を見てみれば、大きな白い獣はいつの間にか部屋の中にいた。それに千尋は、暫くその獣を眺めながら放心していたが、やがてゆるゆるとこわばった頬を崩して微笑んだ。
 白い獣に駆け寄ると、その滑らかな首筋を撫で、額と額をくっつけた。すごいね、なんて繰り返しながら、千尋は白い獣に飛びついた。
「まさか中に入ってこられるなんて、思わなかったわ。ねぇ、私と遊んでくれるの?」
 肯定の意を示すかのように、滑らかな短い毛に覆われた頬を千尋に寄せる獣に、千尋はきゃあと可愛らしい声を上げて、その頬を白い手で包んだ。馬のような蹄が、白沙の庭の石造りの床を引っかく。
 千尋は長い間、その獣の周りをくるくると回ってみたり、長い金色の鬣を撫でたりしていたが、どうにも飽きる様子はない。獣も、千尋の好き勝手にさせていて、たまに甘えるように額を寄せてみたりした。
 寝台に腰掛けると、獣は後を追って、その千尋の足元に足を折った。ちょうど千尋の胸のあたりに獣の頭がきて、千尋は撫でやすいと喜んだ。ころころと笑っていた千尋はふと笑みを消して、はぁと可愛いため息を落とした。
「サティもエイカもね、忙しいみたいなの。エイカは二日にいっぺんは、必ず来てくれるけど、サティなんかもう十日以上も来てくれないのよ。前は、白い花が枯れるまでには必ず来てくれていたのに、もうとっくの前に枯れちゃった」
 それは遺憾、とばかりに、白い獣は喉を鳴らして目を伏せた。それに千尋はひとつ笑い声を漏らして、でも私は怒ってないのよ、と獣の額を撫でた。ちょっと首を傾げた獣の固い角を撫でながら、だからあなたも怒らないでと唇を弧に変えた。
「ちょっとね、寂しいだけなの。私は、ここで一人だから。サティもエイカも忙しいのは、仕方がないわ。だって、戦の後だもの」
 戦なんてなければよかったのになぁと、千尋は叩かれることのない分厚い木の扉を見てため息を吐いた。獣の双眸にひどく似た色をした青い目に映るのは、白い花を抱いた赤い炎の影なのだろう。獣は慰めるように、そっと袖の端を食んだ。
 気がつけば常世の赤い日も闇に呑まれる時分になっていた。そうなると遊び疲れてしまったのか、千尋はちょっと目を擦ってあくびをひとつ、獣の白い毛の上に落とした。闇になりきるその前にと、獣はゆっくりと立って伸びをするように首を振った。寝台に座ったままの千尋が「帰っちゃうの?」と眉尻を下げて言うと、獣はまた来ると言いたいように千尋の頬に額を寄せた。
「ねぇ、きっとまた来て」
 獣は喉を鳴らして返事をすると、来たときと同じように、すっと壁の向こうへ消えた。窓へ駆け寄った千尋の目に、中空を駆ける獣の金の後ろ姿が見える。千尋は小鳥と同じ大きさになってしまった獣を見つめ、あの獣はなんという名なのかしらと思った。鹿ではなく、馬でもなく、鳥でも犬でもない。サティに聞いたら教えてくれるかな、とも思ったが、忙しいだろうナーサティヤが訪ねてきてくれたときに、こんな質問で貴重な時間を潰してしまうのは嫌だった。今度エイカに聞いてみようと決め、千尋は瞼の裏に獣の姿をきっちりと焼き付けた。
 白沙の庭の、小さな窓から見える常世の空は、もうすっかり闇に呑まれてしまっていた。



 常世の、土雷の本宅の中に、その男の部屋はある。智謀と術とに長けたその男は、中つ国の生まれでありながら母国を裏切り、常世の中つ国攻めに多大なる貢献をした。土雷の懐刀と名高い隻眼の軍師は、自室の扉をほんの少しだけ開いて、誰にも自室の中を見せたくないように、その隙間から身を滑り込ませた。
 誰もいないはずの部屋から、まだ高い少年の声が「遅いよ、柊」と不機嫌に告げた。柊は隻眼を眇めて「私も暇ではないのですよ」と後ろ手に扉に鍵を掛けた。ぶす、と丸い頬を膨らませて可愛らしい顔を歪める少年は、我が物顔で椅子に腰掛け、頬杖をついて柊を睨んだ。隻眼に映る少年は、中つ国の二ノ姫と同じ、金色の髪をしていた。両目に据えられた青味掛かった緑色の玉を細くして、そうじゃないよ、と眉根を寄せた。
「僕が言いたいのは、そっちじゃない。分かってるだろ」
「ふふ、そうですね。しかし、常世も今、戦の後処理に大変なのですよ。もう少し、この小さな部屋で我慢して下さい、那岐様」
「ふん、今更“那岐様”だなんて、気色が悪い」
「ええ、分かってて言いましたから」
「あんた最低」
 那岐、と呼ばれた少年は、手元にあった菓子の包まれた布を投げた。それを右手で捕らえて、柊は「食べ物は大切にして下さいね」と笑った。それにふんと鼻を鳴らして、那岐は窓から見える常世の闇色の空を眺めた。中つ国の、星々に満ちた空とは程遠い、闇色の幕が揺れるような常世の空に、小さな金の影が映る。
 それきり黙ってしまった少年に、柊はちょっとため息を吐いて、長い裾を翻す上着を脱いだ。
「もう少し落ち着けば、すぐ会えますよ。土蜘蛛の長は用心深いですから、二ノ姫の片割れという言葉を流したままにするはずがありません。そのうち、向こうから接触してきますよ」
「そう上手くいくものかな。それに、僕は別に片割れとか、そんなのじゃない」
「そうでしたね。ですが、二ノ姫の片割れと銘打っておけば、あなたの利用価値は高まる」
「……まぁ、どうでもいいけど」
 言葉通り、至極どうでもいいといった様子で吐き出すと、那岐はまた空を眺めた。中つ国で眺めた青空は遠く、隣にいた小さな温もりは空っぽだ。那岐は目を細めて、唇の形だけで三文字紡いだ。音の無い呼びかけに、柊はふと笑みを消して、その視線の先を追った。しかしその先にあるのは常世の闇だけで、なにがあるわけでもなかった。