箱庭の花

 白い常世の少女服を纏った千尋は、くるりと回って、長い裾を指でつまんでちょっと持ち上げてみせた。えへへ、と笑いかける相手は、全身を黒布で覆った土蜘蛛である。エイカは顔を覆う布のため少々くぐもった声で「お似合いです」と千尋は見ることの叶わない顔で微笑んだ。
 千尋が常世に来て、もう十以上の日が過ぎていた。ナーサティヤは戦の後処理に追われ、なかなか千尋の前に顔を見せることも少ないが、夜の、千尋がとっくに眠りに落ちてしまった時間に、こっそりと足音を忍ばせて様子を見にきていることを、エイカは知っていた。
 この数日の内に、千尋は実に常世に、否、この千尋ひとりが使うには少々広すぎる部屋に馴染んだ。記憶が無いせいもあるだろう、千尋はナーサティヤとエイカにもなつき、エイカに教わって常世の文字も読めるようになろうと努力している。部屋の浴室や、常世の道具も難なく使えるようになり、エイカは元々学習能力の高い子なのだろうと、密かに舌を巻いた。
 千尋はナーサティヤと交わした「部屋から出ない、扉を開けることもしない」という約束を破ることもなく、それどころか、まるで自分が約束を破ってしまうことを恐れるかのように扉に近づくこともなかった。時たま、エイカが入ってくるときに、窓際から見える常世の赤い空をぼんやりと見ていることもあるが、それも入ってきたエイカに気付くと窓を離れて駆けてくる。エイカの術で扉を固めているから、出ようと思っても出られはしないのだが、それを不思議に思ってエイカは一度それを問うてみたことがあった。すると千尋はなんでもないふうに「サティが危ないって言ったから、出れなくてもいい」と言ってみせ、エイカは密かに目を見開いたものだった。
 今日、千尋が身に纏う服は、先日の夜にナーサティヤが持ってきたものだ。はじめの数日こそ、中つ国のゆったりとしたものとは異なる常世の衣装に戸惑い気味だった千尋だが、今では常世の衣服にも慣れ、エイカの手助けなしに着替えられるようにもなった。それで、昨日ナーサティヤから贈られた服を自分で着てみたいと、千尋が着替えを始めたのがつい先刻のことである。過剰な装飾のない、月の光を織ったような白い衣服は、長く垂れる千尋の金色の髪が映えるようで、エイカは「お似合いですよ、とても」と感嘆の色濃く繰り返した。
 千尋は棚の上に飾られた白い花に指を添え、その甘ったるい匂いを吸い込んでくすくすと頬を赤くして笑った。
「ねぇエイカ、この服、このお花と同じ色ね」
「そうですね」
「サティとも、おんなじ色だわ。サティは、いつも白い服を着ているもの」
 長い裾をひらりと翻し、ねぇ似合うかしら、と白い花を一輪抱いて振り返る。エイカはええ、とてもお似合いですよと、幾度か繰り返した言葉を、常に新しい感嘆の色で言った。淡い紅色の光を反射した金の髪は美しく、風の入らぬ部屋では一房も靡かないことをエイカは残念に思う。白い花弁に劣らぬ透明な膜の張ったような薄い肌も、子猫のような目をころりと転がして笑うその表情も、今の常世には釣り合わないほどに可愛らしい。
 新しい服が嬉しいのか、それともナーサティヤからの贈り物ということが意味を持つのか、千尋はいつになくはしゃいだようにくるくると駆け回る。エイカは怪我をしないかと少々はらはらとしながら見守るのだが、この数日の内になんだか自分も馴染んでしまった特異な環境に、ほんの少しの心地よさを感じている。
 ナーサティヤが忙しい代わりにエイカが千尋の面倒を見ることが多いのだが、千尋は相変わらずエイカよりナーサティヤに懐いた。小鳥の刷り込みのようなものなのだろう、ナーサティヤが訪れてくるときの千尋の表情は、エイカが知る限りのどんな千尋の表情よりも可愛らしかった。
 かたん、と扉の向こうでひとつ音がし、千尋は「サティかしら」とその豊葦原から仰ぎ見た空の色をした目を輝かせた。エイカは耳を済ませると、その音が靴底が石造りの廊下を叩く音だと分かったから、千尋に「きっとナーサティヤ様ですよ」と告げた。
 千尋は扉からちょっとだけ離れたところで立ち止まり、わくわくと肩を震わせてナーサティヤが重い扉をあけるのを待った。やがて蝶番が軋んだ音をたて、ゆっくりと開いた扉から覗いた服の白い裾に、千尋は眦を薄紅に染めて抱きついた。飛び込んできた千尋に驚く素振りも見せず、ナーサティヤは「久しいな」と煌く髪ごとその背を抱きとめた。声の調子は相変わらずなのだが、ゆるく細くなる双眸が常より幾分も柔らかい色を湛えているものだから、エイカはこっそりと喉を鳴らした。
 千尋の頭をひとつ撫でながら、後ろ手に扉を閉ざすと、ナーサティヤはエイカに「仕事だ」とただ一言告げた。エイカは無言のままで頷き、千尋に「ナーサティヤ様に遊んでもらって下さいね」と言って部屋を出ようとした。すると千尋は長い外套の裾を引き、小首を傾げてエイカを引き止める。
「エイカは行っちゃうの?」
「はい、申し訳御座いません」
「お仕事?」
「はい」
「わかった。いってらっしゃい」
「はい、行って参ります」
 千尋は聞き分けよく手を離し、部屋を出るエイカの黒い背を見送った。ナーサティヤの腰にしがみついたままに見上げ、その深色の目に「エイカのお仕事って、なに?」と問いかける。ナーサティヤは千尋のつむじあたりを今一度撫で「私の代わりに、汚れ役をやっているのだ」と涼やかな眼差しを伏せた。千尋は「エイカ汚れるの? あの外套の代わりはあるのかしら」と子供らしい無垢な発想で小首を傾げた。ナーサティヤは声色を変えることもなく、ただほんの少しだけ眉根を寄せて「きっとあるだろう」とだけ言った。
 未だ腰に巻きついたままだった千尋の細い手をやんわりと退け、千尋の姿を改めて見止めると「やはり、白が似合うな」と、その鷹のような鋭い双眸を細めた。千尋は薄色の睫毛が飾る可愛い目をはたはたと瞬かせて、えへへ、と照れくさいように笑みをこぼした。エイカも似合うって言ってくれたのよと、ひらひらと長い裾をちょっと持ち上げると、その動きに合わせて尻の下まであろうかという長い金髪が揺れた。
 ナーサティヤは普段、変化という変化の浮かばない口角をちょっと持ち上げて、お前の髪は白に映える、と長椅子に腰掛けながら言った。それを追うように千尋も隣に腰を下ろすと、ナーサティヤの太ももの上にうつ伏せに転がり、浮いた両の足をはたはたと交互に動かした。露出してしまった白い足を見て、ナーサティヤは「年頃の娘が、そうそう足を出すな」と諌めたが、千尋は転がったままに「サティだからいいよ」と何が楽しいのかころころ笑った。ナーサティヤはふぅ、と小さくため息を落としたが、それ以上何か言うことはなかった。
 長椅子の隣の棚の、その上に飾ってある白い花の端を摘んで、ナーサティヤは「枯れてきたな」と呟いた。白く香り高いその花の花弁は確かに、端からゆるゆると茶に侵食されかけていて、千尋は花に触れるその指先を見ながら、そうかしら、とだけ言った。
「次に来るときに、また持って来よう」
「お菓子も一緒に?」
「お前が望むなら」
「やった! この前の練り菓子がいい」
 ナーサティヤは白沙の庭を訪れる際、いつもなにかしらのみやげ物を持ってくる。それは千尋が好みそうな菓子が多かったが、それと一緒に、必ず白い花を持ち込み、品の良い茶色をした棚の上に飾った。そうすると、白沙の庭には甘ったるいような香りが満ち満ちて、千尋は髪や肌にもその香りが染み込んでいくような心地がした。
 それから千尋は、久しく会うナーサティヤにエイカからこんなことを教わっただとか、こんな文字を覚えただとか、そういうことを事細かに話した。ころころと喉を鳴らして、時折身振り手振りを交えながら話す千尋に、ナーサティヤはいちいち相槌を打ち、たまに千尋の髪を撫でてやったりして、まるで甘ったれの妹に接するようにその話を聞いてやった。
 そうしている内に、ナーサティヤの短い自由な時間も使い切ってしまったのだろう、足に乗っていた千尋の頭を起こしてやると、そろそろ行かねば、と少し緩めていた襟首を正した。千尋は眉尻を下げてナーサティヤを見上げたが、すぐに笑って「次は、いつ来るの?」と寝転がったせいで少し乱れてしまった衣服を叩いた。考えるようにその深色の目を泳がせ、む、と唸ると、ナーサティヤは棚の上にある萎れかけた白い花を指して「あれが枯れてしまうまでには」と言った。そんな曖昧なのではいや、と頬を膨らませた千尋に、ナーサティヤはくつりと喉で笑い、またすぐに来るから、それまではエイカにかまってもらえと低い位置にある千尋のつむじあたりを撫でた。千尋は頬に溜めていた空気をふぅ、と吐き出すと、腰に両手を添えて「仕方が無いわね」なんて言った。



 石造りの廊下を行き交う足音が、ふたつ、みっつと忙しなく響く。常世では中つ国との戦の後処理に追われ、これを機と旗を揚げた国内の勢力の鎮静化にも少々手を焼いていた。ナーサティヤをはじめ、常世に身を置く将たちは二つの物事の処理でろくに休む暇すらない。
 その、国内の紛争を鎮静化するべく、エイカは一族を率いて影の如く常世の乾いた土を踏む。手にした大鎌の、三日月のような美しい曲面はもう幾千の血を吸ったかエイカにも知れない。土蜘蛛の能力は、上手くすれば数人で小隊ひとつを殲滅してしまう程の脅威の能力である。主に後方援助が主体の豊かな術の数々は常世にも中つ国にも無いものばかりで、それが攻撃手に回ればどうにも対処のしようがないのだ。ナーサティヤは土蜘蛛を使うのが上手かった。各々の能力に合わせた作戦に構成、細かな対処法まで指示し、エイカを筆頭にナーサティヤを慕う土蜘蛛たちはよく働いた。
 ほぼ事態を鎮静し終わったかというころ、エイカの耳に血に沈んだ大地にはひどく不釣合いな、乾いた音が聞こえた。両の手を打ち合わせるその音を辿れば、若い隻眼の男がひとりの小さい土蜘蛛を従えて立っていた。眼帯に隠された顔の半分は見えず、残った左目は笑みの形に細くなっている。
「お見事、流石は火雷殿下ですね。これなら、私が来る必要もなかった」
「……常世の人間ではありませんね」
「はい。しかし、今はもう完全に常世の配下です。土雷レヴァンタ様の軍師、柊と申します」
 隻眼の軍師はにこりと笑った。エイカは大鎌を握ったまま、返り血に濡れる黒衣を気に掛けることもなく、柊と名乗った男へ向き直った。柊は人の良いような笑みを浮かべ、しかし一定よりエイカに近づこうとはしなかった。臭いな、とエイカは警戒の色を薄めることはなかったが、それは柊も同様で、互いに近しくなろうという考えは浮かばなかった。
 土雷様の命で応援に寄越されたのですが、全く必要なかったと、ため息混じりに吐き出す柊は少しも残念そうではなかった。
 エイカは先の会話で喉に引っかかった「今は完全に」という言葉について言及した。すると柊は、悪びれるでもなく、くつくつと喉を鳴らして何が秘められているかすら見えない曇った左目を細く歪めた。ひどく人間味のない、まるで彫像のような美しい形の笑みだった。
「少し前から、私は中つ国ではなく、既に常世にこの知略を捧げておりましたから。橿原宮の警備は、とても薄かったでしょう?」
「中つ国を、裏切っていたのですか」
「そういうことになりますね」
 柊はくすくすと笑みを零して、この土蜘蛛を通して、と小さな土蜘蛛の肩に手を置いた。よく知る相手に、エイカは「トオヤ」とその名前を読んだ。トオヤは小首を傾げるのみで、エイカはそれに小さく横に首を振り、なんでもないよと示した。
 そういえば、と柊は手袋に包まれた右手を顎に添えて、思い出すような仕草をした。エイカが黙っていると、柊はわざとらしく眉尻を下げて「そう警戒されては、悲しいですね」と言ってのけた。
「火雷殿下に、私から贈り物があるのですが、殿下へのご拝謁は余所者の私にはとても叶いません。あなたから、届けては下さいませんか?」
「あまり怪しげなものは、ナーサティヤ様にお渡しできません」
「おや、怪しげなど、そんなものではありませんよ。中つ国の二ノ姫様、その片割れとでも申しましょうか」
 エイカは二ノ姫という言葉が柊の口から出てくること自体に不信感を覚え、なんならここで斬り捨ててしまえと大鎌の柄を強く握った。柊は、相変わらず底の読めない笑みで笑っている。
 知っていて、言ったのだろうか。それとも、鎌を掛けたのだろうか。エイカの中にはそのふたつが渦巻いていたが、どちらにせよ斬ってしまえば変わりない、とも思った。しかし土雷の配下と名乗った男をそう短絡的な思考の元で殺してしまうわけにもいかず、エイカの惑う手はただ大鎌を握り締める。
 幾許かの沈黙の後、柊が無邪気なようにころころと笑って「後で、お届けに参りますね」と、それだけ言って踵をかえした。私は不要なようですので、と笑って、小さな土蜘蛛と共に消えた。
 エイカはその、消えた先の闇をじ、と見ていたが、配下の土蜘蛛に促され、はっと我に帰ると、なんでもありませんと首を振った。そして土蜘蛛たちに「あの男、用心しなさい。ナーサティヤ様に近づけてはなりません」と鋭い声で言うと、血の滴る大鎌を下げて帰還の路に着いた。
 この格好ではとても千尋様には会えないなぁと思い、エイカはたっぷりと返り血を吸って重くなってしまった黒衣の端をちょっと絞ってみた。滴る赤は闇の中では滑った黒にも見え、嗅ぎなれた生臭さにエイカは血の付いてしまった手を無造作に払った。ぱた、と赤い水滴が草の中に落ちて、もうそれが人間の血だとは分からなくなってしまった。
 闇を行く隻眼の男の「全てはアカシャのままに」と吐息のように吐き出された小さな呟きを、小さな土蜘蛛だけが聞いていた。しかしその言葉が示す意味は、彼には爪の先ほども理解出来なかった。