眠れる森にて

 エイカは、まるでここが常世の皇が住まう宮の一部ではないかのような、物音のひとつ、ましてや人影のひとつすら見当たらない石の廊下に、小さな姫を抱いたままに歩いていった。やがて見える古びた扉を開けば、そこは先の殺風景で誇り臭いような景色とは打って変わった、華美ではないにせよ、手入れの行き届いた美しい部屋が広がる。広い部屋には真新しいままの調度品が置かれ、そのうちのひとつ、目に痛いほどに白い寝具の上に、エイカはそっと姫を横たえた。
 さらりと円状に広がる金の髪は、まるで豊葦原に降る光を糸にしたようで、エイカは眩しいように黒布の下に隠れる目を細めた。今は見えない青い目も、寝具に負けないほどに白い肌も、常世の者にも中つ国の者にも、他の誰にもない美しさが秘められている。身に纏う上等な衣はしかし王族にしては飾り気がなく、あの燃え盛る荘厳な造りの宮で、小さな二ノ姫が弱い立場にあったことが窺えた。
 小さな姫は、ナーサティヤの術によって眠りの中にあるうちに、エイカによって記憶を消された。記憶を消す、といっても、エイカの術は完璧なものではなく、ただ豊葦原での記憶を失ったのみである。都合のいい嘘の記憶を植えつけておこうか、とも考えたが、ナーサティヤはそれを望まないような気がして、エイカは少女の記憶を消すのみに留めた。少女は既に姫ではなく、ただの少女だった。
 その少女の金の髪を浅黒い指で梳きながら、エイカは箱庭のような部屋を見回した。窓は寝床のそばにひとつしかなく、美しくも閉鎖的な部屋はエイカもあまり足を踏み入れることのない部屋だった。普段、ナーサティヤが暮らしている離れの中でも、この「白沙の庭」という部屋だけは特別であった。エイカの術で特殊な結界が張られていて、ナーサティヤとエイカ以外の者を弾き返す。部屋の主すら普段立ち入らないこの部屋は、以前はナーサティヤの妹、アシュヴィンの姉が使っていたものだ。過去の詳しい事情をエイカは知らないが、何か思い悩むことがあるとき、それも極稀にしか、ナーサティヤはこの部屋を使わず、エイカも理由は問わない。ただ、主であるナーサティヤの命によって、月に何度か、埃を掃いに訪れる程度だった。
 う、と小さな呻き声が聞こえエイカは髪を梳く手を止めた。術の影響か、もしかしたら夢見が悪いのかもしれない。そう思い、しかし対処すべき対処もないエイカは、少女の耳元でこそりと、もう案ずることは何もない。そう呟いて、少女のすべらかな頬を撫でた。
 少女が案ずべきことなど、もう無いのだ。エイカは薄く不恰好に微笑み、少女の良い夢路を願った。主がこの少女を救い、わざわざ常世のこの部屋まで連れ帰らせた理由がすこし分かるような気がして、エイカは胸の内でのみ、ナーサティヤに「やっぱり、あなたはお優しい」と呟いた。
 エイカと少女は少し似ていた。その血筋ゆえに、その容姿ゆえに異端と罵られ、寄る辺もない、湖に放り出されたひとひらの花弁のようだった。その花弁を寄せて集め、ひとつの花にしようとでもいうのだろうか、ナーサティヤはふたりを拾った。エイカは自らナーサティヤの手となり足となり、主の代わりに泥を被る道を選んだが、この少女はただナーサティヤの傍にあってほしいと、なんとなくに思っていた。皇族でありながら皇位継承権を持たず、孤独に立つしか道のなかったナーサティヤと、王の子ながらその能力も容姿すらも受け継げなかった少女とはすこし似ていた。三人は全く別の立場にあるにも関わらず、それぞれに薄く被る部分を持ち合わせていた。
 かつりと高く石を叩く音が聞こえ、エイカは主の帰還を耳で感じた。遠くに聞こえていた足音はゆっくりと、しかし常よりはいくらか急いたような音を含んで白沙の庭へ近づく。やがて低く鳴る扉の音に、エイカは主の姿を見止める前に頭を深く下げて迎えた。
「無事のご帰国、嬉しゅう御座います、ナーサティヤ様」
「エイカ、上手くやったか」
「万事、抜かりなく」
「そうか」
 ナーサティヤは短くそう言うと、外套を脱いでエイカへと手渡した。上着や白銀の長剣を手早く脱ぎ、それもエイカへと渡すと、少女の眠る寝具へと腰掛けた。ぎ、と音を立てて、白い布がすこし沈む。それでもまだ眠ったままの少女に、ナーサティヤはほ、と小さく息を吐き、散らばる金糸に爪先を絡めて、ゆるゆると目を細めた。
 その主の様子が、その爪先の動作が、エイカの目にはやや恐々としたもののように見えて、エイカは隠された顔でこっそりと微笑んだ。いつもしゃんと背を伸ばし堂々と顎を引き、王族たるもの常にただひとつの綻びもあってはならぬとでも言うように、臆することなく矢面に立つ自らの主が、小さな少女の髪に、ひどく惑うような動作で触れるのが、なんだかエイカには可愛らしく思えたのだ。
 視線は少女へ降らすままに、ナーサティヤはまるで寝具の影のように部屋の端に立つエイカに「どこまで消した」と、常と同じ低い抑揚のない声で問う。エイカは少し考えるような素振りをして、豊葦原での記憶だけ、と答えた。ナーサティヤは先ほどと全く同じ調子で、そうか、と言ったきり黙ってしまったが、それは不機嫌によるものではなく、エイカは自らの判断は間違っていなかったなぁと、黒布の下でほくそえんだ。伊達に長年仕えてきたわけではないと、そういう自負もある。
 長く身を覆う黒い外套をちょっと持ち上げて、エイカは「姫の衣服は如何致しますか?」と目を細めた。あまりそういう所に目の行かない主であるから、これから少女がここに住まうことになるのなら、エイカがその分まで気を使わねばならないだろう。それにナーサティヤはむ、と目を細めて「もう姫ではない」と、どこか拗ねたような声で言った。エイカはくす、と喉で笑って、そうでございましたね。と軽く頭を下げた。
「常世のものを用意しろ。あまり華美ではなく、しかし、質は選べ」
「はい、ナーサティヤ様」
 エイカはあまり見かけない主の表情が嬉しいのか、なにやら楽しそうに髪飾りはどうしましょうか、常世の文字も覚えてもらわねばなりませんね、などと実のないようなことを次々と言った。ナーサティヤはエイカをちらりと覗き見て、ため息混じりにそう急いたことばかり言うなと諌めたが、エイカは口先では謝ったものの、胸の内では先の考えを潰していないようだった。そんなエイカに小さくため息を落として、どこかでなにか間違ったかな、とぼんやり思った。
(いや、間違っていたのは、この娘を生かした時点で、既に間違っていた)
 生かすべきではなかった、などとは百も承知の上である。後にどんな禍根を残すかも分からず、何かが発端で記憶を取り戻したとすれば、小さな真珠の爪は瞬時にナーサティヤを討つ手に変わるかもしれない。普通に判断したならば、ナーサティヤはきっと生かさなかっただろう。あのときの自分はきっとなにかがずれていたと、ナーサティヤは今でも思っている。
 ナーサティヤは髪を一房掬って、落とした。さらりと落ちていく金糸は、今は失われてしまった常世に降る日の光にも似て、ナーサティヤは懐かしさに目を細める。この金の髪のなにが禍々しいというのだろうか。中つ国はつくづく分からぬ。そう胸の内でだけ呟いた。
「ん……」
 薄い色の睫毛が震え、ゆっくりと白い瞼が開かれると、青く澄んだ空の目が、ぼんやりとした意識のままにナーサティヤを捉えた。少女は目をはたはたと瞬かせ、惑う指で前髪をちょっと掻きあげた。呆けた双眸はナーサティヤの炎を模したような赤い髪を捉え、不思議そうに揺らいだ。細い腕を使って上体を起こし、小首を傾げる。ナーサティヤはそれをじ、と見て、そうして少女の目を見ながら「名はなんという」と、やっぱり抑揚のない声で言った。
「名前……千尋」
「そうか、千尋。何があったか、わかるか?」
「え、と、なにか、燃えてて、私、怖くて……」
 意識の覚醒と共に恐怖も甦ってきたのか、少女の肩は頼りなさげに震える。サーサティヤは深色の目を細め、今は手袋に覆われていない、素手の手のひらで少女の頭を軽く撫でた。少女は大きな目をさらに見開いて、ナーサティヤの手を見上げた。
 いつでも術を発動できるようにと身構えていたエイカへ視線をやり、術を発動させる必要はないと、その目だけで語った。それを悟ったエイカは詠唱を止め、一歩後ろに下がった。全て主の意向のままに、と言うのだろう。
 ナーサティヤは中つ国の二ノ姫だった少女、千尋の金色の髪を撫でながら「千尋」とその名前を呼んだ。常世にはない響きのその名をどこかぎこちなく、ナーサティヤは呼んだ。
「お前は中つ国の娘だが、親が戦で死んでいたゆえ、私が引き取った。ここはお前が生まれ育った国ではない。常世だ」
「常世?」
「そう、常世だ。お前は、その戦のせいで、詳しい記憶を失くしている。そして今から、私がお前の親の代わりとなろう」
「……よく、わからない」
「分からなくてもいい。だが、もうお前を恐怖させるものなどない。これだけは、信じろ」
 常より抑揚のない声で話すナーサティヤであるから、その変化は微細だが、どこか強い、言い聞かせるような調子で、ナーサティヤは言った。千尋は無垢な目でナーサティヤを見上げ、ころりと口元を綻ばせた。穢れの一点もないような、生まれたての白い指を伸ばし、ナーサティヤの頬に触れた。今しがた起きたばかりの指先は仄かに熱く、ナーサティヤは目をすいと細める。
「あなたの名前は、なんていうの?」
「ナーサティヤ」
「なー……?」
 耳慣れない名に、鸚鵡返しも出来ない千尋に、ナーサティヤは「サティでいい」と、ちょっと呆れたような、しかし、弟であるアシュヴィンに対して「仕方が無いやつだ」と言いつつ許してしまうときのような調子で言った。
 千尋は嬉しそうに「サティ」と、今度こそ鸚鵡返しに名前を呼び、子猫のような可愛い双眸を細めて笑った。それにナーサティヤが「千尋」と呼び返してやると、鈴を百も転がしたような声でくすくすと声を漏らした。寝起きだからだろうか、白い頬にほんのりと血の赤が差して、その笑みは更にあどけなく愛らしい。
 ナーサティヤは千尋の様子に少々驚いていた。記憶を失っているとはいえ、こうもあっさりと自分の言葉を信じてしまうとはと。それがエイカの繊細な術のせいなのか、それとも千尋の本質なのかはわからないが、なんとなく他人にすぐ心を預けてしまう性質なのだろうと、千尋の目を見ているとそう感じた。対人経験の少なさからくるのだろうそれを、ナーサティヤは少々危ういものに思ったが、その性質も千尋の育った環境では仕方がないと、ナーサティヤは行き場のない憤りを感じた。
 その、中つ国での記憶を失くしてしまった千尋は、もう疎まれる恐怖を知らぬ双眸であたりを見回し、エイカの黒い姿を見て、不思議そうに小首を傾げた。ねぇ、とサティの袖を引き、エイカを指差して「あれは?」と問う。ナーサティヤが無言のままエイカを手招きして寄せると、エイカは折り目正しくお辞儀をした。
「私はエイカと申します、千尋様」
「エイカ?」
「はい。こちらのお方にお仕えしている者です」
「なんで、顔を隠しているの?」
「そういうしきたりなのです。私の、土蜘蛛の一族の」
「ふーん。残念ね」
「え?」
 今度はエイカが、不思議そうに小首を傾げた。千尋の、嵐が過ぎた後のような突き抜ける空色がエイカをじ、と見る。黒布に覆われた素顔が見えるはずもないが、なにか見透かされるような心地がして、エイカは自らも知らぬ内に踵を引いた。一時だけ言葉を選ぶように視線を逸らした千尋は、口角を上げた可愛い笑みで「だってね」と白い指先で自らの青い目を指した。
「エイカの目が、見られないもの。エイカの顔を見て話すことができないのは、残念だわ」  でも、しきたりなら仕方が無いね。そう付け加えて、本当に残念そうに眉尻を下げ頬を膨らませるものだから、エイカはなんだか可笑しくて、ついくつりと笑いがひとつ漏れた。
 土蜘蛛であるエイカの顔を見ることは、常人にとっては不吉、不幸、あってはならないことである。だからエイカも顔を隠し、黒い影のような布にその身を包み、ナーサティヤに与えられた世界の端にしがみついているというのに、千尋は記憶がないせいもあるだろう、エイカの顔が見られないことが残念などと言ったのだ。それが可笑しく、しかし、心のどこかでそんな千尋を温かく思うものもあり、エイカはつい笑いを落とした。
 そうして、見えない顔に薄く笑みを湛えたままに、エイカは「では、私はこれで」と、戸を軋ませて退室した。先ほどナーサティヤに命ぜられた、千尋の衣服などを用意するためだろう。ナーサティヤは無言のままにそれを許したが、千尋は青い目をきょろきょろさせて「どこにいったの?」とエイカの行方を問う。ナーサティヤはそれには答えず、千尋、と低い声で名前を呼んだ。なぁに、と無邪気な声が返ってくる。
「千尋、今からここで暮らすお前は、私とひとつ約束をしてくれ」
「いいよ。なぁに、約束って」
「この部屋から、出てはならぬ。扉を開けても、ならぬ。いいか?」
「どうして?」
「お前が中つ国の人間だからだ。外に出て誰かに見つかれば、その場で斬られるかもしれぬ」
 だから出てはならぬ。そう、深色の双眸を真剣に染め上げて言うナーサティヤに、千尋は幼いながらに何かを感じ取ったのだろうか、わかったと素直に頷いた。ナーサティヤは千尋の頭を撫でて、良い子だと、薄く笑んで言った。風の一陣も入らない部屋に、常世の赤い光だけが差し込む。
 小さな二ノ姫は記憶を失くし、常世の千尋になった。その事実を知るのはナーサティヤとエイカのみ。新たな主を迎えた白沙の庭は、まるで千尋のための小さな王宮のように、その華美ではないが、品の良い調度品の数々を暮れかける日に輝かせた。