二度目の

 白沙の庭は、ナーサティヤの住む離れに働く采女や、ナーサティヤが重宝している土蜘蛛の一族ですらも、立ち入るどころか近づくことすらも禁止された、ナーサティヤの完全なる私有物だ。不用意に近づけば土蜘蛛一の術者であるエイカの防衛の呪術が発動し、即座にその命を奪われるだろう。エイカの術が見逃す者は術者であるエイカ本人、常世の王家の者、そして最近新たに加えられたのが、中つ国の王家の血を持つ者だ。しかし例えば術に長けた誰かが防衛の呪術を潜り抜けたとしても、白沙の庭の扉を開くことは出来ない。扉に掛けられた術はエイカとナーサティヤ以外の者を弾き飛ばす術であり、扉に触れた瞬間に、その誰かは石造りの床に強かに背を打ち付けることになるだろう。
 エイカは自らが施した術には自信を持っていた。破られることがあれば首を刎ねてもかまわないとナーサティヤに誓いを立てるほどである。
 隻眼の男が小鳥の嘴から告げた言葉は、意味深であると同時にひどい悪寒を伴うものであったが、エイカは自らの術式に絶対の自信を持っていた。兵法と術に長けると噂される異国の軍師であろうとも、呪術の傍らで生を育んで来た一族の術を破ることなどできまいと、心の端で楽観する自身がいた。
 しかしエイカの楽観は、白沙の庭の扉の前で崩れ去る。星屑に煌くのは主の燃える夕日の髪と、箱庭に住むはずの小さな姫と同じ色をしたふたつの目だった。
 ぷつりと空気の濃縮されたような感覚が身を包み、そこが自らの張った結界の境界だとエイカは気付く。鏡のような少年は、確かにエイカの結界の中にあった。
 ナーサティヤ様。叫ぶと同時に大鎌の柄を握り締めるエイカを氷の目で制し、ナーサティヤはひたと見慣れた金と同色を見つめた。
「何故、ここに立ち入ることができた?」
「そこの土蜘蛛の張った結界は、僕を通してくれたよ。僕じゃなくて、あんたたちがちょっと甘いんじゃない?」
 少年は皮肉げに口角を吊り上げると、湖面の瞳を揺らして笑った。自らの結界を貶められたエイカは屈辱に刃を握るが、ナーサティヤの鋭い目の前に黙したままにとどまる。少年はころりと愛らしく笑ったまま、しかし目はナーサティヤを噛み殺さんばかりに輝いていた。
 少年はまるで土蜘蛛のような黒衣に身を包み、その金の髪を隠していた。影が掛かる痩せた顔の中に、据えられたふたつの青い玉が獣のように光る。エイカをちらりとも見ず、ナーサティヤのみを見据える少年の中に恐怖は見出せなかった。エイカはそれがとても脆いように見えて、少し恐ろしかった。
「レヴァンタの軍師の手引きか」
「さあ、どうかな」
「何の目的が?」
「別に。千尋に、二ノ姫に会えれば、それでいいと思っただけだよ」
「私に殺されることも、承知の上か」
「勿論。常世の皇子ともあろう御方が、そこまで甘いとは思っていないよ。まあ、会えないままに殺されるとは、思ってなかったけど」
 少し柊を恨むよ。枯れた喉でくすりと少年は笑いを零す。そこに後悔は見えないが、赤く爛れた毒が鈍く光るのが、ナーサティヤの目に映った。
 少年は抵抗する気配すら見せず、初めてエイカの、否、エイカの握る石の大鎌をちらりと覗くと、早く殺せば良いのにとばかりにため息を吐いた。おおよそ十生きたか生きないかの少年には似つかわしくないため息は、諦め以外の何も含んではいなかった。それはナーサティヤが時折見る千尋の目にも似ていて、早くから世界の裏を知りすぎた少年はいつかのナーサティヤ自身と重なる。
 星の小さな明かりの下で、互いの顔すらも朧に滲む。太陽も月も見捨てた常世の闇に、少年の髪はまるで荒廃した常世を嘲る月のように冷ややかだ。
 作られた静寂にふ、と淡く息が滲み、ナーサティヤは酷薄にも見える薄色の目を細くした。
「名はなんという?」
「ナーサティヤ様、どうなさるおつもりです」
「エイカ、黙っていろ」
「はい、申し訳ありません」
 主の意図が分からず、思わず口を出したエイカを睨みつけ、ナーサティヤは懐に忍ばせた白銀の短剣を抜いた。磨き抜かれた刀身は瞳のように鋭く、切先は星の瞬きを吸って薄く光る。
 少年は可愛いたれ目を大きくして、驚き滲んだ碧色をナーサティヤに向けた。ちょっと口を開いた表情はまだ幼く、上下する長い睫毛の房は光の色をしていた。
「それって、僕の名を聞いてるの?」
「他に誰がいる」
「……那岐」
「そうか」
 何の感慨もないように言うと、ナーサティヤは抜き身の剣をそのまま那岐に手渡した。短剣はナーサティヤが持てば短くとも、体の小さな那岐には不恰好なまでに大きく、薄汚れたような色に白銀がぽっかりと浮いていた。
 訝しげにナーサティヤを見上げる那岐に、ナーサティヤは短剣の鞘を見せて言う。
「那岐、千尋に会えればそれでいいと言ったな?」
「そうだよ、千尋に会えれば、ね」
「ならば何故、その短剣すぐに私を刺さなかった」
「え?」
「ナーサティヤ様!」
「エイカ、黙れと言ったはずだ。那岐、何故だ」
「そんなこと、僕があんたを殺せるはず、ないじゃないか」
「何故、そう思う?」
「僕が手を伸ばしても、あんたの心臓まで届かない。術を使っても、そこの土蜘蛛の方がずっと早い。それに、あんたを殺せば、今の千尋は悲しむかもしれないだろ」
 今度はナーサティヤが、驚きに目を細くした。それだけで肌が裂けそうなほどに鋭利な視線を、那岐は薄い笑いで受け流す。驚いたかい、とでも言いたげな得意な笑みに口角を上げて、那岐は眉尻を下げた。諦めのような、少しの羨望のような表情に渦巻く感情の水は、ナーサティヤには読み切れない。
 根底に潜むものは、全て同じなのだろう。那岐が千尋に寄せる大きな感情は、ただ悲しい顔をさせたくなくて、ただ笑っていてほしいというそれだけなのだから。
「千尋が悲しむかもしれないと、何故思う」
「あんたって質問ばっかりだね。まぁ、いいけど。あんたは千尋を二ノ姫でも龍の神子でもなく、千尋って呼んだ。だからだよ。そんなにあんたと千尋が親しくなってるなら、あんたが死んだら千尋が悲しむんじゃないかって、思っただけ」
「私が千尋と名を呼んだと、ただそれだけで気付いたのか」
「確信したのはそう。だけど、柊から“記憶を消されているのかも”って聞いてたからね。その上にあんたが名前を呼ぶものだから」
 那岐にとって、自分が千尋に会いたいという思いすらも、千尋の感情の前では二の次なのだ。たとえそのためだけに危険を冒して常世に潜んでいたのだとしても、当の千尋が再会を望まないのなら千尋には会わなかっただろうし、今の千尋が悲しむのなら、何も知らせず泡と消えることすら厭わない。那岐の天秤は常に千尋の方に傾いている。
 ナーサティヤは那岐を見る。薄汚れた衣に包まれた髪と目は、しかし千尋と酷似していた。闇の中で光を発するように薄い髪が、那岐の湖面の瞳を隠している。
「エイカ」
「はい、ナーサティヤ様」
「部屋をひとつ、用意してやれ」
「な、ナーサティヤ様! この少年を生かすのですか!?」
「私が常世を空ける間、千尋の世話係に良いだろう」
「……あんた、正気?」
「私が狂っていると?」
「はっ、本当、狂ってるよ。千尋のことといい、常世の皇子の癖に、あんた甘いね」
「あまり見くびらないことだ。ただ利用価値がある、それだけだ」
「僕が千尋を連れて逃げないとも限らないのに?」
「お前はそうしないだろう」
「なんで言い切れる?」
「千尋を深く思うなら、出来るはずもない」
 ナーサティヤは眦を緩め、笑むような表情をして見せた。自信と確信に満ちたその目は、常世の皇子に相応しい光を孕んでいる。二度三度瞬きをして、那岐はぽかんと口を開けた。どこからそんな光が発せられるのか、那岐にはわからなかった。
 エイカが苦いため息を吐いて、仕方の無いお方だ、と石鎌を下ろした。小さな那岐を見下ろす。黒布の奥に隠された鋭い眼光に貫かれた心地がした。何か怪しげな行動が見られたならば殺すと、エイカの無言の牽制だった。
 那岐は、ナーサティヤの監視下に置かれることになった。その様子を見ているはずもない隻眼の男は、艶やかな笑みを唇に浮かべて、彼の口癖をひとりの部屋に転がした。
「全ては、既存伝承のままに」
 それを拾う者は、もう居なかった。



 一月ほど、那岐は土蜘蛛の監視の下、ナーサティヤ邸の一室に幽閉されていた。その間に千尋に会うこともなく、ただなにを強要されるでもなく、部屋の中では放し飼いの状態だった。柊の下に身を寄せていたときと寸分変わりない状況に那岐は不機嫌を隠さなかったが、時折、様子を見に訪ねてくるナーサティヤに向ける目は、いくらか穏やかになっていた。
 その日は、那岐にもわかるくらいにナーサティヤの機嫌がよかった。ナーサティヤの機嫌が良いとは万人のそれに当てはまるものではなく、例えば少し饒舌だったり、少し目元が柔らかだったりするだけだ。それでも、那岐が一目見てそれと分かるくらい、ナーサティヤは機嫌が良かった。
「那岐、ここから出してやろう」
「え、本当なの、それ」
「私が冗談を言うと思うか」
「思わない」
 即ちナーサティヤの言葉は真なのだと、那岐は大きな目を見開いて頬を赤くした。飛び上がらんばかりの那岐に、傍近くに控えるエイカが、冷や水を掛ける声で言う。
「ただし、条件がございます」
「条件?」
 那岐は訝しげにエイカを睨む。しかし、どんな無理難題でも引き受けてやろうという挑戦的な色が、青緑の中に渦巻いていた。
「兵として、教育を受けていただきます。そしていずれは、常世の兵として、戦に出ることもあるでしょう」
「僕が、常世の兵士に?」
「はい。あなたは中つ国の四道将軍の最後の弟子と聞きました。鬼道の腕は、なかなかのものだとか」
「ふん、そういうこと。それが、常世で僕を生かしておくための条件だったってことね」
「お察しの通り」
 この一月の間に、ナーサティヤは皇へ嘆願していたのだ。勿論、千尋のことは伏せている。ただ、中つ国の王族に迫害されていた少年が思いのほか能力があるので、直属の部下として教育したいと、それだけを述べた。皇は少し迷う素振りを見せたが、やがてお前の判断ならば、と以前とは随分変わってしまった、氷の双眸でナーサティヤの願いを聞き入れた。那岐は正式に常世の人間として受け入れられ、ナーサティヤの部下として働くことになったのだ。
 那岐は首に下げた勾玉を握ると、それで千尋に会えるなら、と同色の目でナーサティヤを睨んだ。満足そうに頷き、来い、と踵を返すナーサティヤの背に張り付くように、エイカが続く。那岐はエイカの長い黒衣の裾を見ながら、千尋に会える、と胸を躍らせた。


 凝縮された空気を踏むような心地がして、那岐はそれが結界なのだと思った。古い、しかし美しいままに保存された常世の扉は、那岐が良く見知っていた中つ国のものとは随分違った。ナーサティヤは足を止め、那岐をじ、と見ると、那岐の高揚を殺す冷めた声で那岐、と名を呼ぶ。那岐は返事の代わりに、瑪瑙の目を返した。
 扉の向こうには、千尋がいる。エイカの術によって完全に外界と隔離されている白沙の庭には、声も足音も届かない。目の前の扉は、千尋へ繋がる唯一の手段だった。
「千尋は、中つ国の記憶を持たぬ」
「知ってるよ」
「中つ国の人間だとは知っていても、自分が王族だとは知らない。無論、どんな関わりがあったかは知らぬが、お前のことも、覚えていない」
「……わかってるよ、そんなこと」
「ならば、いい。もし、何か余計なことを話す素振りを見せれば、私はお前を斬る」
「千尋の前でも?」
「それが、千尋のためなら」
 ナーサティヤは携えた重い白銀の柄を指で叩き、同じ鋭さを秘めた双眸を細くした。本当に斬るだろうと、那岐は思った。もとよりなにを話す気もない那岐だが、敵国の皇子であるナーサティヤが千尋のためにここまで言い切るのが少し心地よく、恨めしかった。もしもはじめから常世に生まれていたのなら、千尋は幸せだったかもしれないと、そう考えてしまう自分が嫌だった。
 ぎ、と蝶番が軋む。花が舞うような声は、以前と寸分変わらない鮮やかな色で「サティ」と別の名を呼んだ。今日はエイカも一緒なのね、と喜色を隠そうともしない、無邪気な声が那岐の耳にも届く。跳ねる心臓を掴んで、ああ泣きそうだと俯いた。
 ナーサティヤは千尋の髪を撫でて、今日は土産があるのだと神妙な顔で言った。千尋は小さく首を傾げて、そういえば今日はお花がないものね、と妙に納得した顔で頷いた。
「エイカ」
「はい」
 エイカが黒衣に包まれた手で、那岐の背を押した。扉に張られた結界はすんなりと那岐を通し、あまりに広い部屋と、整えられた美しい調度品たちが那岐の目に飛び込んでくる。
 ナーサティヤの腕に抱きついていた千尋は目を丸くして那岐を見ると、ころりと瞳を転がした。微笑みの形に変わる唇は那岐に向けられていた。異国の服を違和感なく翻し、嬉しそうにナーサティヤを見上げる千尋に、那岐はその名を叫んでしまいたかった。
「サティ、サティ、お土産って、この子のことなの?」
「お前の遊び相手に、丁度良いだろう」
「もう、人を相手にお土産だなんて、ひどいわ。素直にお友達を連れてきたって、言ってくれればいいのに」
「そうだな」
 千尋の背を軽く押して、ナーサティヤは千尋と那岐を向かい合わせる。無論、いつでも那岐を殺せるような術を、エイカは準備している。ナーサティヤも、腰に下げた長刀に添えた手を離さない。
 しばし那岐の全身を見渡す千尋を、那岐は懐かしいような心地で見ていた。眼球以外に体が動かなかった。やがて猫のような可愛い目を細くして、千尋は那岐の手を握った。
「はじめまして、私、千尋っていうのよ。あなたのお名前は?」
 那岐は一瞬だけ瞳を濁した。ああやっぱり忘れてしまっているのかと、涙の膜が厚くなっていくのが自分でも分かった。瞬きをしてそれを消すと、那岐は包まれた手の中で指を少し折り曲げて、不恰好な笑顔を作った。
「僕の名前は、那岐。はじめまして、千尋」
 ナギ、と名前を鸚鵡返しして、千尋はころりと笑う。以前と同じ声で、全く違う色で、那岐の名を呼ぶ千尋に、泣きそうな目を潰して那岐は微笑みを返した。瑪瑙の目は異国の色をした千尋を映し、秋の葦原を模した髪は煌びやかな髪飾りに飾られた千尋の髪とはあまり似ていなかった。
 那岐の顔をまじまじと見て、千尋は小首を傾げた。そして那岐本人にではなく、手を握ったままに振り向いて、ナーサティヤの氷を割った色をした目に問いかける。
「ねえ、サティ。ナギは私と同じ色をしているのね。名前も、少し変わっているわ」
「那岐は中つ国の生まれだ」
「そうなの? じゃあ、私と同じね。那岐、あなたは中つ国のことを覚えているの?」
「一応は、覚えてるよ」
「私は覚えていないの。戦のせいで記憶がないのよ。あ、でも、サティとエイカがいるから、全然、いいのだけど。那岐、中つ国のお話を聞かせてね」
 約束よ、と笑う千尋に、那岐はああ、約束だと目を細くした。