炯炯と燃える二つの深い色の明眸を、少女はまるで不可視の糸にでも捕らわれてしまったように、ただ呆然と立ち尽くして、じ、と見た。長い金を垂らす背は王族というにはあまりに小さく、震えることすら忘れてしまった細い手首は極上の珠の如く白かった。
その、手首の色と同色の衣を纏う炎の影のような男もまた、感情の浮かばないような、涼しげな目元を一瞬だけ驚きに染めて少女の愛らしい面を見た。しかし、その色もすぐに猛る炎の赤に呑まれ、喉から転がり出るのは低い、凪いだ湖面のような声だった。
「中つ国の姫、か」
「あ、わたし……」
深い怯えを隠すこともない、幼い蒼穹の目は薄い涙の膜にゆれ、震える小枝のような喉は声を紡ぎだすことはなく、ただ薄紅色の唇だけが、音無き言葉で「かざはや」と彼女の従者の名を呼んだ。
男は少女を見下ろしたまま、一見は何も感情の浮かばないような顔で、しかし、少しでも彼を知る者が見たならば、ああ、この少女を哀れんでいるのか。と分かるような、ほんの少しだけ目を細めた顔で、背に従える炎の侵略をやわく制した。
赤々と燃える壮麗な城に囲まれた少女はまるで翼を折られた小鳥のようで、男は震えることしか出来ない少女の青に、ここで殺してやる方が幸せだろうと、左腰の白銀に手を伸ばした。自らも王族である男は、敗戦国の姫がどのような立場に立たされるかなど十二分に承知していたし、中つ国の伝承や王族の成り立ちを、男自身が好ましく思っていなかったということもあった。しかし、中つ国の王族を嫌うが故に、男はこの少女を殺すことに一縷の迷いを覚えた。風の噂に聞く、金の髪を持った姫とはこの少女のことか、と男の揺ぎ無いかのような双眸は惑う。
刹那の逡巡の後、鋭すぎるような潔癖の白銀からその手を離した。しかし、その白銀にも似た眼差しは変わらずに少女の蒼穹を捉えたままだ。男はつい先ほどまで、少女を斬り捨てるべく白銀の剣を握っていたその手を少女の前に翳した。纏う衣と同じく、宵闇にも炎にも紛れることのない白に包まれたその指を見て、少女は大きな双眸を不思議そうに瞬かせた。薄く涙が髪と同色の、光の筋のような睫毛に跳ねて、その小さな水の玉すら少女の愛らしさを助長させる要因のひとつになっているかのようだった。
「中つ国の姫、名はなんという」
「ち、千尋」
「そうか。千尋、暫し眠れ」
男が穏やかな声で術を紡ぐと、少女の瞼は落とされ、崩れる体は男の片腕によって支えられた。髪の先がわずか床に落ち、ゆるい弧を描いて垂れるその色までもが美しい金の髪は、男の従える炎によって淡く黄昏の色に揺れる。男はその金の髪の一筋すら残すまいとでも言いたげに少女を抱きかかえる。その指先がひどく優しげなようで、しかし頂く瞳は冷たい深海の色のままだった。
抱き上げた金糸の、豊かなその一房を掬い上げ、落としてみればさらりと音も無く流れる。その様子が、まるで光の幕が落ちるようで、男は中つ国の貴族や民に対して嘲りの色深く、笑みのように目を細めた。
この美しい少女の、何が忌み子だというのだろうか。元より、どちらが正しいかなど今では分からないとはいえ、中つ国の捻じ曲がった伝承などあてにはならないはずなのに、ただ髪と目の色とそれだけで迫害され続ける運命の小さな姫に、男は薄い同情のような感情を抱いていたのかもしれない。過去に何度か風に乗って届いたその類の噂を耳にするたびに、苛立ちと嫌悪を覚えていた。
その姫を殺しもせず常世に連れ帰ろうという行為は、一種のあてつけのようなものかもしれない。王を失い、後継者の一ノ姫も亡き今、迫害し続けていた二ノ姫を頼ろうにも、その二ノ姫は誰も知らぬ内に、何も知らぬままに常世の民として暮らすのである。男はなんだか爽快な心地すら覚えて、そっと眼差しを伏せた。
男は少女を腕に抱いたまま、ちらりと炎の影に目をやり、その空虚に向かって「エイカ」と呼んだ。音も無く現れた、影がそのまま人の形になったような黒衣の男に、男は無言のまま少女を預けた。わけもわからぬままに少女を受け取ったエイカは、黒に覆い隠された素顔を思わず驚きに染め、目を見開いて腕の中で眠っている少女を見た。
「ナーサティヤ様、これは、中つ国の二ノ姫ではありませんか」
「そうだ。エイカ、お前の術で記憶を消せ」
「殺さないのですか?」
「生きているからこその、利用価値もあるだろう。数年の後にも、中つ国の残党が片付かなかったときには、アシュの嫁すればいい」
「……仰せのままに」
エイカは、それ以上は追求しなかった。ナーサティヤの言い分には、国を思わぬエイカにも分かるくらいの矛盾点がいくつも転がっていたが、それに見てみぬふりをした。己の主である男、ナーサティヤの真意などわからないが、普段から国の為にと尽くし、感情という感情をあまり浮かばせない主の目に、なにか宿るものがあったのをエイカは見た。エイカは眠る少女の上にそっと「あなたは運が良い」と落としたが、轟々と燃え盛る炎に紛れて、その呟きは少女にもナーサティヤにも聞こえることはなかった。
やがて踵を返し、自らは戦場に舞い戻ろうとする主の背に、エイカは「私は常世に戻ってもよろしいのですか」と問うた。答えなど明白であるが、ナーサティヤに忠を尽くすエイカとしては、断言された答えをもらわなければ行動は出来なかった。
ナーサティヤは足を止め、視線だけをエイカに寄越すと、ただ一言「先に帰れ」と告げ、歩きだそうとした。しかし、かつ、と靴底が石を叩く音は二、三で止まり、ナーサティヤはもう一度、今度は振り返ってエイカを、というよりも、その腕から零れる金の髪を見た。エイカはナーサティヤの言わんとしていることがいくらか分かったのか、ナーサティヤが命令を下すより先に「記憶を消して、どこにおけばいいでしょう?」と少女を抱きなおすように腕をちょっと持ち上げた。
「白沙の庭が空いていただろう」
「いいのですか? あそこは確か……」
「いい」
もうこれ以上告げることはないというように、ナーサティヤはもうエイカと少女に視線を向けることもなく、炎で仄かに夕日色に染まる外套を翻し、腰の白銀を煌かせ炎の中に消えた。エイカはそれを見届けると、一歩退き、そのまま影に溶けるように消えていった。消え残るような、網膜に焼きつく少女の色も、黒に溶けて消えた。
靴底が板を叩き、従える赤黒い炎がじりじりと、まるで楽園のような美しい城を焼く。その炎の影にちらりと、あの小さな二ノ姫と同じ色が覗いた気がして、ナーサティヤは白銀を抜いたままに気配を目で追った。立ち尽くした金の髪を頂く少年の色は確かに少女のものと似ていた。新緑を映した湖の目を見開いて、しかし怯えを微塵も見せることなく佇む少年に、ナーサティヤは「何故、逃げぬ」と剣の切っ先を向けた。それに少しだけ顎を引いて、しかし足は燃え崩れる城をしっかと掴んだまま、少年はナーサティヤを、目尻の下がった可愛らしい顔を歪めて睨んだ。
ナーサティヤは少年のその目をじ、と見て目を細めた。一歩踏み出せば細首を飛ばすことも容易であるのに、ナーサティヤはきらきらと赤に輝く切っ先を下げ、ただ一言「去れ」と言い残し、更に深く橿原宮に潜るべく、炎を従え少年から顔を逸らした。
それに、斬り捨てられることを覚悟していた少年は目を大きく見開き、咄嗟にナーサティヤの背を追いながら「何で殺さない!」と眉を吊り上げた。
「二ノ姫も、あんたが殺したんだろう。なんで僕も殺さない」
「二ノ姫か……」
不意に口角を吊り上げ、嘲りの笑みのように眉根を寄せたナーサティヤは、もう一度だけ、少年の緑色の目を背越しに覗き見た。よくよく見てみれば、それは少女の高く澄んだ空とは違い、深い森の色をしていた。薄色の睫毛に縁取られた目が、辺りを包む熱気からか、それとも少年の胸から湧き上がる情からか、薄っすらと涙を抱いている。
なんて愚かな、とナーサティヤは少年の目に浮かぶ慕情に、少年にではなく、今まさに自らの炎によって灰に帰そうとしている国に、憎しみにも似た黒い染みがほたりと心臓に落ちたような心地がした。国を治める者が挙って虐げてきた小さな姫の本質を、同色の少年だけしか真っ向から見据えることが出来ないとは、中つ国の貴族とはなんと愚かな。そう思うナーサティヤは少年を殺す気が起こらなく、しかし先の出来事の事実を漏らすわけにもいかず、ただ「去れ。全て忘れることだ」と言い残し、立ち尽くす少年の前から足早に立ち去った。
思いの他に時間をくってしまったと、ナーサティヤは足を急がせて荘厳な城の奥深くへと潜っていく。中つ国の女王は宮の奥に立てこもり、少ない臣下と抵抗を続けている。炎を操るナーサティヤは、城攻めに適したその能力故に、彼の父親である常世の皇に命じられ、細々と生き延びている王の命を摘むべく、彼の従者である土蜘蛛の能力を借りて、ほぼ単身で橿原宮まで入り込んできたのだ。宮を守る兵までも出してしまったのだろう、橿原宮は王の居城とは思えない程に兵が少ない。奥に行くにつれ、ちらほらと見えることはあれども、ナーサティヤに一刀の元で斬り捨てられてしまうような下級兵士ばかりで、将という将は各地に出払っているようだった。
戦の下手な王だ、と胸の内で呟き、やがて最奥の扉を開ければ、たおやかな黒髪を垂らした女が、胸から血を流して床に転がっていた。その傍近くに、銅の剣に血を滴らせて立つ黒い影が見える。ナーサティヤは呆れたように眉を寄せ、ため息混じりに「アシュ」と吐き出した。
「何故、お前がここにいる」
「サティがあんまり遅いものだからな、ついつい焦れてしまったのだ」
「そうではない、お前の軍はどうしているのだ」
「リブに任せてある。大丈夫、その場その場の対応は、抜かりなく告げておいてあるからな」
からからと笑う弟、アシュヴィンに、ナーサティヤは仕方が無いやつだ、と言うように、もう一度だけため息を吐いた。それにむっと拗ねたように小さく頬を膨らませたアシュヴィンが、言い訳をするように「大体、サティばかりが重要な任に就くなんて」と愚痴を漏らした。アシュヴィンのその言葉に、ナーサティヤはくすりと喉で笑い、お前はこれが初陣だろう。とアシュヴィンの肩を叩いた。
アシュヴィンはこの中つ国攻めが初陣であるにも関わらず、溢れんばかりの才を発揮し、中つ国の要所を誰よりも早く落とした。数年前には常世の次期皇の地位を固められていて、現皇の期待も厚い。それであるのに、此度の戦において何よりも重要な橿原宮潜入が、自らに任じられなかったことを拗ねているのだ。貪欲なまでの出世欲はアシュヴィンの若さ故でもあるが、国の為にとその根本にある思想は決して若さで片付けられるような単純なものではないと、ナーサティヤは評価していた。しかし、国の為にとは思っていても、それを即刻行動に移してしまうところは、やはり若さ故だった。
ナーサティヤはそんなアシュヴィンの素直なところを可愛く思っているが、そのまま行動に移してしまう若さを危うく思ってもいた。だからナーサティヤは肩を叩いたその手でアシュヴィンの額を小突き「今回はいいが、次回はない。あまり軽率に行動を起こすな」と釘を刺した。アシュヴィンはむ、と唸ったが、片方の眉尻をちょっと下げて、分かったよ、と素直に頷いた。この吸収の早さと素直さは、アシュヴィンの美徳だとナーサティヤは思っている。
アシュヴィンは小突かれた額をさすりながら、そういえば、と少し上にあるナーサティヤの目を見上げた。
橿原宮を取り巻く炎はいつの間にか消え、戦の音も大分静まっていた。アシュヴィンを橿原宮まで送り届けた土蜘蛛の手によって、女王の訃報が伝わっているのだろう。
「中つ国には姫がいただろう。俺は見かけなかったのだが、あれはどうしたのだろうな」
「……さぁな。私は見なかったが」
「ふむ、ならば早々に従者が逃がしたかな。一度、見てみたかったのだが」
「何故?」
「中つ国の二ノ姫は、金色の髪と青い目をもつというじゃないか。そのような美しい色をもつ娘なら、一度見てみたかった。全く、たかが髪の色、目の色で奥に閉じ込めていたとは、中つ国の連中はそろって見る目がないな」
やれやれ、と呆れたため息を吐くアシュヴィンに、ナーサティヤはそうだな。と口先で同意して、そろそろ戻るぞ、とアシュヴィンを促した。戦は終結に近づいているとはいえ、未だ気は抜けない。しかしアシュヴィンは楽観して「そんなに急がずとも」と言う。ナーサティヤは無言のままにアシュヴィンを睨むと、肩を竦めて「わかったよ」と頷いた。
橿原宮はすでに常世の兵に占拠されていて、脱出は容易だった。本陣に帰還する間にも、アシュヴィンはしつこく「姫を見てみたかった」と幾度か呟いたが、ナーサティヤは「そうだな」と流し、先の出来事を話すことはなかった。
ナーサティヤが二ノ姫を連れ帰ったことは、ナーサティヤとエイカだけの秘密にしなければならない。相手がたとえアシュヴィンであろうとも、そこに一点の綻びすらあってはいけないのだ。話すことは出来ない。それにもしアシュヴィンに話して、何かから秘密が漏れたとして、常世の将、ましてや皇の血族にあたる者が敵国の姫を匿ったとあれば、ナーサティヤのみならずその事実を知って隠蔽に協力していたアシュヴィンにも火の粉が掛かる。それはナーサティヤの望むところではない。
本陣へと帰陣し、ムドガラ将軍から労わりの言葉を頂いた後、ナーサティヤはすぐに「私はもう本国へと帰還してもいいだろうか」と問う。隣のアシュヴィンはくすくすと喉を震わせ「サティはとことん、中つ国に興味がないな」と笑った。今の常世は目ぼしい将を中つ国へと送っているから、皇への守りが比較的薄い。危険という危険はないまでも、殆どの将が中つ国の残党狩りで手柄を立てたがっている中で、自ら帰国を申し出てくれるのならば、ムドガラ将軍としてもありがたかった。
長く思われた過ぎた時間は予想よりずっと短く、早朝に響いた開戦を告げる剣戟の音は、同じ日の太陽が沈むか沈むまいかと惑う時分にはもう止んでいた。
少数の兵と土蜘蛛を率いて常世の土を踏むまでの間、ナーサティヤはエイカは上手くやっただろうか、と白沙の庭で眠っていることだろう二ノ姫を思い浮かべた。白沙の庭の、真新しい寝具に散らばる金の髪は、炎に照らされた色よりもきっと美しいことだろうと、ナーサティヤは一時だけ瞼を落とした。