宵闇の声

 宵の月に照らされる金の髪に、柊は懐かしいような恋しいような面影を重ねて、憂う小さな後ろ姿を見ていた。口元に刻んだ笑みはもはや癖のようになっているが、それでも深まる口角はその金糸ゆえか、潰れた片目に映るものゆえか。
 那岐は眉を小さく寄せて、鬱陶しいような視線を投げて「なに」と面倒そうに言った。常に薄い笑みを浮かべた目の前の男が、頭は切れてもまだ幼い那岐にとっては薄気味悪く、同志と理解していても心を預けるまでには至らなかった。柊は少々大げさに肩を竦めて、なんでもありませんよ、と長い前髪から覗き見える眼を月光に茫と光らせた。その芝居がかった動作が、那岐はどこか嘘臭いようで苦手なのだが、わざわざそれを告げることも面倒で、あっそ、と端的な言葉を適当に返した。
 この狭い部屋に隠れて幾月、何の変化もないことが那岐にはもどかしく、また苛立たしかった。状況を問う度に、柊は全て順調だと言うが、それも怪しく思えるほどに那岐は焦れていた。
「ねぇ、まだなわけ? あんた、それでも本当に岩長姫の弟子なの?」
「ふふ、そう焦れずとも、時はもうすぐですよ。全ては既存伝承のままに」
「あんたはいつもそれだ」
「しかし事実ですよ。あともう少しの辛抱です」
「ふん、そればっかりで、もう年が半分過ぎたじゃないか」
 中つ国が滅びて、もう二つの季節が過ぎた。二ノ姫に会いたい一心で柊の捨て身とも言っていいような策に乗ったとはいえ、長い季節の間を常世の狭い部屋で過ごした那岐は柊のその言葉には飽き飽きしていた。何を言っても既存伝承がどうのと言う柊に、半ば呆れているというのもある。
 那岐にとって、中つ国などはどうでもよかった。滅びようとも構わなかった。むしろ、金の髪というだけで、龍の声が聞こえぬというだけで幼い娘を挙って貶める中つ国という組織など、滅びてしまっても当然だと思っていた。しかし、二ノ姫だけは、那岐の中にあって特別な存在だった。同じ金の髪を持つからではない。同じ空の目を持つからではない。彼女が二ノ姫であるからでもない。那岐がこの小さな国がひしめく世界で、数少ない心を許す相手であるから、ただそれだけであった。ただそれだけの理由で、那岐は遠い常世の国まで来たのだから。
 そんな那岐であるから、二ノ姫に会うことも叶わず、様子すら分からず、ただ月に焦がれるばかりの日々をもどかしく思うのも、また道理であった。那岐の目的は二ノ姫に会うこと、ただそれだけなのだから。
 柊はここ最近はずっと苛々した様子の那岐に、まだ幼いとひとつ忍び笑いを落とした。全ては既存伝承のままに。そう口の中で呟くと、柊はころりと笑って「さぁ、幼子は寝る時間ですよ」と那岐の背を撫でた。那岐は頬を膨らませて「子供扱いしないでよ」と呟くのみで、未だ眠る様子はなかった。



 白沙の庭での暮らしにも慣れ、ナーサティヤの職務も落ち着き、このところの千尋は機嫌が良かった。それもナーサティヤがまた頻繁に白沙の庭を訪れるようになったからで、たとえナーサティヤの居ないときでも、部屋に咲き乱れる白い花が嬉しいのだ。
 花弁の端を摘んで、ふふ、と笑みを漏らした千尋の顔は、ナーサティヤが来てくれないと拗ねてばかりいた幾日前とは打って変わり、ひどく幸せそうだった。白沙の庭は花の淡い香りで満ち、千尋を膝に乗せたナーサティヤが「花の香りが、千尋の髪にまで染みてしまったな」と笑ったほどだった。しかし千尋にはそれが妙に嬉しく思えて、髪だけと言わず、肌にも衣にも染み込めばいいと思ったものだった。
 今日はサティは来てくれるのかしら、と扉をちらりと見た。しかしその扉が軽い音で叩かれることはない。それもそのはず、先ほどから千尋はそうそう間を置かずにちらちらと扉の方を見ているのだから、当たり前である。
 しかし、まだ来ないまだ来ないと焦れる時間すら、今の千尋には楽しく思えるようで、エイカが遠征の土産にと持ってきた、薄布を幾重にも重ねた淡い緑色の衣の裾を少し持ち上げてみたり、随分数も増えた髪飾りの中から、どれがこの衣に合うかと選んでみたりして、千尋にとっては余りと言ってもいいはずの時間すら上手く消化していた。
 千尋は物分りの良い子だった。ナーサティヤに言わせれば、良すぎるくらいに、素直に言うことを聞くし、文句のひとつすら言わなかった。そのことに、ナーサティヤはやはり本人の気性なのだろうかとも思っていたのだが、もしかしたら、ナーサティヤとエイカ以外の人間と関わりを絶たれたこの状況が千尋を無垢なままに留めているのだろうかと、最近は思い始めていた。沈められた記憶の中にある、十数年という短い間に培われた気性が、それでも今の千尋の端々に浮かびだしているのかもしれなかった。どちらにせよ、本来なら千尋は多くの人間と関わるべきなのだろうと、薄々感づいていた。
 扉を叩く音もなく、不意に扉が開かれる。隙間から覗くだろう白い影に、千尋はますます笑みを深めた。扉を叩いて、千尋の確認を取ってから入るのがエイカ。なんの前触れもなしに扉が開くときはナーサティヤだと、この頃になると千尋はそれだけで分かるようになっていた。
「サティ!」
「千尋、その髪は?」
 ちょっと目を見開いて、まじまじと千尋の髪を見るナーサティヤに、千尋は得意げに笑った。常は背に長く垂らされたままの千尋の髪は、綺麗に結い上げられていたのだ。
 千尋は長い時間を掛けて選んだ、蒼穹を玉にしたような煌びやかな髪飾りを撫ではにかむ。
「エイカが、教えてくれたの。自分でも結えるようにって」
「エイカが?」
「そう。エイカってね、すごく器用なのよ。今度は笛を教えてくれるって、約束したの」
「そうか、それは楽しみだな」
「うん! でも私は笛より、サティが来てくれることの方が嬉しいわ」
「エイカに妬かれてしまいそうだ」
 そんなことないわ、と声を出して笑う千尋に、ナーサティヤは僅かに口角を持ち上げた。ナーサティヤの表情の変化は常に僅かであるが、その僅かな変化を千尋は見逃さない。微笑むように眦を緩めたナーサティヤに、千尋はついつい嬉しくなって、長い裾を従えて、狭い部屋をくるくる踊るように回る。舞姫のような軽やかな足の運びが愛らしい。
 千尋がくるりと振り返れば、まるで破顔するようにナーサティヤがその深色の目を細める。その仕草が千尋はとても好きで、世界の優しさを二つの玉にしたような目の色が失った記憶の中にいる誰かに少し似ているような気がした。それが誰なのかは千尋にも分からず、また分からずともよいとも思っていた。
 定位置となった長椅子に座り込むと、千尋はナーサティヤの目を見上げてちょっと小首を傾げる。不安そうに寄る眉に、ナーサティヤは柔らかなため息をひとつ吐いた。
 このところ、多忙の中に暇を捻り出しては白沙の庭へと足を運ぶナーサティヤに、千尋は嬉しい反面、ナーサティヤの生活が心配なようで、眉尻を下げては「本当に大丈夫?」と問う。その度にナーサティヤは鷹のようなその目を細くして「大丈夫でなければ来ていない」と言うのだが、千尋はそれでも心配でならなかった。自らの為に、ナーサティヤが仕事や自らの体調を犠牲にしてはいないかと、気が気でないのだ。それでなくても千尋は「ナーサティヤに養ってもらっている」という自負が強い。
 また「大丈夫?」と問いだしそうな小さな唇に、ナーサティヤは先手打ちで「お前はなんでも気にし過ぎるな」と、柔らかい音の中に小指の先程の呆れを忍ばせて言った。
「私の弟と似ている」
「そうなの?」
「隠そうとして隠しきれていないところが、特にな」
「私は隠そうとなんてしてないもん。でも、良く考えれば、似ているのは当たり前ね」
「何故?」
「私だって、サティの妹のようなものだもの。サティの弟と似ているのは当たり前だわ」
 ちょっと誇らしげな千尋の言い分に、ナーサティヤは思わず声を上げて笑った。千尋は頬を赤くして、なんで笑うのよ、とナーサティヤの腕を掴んだが、ナーサティヤは声を殺してころころ笑った。
 血のつながりはおろか、顔を見たことすらないアシュヴィンと千尋が似ていて当たり前など、どうしたらそういう考えが思いつくのかナーサティヤにはさっぱり理解できなかった。しかし千尋のそんな突拍子も無い考えが愛らしく、妹のようなものだなどと可愛いことを言うものだから、鉄面皮と名高いナーサティヤもつい声を上げて笑ってしまった。
 千尋が完全に拗ねてしまう一歩手前で、ナーサティヤは「すまなかった」と、未だ笑いを殺しきれていない目で微笑んだ。機嫌を取るように千尋の髪を撫でてやるが、千尋の頬は可愛らしく膨らんだままだ。
「確かに、似ていて当たり前か。千尋も私の妹のようなものだ」
「そうよ。分かってくれればいいわ」
 そんな千尋に、ナーサティヤはまたひとつ笑い声を落とした。



 土蜘蛛の一族は、術式に長ける。それは治療から始まり、相手を呪う術もあれば、一時的に身体能力を上げる術、身を隠す術まで多彩である。
 そんな土蜘蛛の一族を率いる長であるエイカは、普段は一族の中でも信頼の置ける者に任せている仕事を、今回は自らで行っていた。それは一族の者では危険だからでもあるが、一歩間違えばナーサティヤの密事に関わることであるからであった。ナーサティヤの密事、即ち千尋のことである。
 エイカは古びた小屋で、獣の形に切られた板を前にひとり黙していた。鳥のような形に切られた板には、常世のものでも中つ国のものでもない文字が書いてある。土蜘蛛が使う式神の一種である。
 式の帰還を待つエイカは、気を集中させて板を媒介に式へ気を送っていた。式を使うとき、術者は相当の体力を吸い取られる。その為、土蜘蛛もエイカも式を使うことは好まないが、今回の相手は一筋縄ではいかないらしく、エイカも式を使わざるを得なかったのだ。
「随分、無粋なまねをなさるのですね。あなたはそういう手を好まないと思っていたのに」
 闇から染み出す声に、エイカは振り向いた。窓辺に佇む小さな小鳥は、確かにエイカの放った式であるが、可愛らしい嘴から紡がれる声は、可憐な歌でなく低い男の声であった。
 灰色の翼を広げ、小首を傾げる小鳥を無言のままに睨むと、小鳥はくすくすと笑った。
「直接のお話は望めないようだったので、この小鳥を借りました。非礼をお詫び致します」
「そう言うならば、私の式を返してはくれませんか」
「もう少しだけお借りしたく思います。そうしないと、あなたは私の話を聞いてくれないでしょう?」
 喉を震わせて笑う小鳥に、エイカはいっそ気を送ることを止めて消してしまおうかと思った。しかし逆に考えれば、これは標的である男に、直接その目的を問うことが出来る唯一の間でもある。エイカは忌々しげに黒布を翻して、小鳥から発せられる男の言葉を待った。
 小鳥は姿勢を改めるように首をちょっと伸ばすと、じ、と丸い目でエイカを見た。仕草だけ取れば愛らしいものであるのに、今のエイカには腹立たしくしか思えない。
「改めまして、土蜘蛛の長、エイカ殿。土雷・レヴァンタ様の軍師、柊と申します」
「今更、白々しい。なにが目的ですか?」
「そう急かさず」
「私はあなたほど暇ではないのです」
「これはこれは、痛いところを」
 闇の中に、小鳥のぬばたまの目がきらりと浮かぶ。エイカはいつでも式を消してしまえるよう、土蜘蛛の主だった武器である石の大鎌を、式神の媒介である板に添わせる。エイカが少しでも腕の力を緩めたなら、鋭い大鎌は板を貫き、小鳥の式は煙と消えるだろう。
 小鳥を乗っ取った柊は、そんなエイカの心情をよく知っているのだろう、それ以上はエイカを煽ることをせず、芝居掛かった声を沈めた。
「あなたの主、火雷様へ、是非ともお贈りしたいものがあるのですよ」
「それに対する返答ならば、前にも言ったはずですが」
「きっと役に立つと思いますよ。あなた方の密事に」
「なんのことです」
「こう思っては如何ですか? あなたでなく、火雷様でなく、もう一人の御方への贈り物であると」
「ふふ、土蜘蛛に贈り物を、とでも言うおつもりですか?」
「いいえ、龍の乙女に」
「そんな名は、聞いたことがありませんね」
「強情なお方だ。しかし、私からの贈り物は、すでに届けてあります」
「どういうことです」
「あなたが今から帰ったならば、ちょうど良い頃ではないでしょうか。火雷様にお伝え下さい。柊が、どうぞ殺さないで下さいませ、と哀願していた、と」
 消え行く柊の気に、エイカは待ちなさい、と声を荒げる。しかし、怒号にも似たその声が終る頃には、小鳥はもうただの式神に戻っていた。
 エイカの手に飛び来て、小首を傾げる灰色の小鳥に、エイカはお前は悪くないもの、と苦笑した。仕事を終えた式に、労わるように頬擦りをすると、そのまま大鎌を落として板を叩き割る。それと同時に、式は白く霞んで消えた。
 エイカは術式の後を消すことも忘れ、大鎌を片手に小屋を飛び出した。
 柊は今までも、何かと意味深な言葉を残していく男であったが、今回の「龍の乙女」は明らか過ぎた。龍の乙女、龍神の神子、即ち中つ国の王族である千尋ではないか。エイカは柊の言葉を噛み砕き、ナーサティヤと千尋に何か害があっては、とひたすら歩を早める。
 龍の乙女という言葉が、何か他のものを指しているのならばいい。しかし、エイカはどうしても柊が千尋の生存を知っているとしか思えなかった。それならば、今まで放り投げられたままだった柊の言動に、いくらかの道筋が立つ。
 柊は常世が中つ国侵略を決めた頃から常世側に転んでいたというが、中つ国の姫を抱き、中つ国に舞い戻ろうとしているという可能性もある。ナーサティヤが二ノ姫を匿っていたと公表すれば、ナーサティヤが失脚する恐れだってある。どこから柊がその情報を手に入れたのかは分からないが、今は二人の安全を確認することがなによりの先であった。
(杞憂であればいいのですが)
 その可能性が限りなく低いことを分かっていながら、エイカはそう思わざるを得なかった。