曇天

 那岐は、千尋の暇つぶしの相手役としても、常世の兵としても、よく働いた。那岐の鬼道は常世にはないものであり、戦力としても、敵の術を知るという意味でも貴重だった。那岐自身に満ちる才能と底知れぬ魔力も、常世の雑兵などでは足元にも及ばない。那岐はそう時を重ねないうちに、ナーサティヤの私兵のうち、魔術隊の一小隊を預かる身となった。那岐が常世に降ってから、約二年後のことである。
 戦況は未だ思わしくない。常世の残党は刈りきれていないし、ナーサティヤも遠征で常世を空けることがしばしばある。しかし、以前ほど、眠る間すら惜しいほど忙しいわけではなく、このところのナーサティヤは山ほどの竹簡やら板簡やらを白沙の庭に持ち込んで、千尋の相手をしながらのんびり公務をこなす余裕もあった。
 少女の成長とは早いもので、千尋は幼い面立ちの中にも、少し少女らしさが抜けて、目元が涼やかになった。背丈も伸び、ぐっと娘らしくなった。大きく変わったことといえば、踵に付くのではと思うほど長い髪を切ったことだろうか。ナーサティヤが三日ぶりに白沙の庭を訪れたとき、邪魔だから切ってしまった、と笑顔で言われたときは心臓が止まる思いがしたものだった。那岐が言うには、果実を切る小剣でばっさりと切ってしまったのを、那岐が必死で整えたらしい。肩口に掛かるほどまで短くなってしまった髪に、ナーサティヤは勿体無いとため息を吐いたものだったが、千尋は邪魔だったからいいのよと上機嫌だった。
 半年ほど前から、千尋はナーサティヤに武術を習っていた。少々手狭な白沙の庭の中で、ナーサティヤは護身と嗜みとしてと言って千尋に武器の扱いを教えた。小剣から剣、槍、エイカと那岐には初歩的な術を教わっているが、千尋はそういった類のものは苦手なようだった。その代わりにと言うべきか、武術の上達は中々のもので、特に小剣の扱いに長けた。

 現在、ナーサティヤは常世の地には居ない。中つ国の残党狩りに皇子自らが赴き、鎮静しようというのだ。常世に残された那岐は、暇だつまらないと愚痴を零す千尋につき合わされているところであった。今回の遠征にはエイカまでもが中つ国へ行っている。那岐ひとりに千尋のことを押し付けて行ったかたちだが、それは裏返せば、那岐ひとりに千尋を任せられるとナーサティヤが判断したとも言えた。
 那岐は与えられたナーサティヤ邸の一室で欠伸をすると、面倒そうに着替えて足早に自室を出た。もう着慣れた常世の服は、中つ国の裾や袖のだらだらと長い服よりずっと動きやすく、那岐は気に入っていた。二年も世話になれば侍女たちも慣れてくるようで、ナーサティヤ邸で働く少ない女たちも、那岐を見ては視線を逸らし逃げていくことはなくなった。誰も居ない厨房で、のそのそと千尋と自らの朝食を作り、踵を引きずる特徴的な歩みでのたのたと白沙の庭へ移動する。
 白沙の庭と外界とを隔てる扉は、那岐を拒絶する素振りすらなく開く。途端、遅いわよ、と高い声が響いて、那岐は思わず両の瞼を落とした。仕方ないだろ、と返して目を開けば、随分とご立腹の様子の千尋が腕を組んで待っていた。
「那岐、遅いわ! もう、お腹すいた」
「僕だってそれなりに忙しいんだよ。朝くらい、ゆっくり寝ててもいいじゃないか」
「那岐より忙しいサティやエイカは、もっとしゃんとしてるわよ」
「あいつらと一緒にしないでよ」
「もう、屁理屈ばっかり」
 那岐の持ってきた朝食を見て、那岐の作るものはいつも同じだわ、と大きなため息を吐いた。常ならばエイカが栄養まで考えつくした食べ物を持ってくるのだが、ナーサティヤもエイカも不在の今、那岐の作るもので渋々我慢している、といった様子である。仕方ないだろ、とこちらもため息交じりに言って、ふたりで朝食を味わった。
 片付けをしながら、那岐は窓の外を見る千尋をちらりと見る。憂いを秘めたような空を見る目は、まるで籠の鳥か首輪のついた獣のようで、那岐はちくりと心臓の奥に何かが刺さる心地がした。本来ならば豊葦原の蒼天の下にあの美しい髪と目とを輝かせているはずの千尋を、たとえ本人が姫という立場をすっかり忘れてしまっているとしても、那岐は知っているのだ。千尋はこんな狭い部屋に閉じ込められるべき人ではないと、那岐は足が中つ国にあったときから、ずっとそう思っている。
 口を開いて、空気を吸い込んで、吐き出そうとして、迷った。どう問えばよいのだろうか、那岐自身にも検討がつかない。その答えがどうであれ、那岐が何をするか何を思うかの本質は変わりはしない。ただ、今このときの千尋の答えを、聞いてみたくなった。
「ねぇ、千尋」
「なに?」
「千尋は、外に出てみたいとか、思わないの?」
「え?」
「今は、ナーサティヤもエイカもいない。僕なら、今なら、千尋を外に連れ出せるよ」
 千尋は暫しぽかんと顎を落とすと、短くなった髪を撫でて、そうね、と笑った。その笑みの色を図りかねて、那岐は千尋の深海の双眸をじ、と見つめた。凪いだ色の中に、答えは見つけられそうになかった。千尋がなにも言わないから、那岐は妙に焦ってしまう。
「こんな小さな部屋の中だけで暮らすのは、千尋だって良いことばかりじゃないだろう。だって、あいつらと僕だけしか千尋は知らない。外に何があって、どんな生き物がいて、どんな風が吹くのか、千尋は何一つ知らないだろう。千尋は、外に出たいって思わないの?」
「思わないわけじゃ、ないわ」
「だったら、今なら、自由になれる。僕がなんとかするから」
「いいえ、出ないわ」
「どうして」
「那岐にとってはこんな小さな部屋でも、私にとっては、ここが世界なのよ。サティがいて、エイカがいて、那岐がいてくれれば、あとはなんにも要らないもの」
「でも」
「いいのよ、那岐。だって、私は中つ国の人間なのだもの。サティの知らないところで外に出たら、きっとすぐ殺されてしまうわ。それに私、ここから出たって、行きたい場所なんてないもの」
 私はこのままがいいのよ、と言いきり、視線を落とす那岐にでも、ありがとうと微笑んだ。
 俯き唇を噛む那岐の瑪瑙の目に、宿る光は悔しさだった。二年の月日を重ねようとも、千尋の世界は未だナーサティヤという異国の皇子を中心に構成されていて、那岐に髪の一筋すら入り込む隙を与えない。幾度言葉を交わそうとも、幾度視線を交えようとも、千尋の世界は変わらずにこの小さな部屋ひとつだった。
 もしも千尋が記憶を取り戻したのなら、この世界は崩れてくれるのだろうか。そう思ってみても、自分ごときの力では土蜘蛛の長が掛けた術を解くことなど出来ないと知っていた。いまの千尋が遠い橿原宮での記憶を取り戻したとしても、苦にしかならないことにも那岐は気付いていた。そしてもしも取り戻したとして、千尋が常世を取ってしまうのではないかという恐ろしさもあった。千尋が常世と中つ国のどちらを選んだとて、那岐の選ぶ道は常にひとつであるが、千尋が常世を選んでしまうことは、過去の自分との記憶よりもナーサティヤを取ったようで、これもまた恐ろしかった。
 今日は何を教えてくれるのかしら、と小首を傾げて微笑む千尋に、那岐はふっと唇に笑みを浮かべる。今の千尋が微笑んでいるのならば、那岐の中だけに存在するもしもの話など、塵ほどの意味しかなかった。



 中つ国の豊かな緑の中で、その軍はひどく浮いていた。ぽっかりと空いた赤い穴は緑を食い散らし、戦乱を運ぶ二つの影は長い外套を翻して生臭い風の中に佇んでいた。
 残党狩りは進まず、焼け焦げた地を蹴り飛ばして、ひとつより背の低いひとつがち、と舌打ちした。黒い戦衣服に身を包んだアシュヴィンは、隣で甘えるように鼻を鳴らす黒い獣の角を撫で、お前は良くやってくれた、と苦笑を漏らした。
 隣に立つ、アシュヴィンとは正反対のような白い外套を風にながし、似た赤銅色の髪をかき上げたナーサティヤは、赤く焼けた大地を見て、そこに落ちたどこの誰のものかも知れない右手を放った。  辺りは一面に焼け、中つ国の残党軍の拠点だったのであろう谷の砦は無残にも崩れていた。二人の皇子が引き連れる兵は少なく、その多くはナーサティヤの土蜘蛛で構成されていた。奇襲だったのだ。残党軍の多くが集結している砦だったので、兵の数は千も二千も差があった。無論、残党軍の方に数の利はあった。土蜘蛛の術による遠隔攻撃と、まさに一騎当千とも言うべき二人の皇子の働きにより砦はあっさりと陥落した。しかし、中はもぬけの空だった。
 アシュヴィンが苛々と砦の中をうろつくので、ナーサティヤは呆れを含んだ声で「アシュ」と諌めた。その声に振り返ったアシュヴィンの、不満を無理矢理に詰め込んだような目がナーサティヤを睨む。
「いつまでもそうしていても、終ったものは仕方が無いだろう」
「だが、今回は絶対に仕留められると、俺は思っていたのだ。それがこうもあっさりと逃げられてしまうとは、悔しいじゃないか」
「お前の気持ちは分かるが、今回の遠征は奇襲だけのものだ。追うには、兵も兵糧も足りない」
「……わかっている」
「常世に帰るぞ」
「ああ」
 名残惜しそうに誰のものともしれない焼けた剣を踏み割り、アシュヴィンはひらりと外套を翻した。一歩遅れてそれを追うナーサティヤの新緑の目は、崩れた砦の隙間に見える、恵に満ちた滴る緑を羨むように掠め見た。那岐の目に似ていると思った。
 早く帰ろうと急かすアシュヴィンに歩幅を合わせて、二人の皇子は砦を後にした。焼き尽くされた残骸だけが、まるで今の常世のように佇んでいた。

 中つ国で一夜を明かす常世の野営はしんと静かである。その奥の、ナーサティヤが使う幕にほたりと闇よりなお黒い影が落ちる。ナーサティヤ様、と聞きなれた声に、一言入れとだけ返した。
 見えない顔に、それでも不満が透けて見えるようなエイカにナーサティヤは苦笑まじりにため息を吐いた。笑い事ではありません、とエイカの声は焦りを含んでいた。
「そう心配はいるまい」
「私は納得出来ません。ナーサティヤ様が出られるのならば、せめて私が残るべきでした」
「過ぎたことだ」
「私はどうしても那岐をいう少年を信用出来ません。ナーサティヤ様が何故あれほど重宝なさるのか、理解出来ません」
「あれの世話係にちょうど良いだろう。それ以上は無い」
 ここでは長話も出来ぬだろうと、ふいと目を逸らしたナーサティヤに、エイカはそれ以上ではございませぬかと言ってしまいたかった。しかし、エイカとて家臣として分を弁えているつもりである。声を殺し、申し訳ありませんと、ただそれだけを搾り出した。
 常世を出て早三日、今回は奇襲ということもあり、七日ほどの予定で常世を出立したが、思いの外、帰りは早くなりそうだった。この三日の間、エイカは同じことばかりを繰り返しナーサティヤに訴えていた。千尋を那岐だけに任せるのは心配である、今ならば私が取って返して千尋のところに行く、などと言うから、ナーサティヤは珍しく冗談交じりに、お前の主人は千尋か私か、最近分からなくなってきたなと呆れたほどだった。
 しかし、エイカが案ずるのは当然である。ナーサティヤが可笑しいのだ。二年の月日を置いたとはいえ、中つ国の者をここまで重宝するのが可笑しい。それをそうと思っても、エイカは決して口に出さない。ナーサティヤの考えを深いところで信頼している。今、間違っていると思ったとしても、最後にはそれも正しかったのだと思わせる結果にたどり着く。エイカはそう思い込んでいる節がある。

 ナーサティヤは小さな火に揺れる幕の灰色を見つめ、常より幾らか茫洋とした目にはっきりと光を宿すと、エイカに七年前のことを覚えているかと訪ねた。ええ、勿論で御座います。そう答えたエイカの声は、心なしか暗い。それはエイカの心が悲しみや憎しみに揺らいだというわけではなく、ただ過去に覚えた殺意を懐かしむ心に喉が動いただけだ。
 七年前、常世は黒き太陽の毒に恵を奪われ、中つ国に援助を求めた。一度は繋がれたと思われた絆を、迷うことも無く一方的に断ち切ったのは当時の中つ国の女王だ。黒髪の美しい、瞳も紛れるほど濃い色の目をした女だった。
「中つ国の仕打ち、忘れはしませぬ」
「私もだ」
 火に揺らめく緑の目がエイカを見る。エイカは当時の思いを握り砕くように黒衣の裾を握り、今でも私の鎌でかの首を切り落としてやりたかったと悔いていますと噛み締められた歯の隙間から搾り出した。ナーサティヤはため息のようにふ、と笑うと、お前ごときが私の獲物を頂くなど、とくつくつ喉を鳴らした。しかし実際はナーサティヤも弟に獲物を掠め盗られた身である。彼らしくない、皮肉めいた言葉だった。
 普段は真白い手袋に覆われた手で、金の百合の簪をひとつ取り出すと、エイカに見せるようにひとつ振り、あれが自分の代わりに持っていけと言ったのだと闇に尚明るい百合を撫でた。エイカは可愛らしゅうございますねと微笑み、それをナーサティヤの手に持たせる千尋を思ってくすりと笑った。
 金の百合を額にあて、そのきんとした冷たさを楽しむ。ナーサティヤは少女の柔らかな色とは違った金を見て、ふ、と瞳の色を消した。
「あの女の娘だと、わかってはいるのにな」
「なにか、仰いましたか?」
「いや、なんでもない。お前ももう戻れ。明日は早い」
「はい、夜分に失礼致しました。ごゆるりとお休み下さいませ」
 幕の外、濃藍の空はどんよりと暗く、今にも降ってきそうな雲の迫るような思いがして、エイカは早足に自身の幕へと戻る。夜道を照らす人の目に見えぬものたちに感謝をして、常世では妖しすらも姿を消したと荒廃した祖国を思う。土蜘蛛が遥か昔に生まれた地が中つ国だとしても、エイカを始めとする常世の土蜘蛛たちにとって、生まれ育った常世こそが祖国であった。
 常世は晴れていればいいとなんとなしに思い、エイカは近く常世の土を踏む日を思って眠りに付いた。瞼の闇に浮かぶ、しゃらりと艶やかな残像を残す金の百合に、目を細めたナーサティヤに、一抹の寂しさを今更ながらに感じた。