いつか声になる日

 そのときの私はまだ生まれたばかりで、ただ主の命に従うことだけしか考えが及びませんでした。空を駆け、地を見下ろし、見たこと聞いたことを主の耳に伝えることが私の存在意義でした。
 私の眼に映る人間は等しく醜く、我欲に満ち、慈しみを知らない生き物でした。しかしその中で、私が主に命ぜられたのは、ひとりの人の子を次の月が満ちる日まで観察することでした。
 その人は太陽の光を糸にしたような髪を流し、肌は闇に仄か光を発するように白く、虹を氷の中に閉じ込めたような目をしていました。私はその人を、素直に美しいと感じました。その人の容姿でなく、その人の優しさを美しいと思いました。彼女は人の世の中で、泥中の珠のような存在でした。誰もが彼女を慕っていました。
 私は彼女を見つめているうち、ひとりの青年の存在に気付きました。褐色の肌を持つ青年は、月読という一族の長でした。月読は星や日向と違い、闇に隠れて生きる一族だと聞いていましたが、彼は人の群れの中で、彼女を守るように佇んでいました。彼と共にあるときの彼女は、常にも増して美しく、彼もまた、彼女を深く慈しみ、その肩を抱き寄せる顔は優しげでした。
 三日月の綺麗な夜には、ふたりで宮を抜け出し、丘を駆け上がって月を見ていました。陽射しの暖かい日には森の奥深く、ひっそりと湧き出る泉へ足先をひたしていました。しかしひとりになったとき、彼女は満ちていく月を見上げてはひっそりとため息を落としていました。そのため息の理由は私には分かりませんでしたが、なんとなく、部屋の外に張り付いている護衛の兵のせいなのかと思いました。私の考えは間違っていませんでしたが、そこに潜む感情は、長い間分からないままでした。
 やがて月が満ちるころ、私は主の命に従って、彼女を百合の咲く地へ導くために、地上に降りました。彼女は私の姿を認めると、握っていた勾玉の首飾りを置いて、あなたがお迎えなのかしら、と小首を傾げて微笑みました。彼女が持っていた勾玉に、私は見覚えがありました。数日前、あの青年が彼女に贈ったものでした。翡翠の勾玉は月光に鈍く光り、内包したまじないの力が光を発しているかのようでした。
 彼女は白い指先でゆっくりと勾玉を撫でると、あの人がくれたものだから、置いていくのよと涙の膜が揺れる目を瞬かせました。ほろりと落ちた涙の一粒が勾玉に寄り添い、まるで玉がひとつ増えたようでした。勾玉から指を離し、私の頬を撫でた彼女は、私とあの人との関わりが、勾玉という形でこの国に継がれていってくれればいいのよと、潤んだ声でため息のように言いました。私はなにをすることも出来なく、ただ寄せられた手に頬を擦り付けました。彼女は微笑み、そうね、早く行きましょうと宮を出ました。四六時中彼女に張り付いていた護衛の兵は、今日だけは一人もいませんでした。
 緑を踏みながら、彼女は私の背を撫でました。しなやかな指先の感触は、それまでの私が触れたなのよりも温かいものでした。私と同じ色をしたあなたが、またこの地に降りてくるときが心配だわ。唐突に言うので、私は思わず振り向きました。似た色をした目が揺れていました。彼女が私の身を案ずる理由が私には分かりませんでした。彼女は揺れる目のままに私を見ると、私を見張っていた兵が、今日ばかりはいなかったわ。つまり、そういうこと。私と同じ色をしたあなたが、忌むべきものとして扱われてしまうのではないか、それが心配だわ。そうため息まじりに言って、ごめんね、と眼差しを伏せました。私は何故彼女が謝るのか分かりませんでした。
 私がかの地へ彼女を誘うと、揺れる湖面に主の姿が映りました。白い百合に抱かれた彼女は、やはり美しく微笑んでいました。
 主はよくぞ応えた、私の神子と、感情の見えない声で言いました。彼女は首を振りました。それを追って靡く金の髪が、満ちる月光を吸い込んで綺麗でした。彼女は凛と澄んだふたつの湖面を向けて、主に私の魂は捧げましょう。私の骸は残りますかと問いました。主は首を振りました。彼女は少し眉を寄せて、そうですか、とだけ言いました。
 静寂の中に、月読の君、と小さく染みが落とされました。私はそれがあの青年を示すものだと知っていましたが、何故彼の名を呟いたのかは分かりませんでした。
 やがて彼女の身体が仄かに光を発し、白く空気の中に溶け出しました。湖面の主は消えていました。私はただそれを見ていたのですが、ふと耳に音が飛び込んできました。必死に土を踏む足音は程なくたどり着きました。夜風に黒衣を翻し、青年は彼女の名を叫びました。掠れたそれは歌とはほど遠いものでした。
 彼女を抱き寄せ、泣き出しそうな声で幾度も名前を呼ぶ彼を、私はただ見ていました。彼の腕に抱かれ、微笑んで溶けていく彼女を、私は不思議な心地で見ていました。ふたりが何故、こんなにも涙を堪えているのか、私には理解出来ませんでした。何故彼女が微笑んでいるのかが不思議でした。何故彼が泣きそうなのかが不思議でした。
 彼女は私が知らない名前を呼びました。氷を割ったような声でした。涙がひとつ白い頬を滑って、私はそれが彼の真の名なのだと知りました。彼は彼女の名を呼びました。私には理解出来ない、不思議な響きでした。
 やがて彼女の身体が指の先まで溶けたとき、彼の声が湖面を揺らしました。嗄れてしまうのではないかと思うほど、彼は彼女がいた空虚に涙を注ぎました。慟哭は空を、その上の主を貫くのではないかと思うほど高く響きました。何故喉を嗄らしてまで泣くのか、私にはどうにも分かりませんでしたが、目を離すことは出来ませんでした。
 やがて涙の玉を睫毛に飾った彼が私を見ました。私の姿は主と彼女以外に見ることは出来ないはずでしたが、彼は確かに私を見ました。涼やかな夜の目を吊り上げて、彼は私を見ました。いえ、睨んだという方が正しいかもしれません。彼の目は、彼女を見つめていた目と同じものだとは思えないほどに鋭い刃を孕んでいました。
 お前が龍の使いかと、掠れた声で私に問いました。まだ人の言葉を操ることが出来なかった私は答えることが出来ませんでしたが、彼の中で答えは出ているようでした。彼は術で封じられていた石の大鎌をその手に顕現させると、その切先を私に向けました。私は何故か身動き出来ず、彼の目を見つめていました。彼は最後の涙の一粒を落とすと、吾妹が許容したことだとしても、私は認めない。たとえお前が主人の命を聞いただけだとしても、私がお前を許すことは生涯ない。私は龍とお前を恨み続けるだろうと己の歯を噛み締めて言いました。私は彼が自分に向けている感情が分かりませんでした。しかし、強い思いであるということだけは、当時の私でも分かりました。
 私はそれが怖くなり、主の下へ走って逃げ帰りました。彼の鎌が追って振り下ろされると恐怖しましたが、切先は地へ落ち、その代わりに早く逃げるといい、私の刃が届かないところまでと俯いた声が聞こえました。月が泣いているような声だと、脈絡もなく思いました。私は主に彼が私に寄せた感情について問いました。主は時を重ねれば分かるだろうとだけ言いました。
 彼の行く末は分かりません。月読は豊葦原の地から姿を消しました。絶望するように、栄えていく豊葦原に背を向けました。中つ国に、あのとき彼女が置いていった翡翠の勾玉だけが残されました。


 それから私は死にました。そして、新たな私が、私の記憶を持って生まれました。私は幾度も死に、そして生まれました。そして最後の俺は、あのときの私が向けられていた感情を解すことが出来ました。
 俺が人の地に降りたとき、彼女の言った通りに、俺は人から矢を放たれ、鍬を振りかざして追われました。やはり人の子は醜いと傷を舐めたとき、同じ色をした、幼い彼女が手を差し伸べたのです。彼女によく似た、凛々しい双眸に、金色の髪、白い肌、間違うはずもありません。同じ魂を持つ幼子は、いつしか俺のなにより大切な宝になりました。
 今ならば、彼があのときの私に抱いた感情が、痛いほどに分かる。何故涙を流したのか、何故微笑んだのか、何故声を嗄らして叫んだのか、今なら分かる。あれは愛しいという感情から溢れ出る、深い深い憎しみだったと。
「風早」
「千尋、あなたの築く国を、いつも見守っています。美しい国を、築いてください」
 千尋と遠夜は寄り添って生きていくでしょう。彼女と彼の魂を継ぐ二人は、今度こそ幸せになるのでしょう。俺はその幸せを、遠くから見守ることしか出来ないけれど、また二人の魂を裂く何かがあったときには、俺は真っ先に駆けつける。それが龍だとしても、人だとしても、俺は今度は二人の盾になって守ろう。麒麟として、風早として、俺に悲しみと憎しみを教えた彼のために、俺に喜びと愛しさを教えた千尋のために、ほんの少しの羨望を乗せて。