烈火舞い花散らず

 ほう、と機嫌良い梟が夜の森に鼻歌を口ずさむ。深い闇に地を這うような低音は揺りかごのように陣を包み、やがてぱちりと弾ける篝火が水泡の歌を打ち消した。
 千尋はいよいよ燃え盛る篝火に背を向け、吸い込まれそうな闇を抱き込む木々の隙間をじ、と見た。音を目で追えども、梟の姿は探し出せず、しかし梟はほうとため息にも似た声で歌っていた。

ほっ、ほっ、ほう。

 梟は歌う。猛る篝火の炎にその姿は映し出されることなく、まるで闇そのものが鳴いているような錯覚が千尋の眼の奥を過る。仄明るく照らされた緑の入り口の、その奥に千尋の迷いの答えとなるかの男がいるのなら、千尋は迷わずしんと眠る森に駆け込んだのだろうが、彼はこの静かな森に佇むには激しすぎる炎を胸の内に宿していた。

ほう、ほっ、ほっ、ほっ。

 梟の声は千尋を笑っているかのようにも聞こえて、しかし猛る篝火を眺める気にもなれなくて、千尋はたくさんの篝火によって明るく縁取られた夜空を仰いだ。星々が信号のように明滅する空は澄んでいて、決して屈することない男の眼差しにどこか似ていた。
 ほっ、ほっ、と梟は笑う。何がそんなに楽しいのよ、と千尋は胸の内で問いかけるが、梟はやはり笑うばかりで答えをくれはしなかった。
 背後でぱちりと、一際大きく木が弾けた。はっとして振り返っても、そこには篝火が佇むばかりで、千尋の脳裏に火傷を残した、炎を纏った男の姿はあるはずもない。
 いよいよ迫る城攻めの前夜に敵将を思うのは大将として誉められたものではないが、涼やかな双眸に浮かぶあの色が失われてしまうのを、千尋は酷く惜しいと思ってしまう。将としてあれほどに高潔な者が千尋の配下にはいるだろうか。上に立つ者としてあれほどに民を思う者が千尋の配下にはいるだろうか。人としてあれほどに気高い者が、豊葦原には幾人いるのだろうか。自国に引き込むのは到底無理としても、何とか生かして、これからの常世を支える柱にはなってくれないのか。
(でも、きっと駄目。私に屈するくらいなら、ナーサティヤは絶対に死を選ぶ)
 だからこそ彼は高潔であるのかもしれないが、彼を高潔たらしめる誇りが今、彼の命の灯火を自ら吹き消させようとしている。
 国の為には自らの命すら簡単に切り捨てる、ナーサティヤは良い将ではあるが、良い統治者ではないようだった。国を守る者は、たとえ国を追われようとも、死に勝る辱しめを受けようとも、時には地べたを這って生き延びねばならない。今こそがその時であるというのに、ナーサティヤは一人の将として誇り高い死を選んでしまったようだった。それは千尋などには到底覆すことなど出来なく、彼の弟の声をもってしても折れるものでもないだろう。
 彼は気高い将であり、鋼の決意をその双眸に深く沈め、来るべき瞬間まで地に膝を着くことはないのだろう。千尋はそれを良く理解していた。今の千尋がナーサティヤと同じ場所に立たされたなら、迷わずナーサティアと同じ道を選ぶだろう。良い統治者ではなく、一人の誇り高い武将として、槍が折れ、剣は錆び付き、矢が尽きるまで戦い死ぬことを選ぶ自分を、千尋は容易に想像できた。千尋とナーサティアは敵将同士ながら、それともであるからか、酷く似ていた。
 敬うべき敵方の将を思い悩む千尋を、誰が責められるだろうか。烈火を繰る彼の冷めたように美しい面を思い、千尋はそっと目を瞑った。眠れぬ夜は篝火に焼かれて明けていった。

ほっ、ほっ、ほう。

 梟はやはり笑っていた。


 喚声、鉄を交わす音、血飛沫の舞う、全ての音が今は遠く千尋の背に降り注いだ。対峙したナーサティヤの双眸は、昨夜の千尋の予想と寸分も違わず、鈍色の立ち込めた澄んだ色をしていた。千尋はそれに恥じぬように、凛とした目を真っ直ぐに向け、焼き付けたいようにナーサティヤの鈍色の先を睨んだ。猫のような可愛い目が鏃の鋭さを帯びてナーサティヤを狙う。
 何者も、一言も発しない。作られた静寂の中でナーサティヤの従える炎の欠片が、千尋を威嚇するように弾ぜた。
 一瞬、その眼差しを伏せたナーサティヤの、空気を吸い込む音がやけに大きく響いた。千尋はその仕草に動かぬナーサティヤの巌のような決意を察したのか、千尋も覚悟を決めた。ナーサティヤを打ち倒し、喪う覚悟である。
「やっぱり、戦うんだね」
「お前が退けぬように、私も退かぬ。お前ならば分かっているだろう?」
「うん、でも、あなたの口から聞いてみたかったの」
 千尋は少し笑って、芸術品のような美しい弓に矢を添えた。ナーサティヤは口元に笑みを刻むことすらないものの、その目は柔らかな五月の新緑が萌えていた。
 抜き放たれる白銀の剣の、炎を映した燃える刀身の美しさは、千尋がこれまで見てきた豊葦原のどんな四季より麗しく、千尋は泉の目を細くして有終の美を飾ろうと立つ将を見た。ナーサティヤは千尋がこれまで出会ったどんな人物より、実直で愚かだった。
 常世の焔は勢いを増し、千尋を飲み込んでしまおうと蠢いている。しかしナーサティヤは炎を繰ることはなく、ただ猛る炎の中で静かに剣を手にしていた。
 ナーサティヤはこの時、初めて千尋の前に笑みを見せた。熱に歪む空気の見せた幻影かもしれないが、千尋は初めて、ナーサティヤの唇が微笑みの形を作るのを見た。千尋は泣きそうになる眼を必死に鎮め、同じように微笑んでみせた。
「龍神の神子よ、お前の矢が我が餞となるならば、私はそれも悪くはないと思っている」
「そう、そうね。あなたの為に射るわ。あなたをおくるために、何本でも」
「感謝する。稀に見る強き将、強き王よ。良い国を作れ、千尋」
 千尋の眦に涙は浮かばない。ナーサティヤの炎に乾かされてしまったのか、それとも初めから涙を流さなかったのかは分からないが、千尋はもう泣いていなかった。彼をおくるのに涙は餞別にならないと、そう思い、千尋はただ鋭い矢を贈った。