さよならに愛を

 静かな部屋だった。まるで風も鳥も全てが静止したかのような音の無い部屋で、金の髪を垂らした少女は足元に跪く隻眼の男を見据えて微笑んだ。橿原宮の王の執務室は少女の手に戻り、多くの部下や仲間達とも、幾度も時空の果てで重ねた時間は無くとも、確かな信頼を築きつつあった。
 一度の四季が廻り、その全てを共にした男は不意に少女を訪ねた。来るんじゃないかと思っていたのと微笑み部屋へと招き入れた少女の青い目に、悲壮は欠片も浮かばない。男は少女の顔をじ、と見ると、薄っぺらい笑みに幾許かの熱を乗せて、お別れのご挨拶に参りましたと跪いたのだ。
「きっと来る気がしていたのよ、柊、あなたが」
「ふふ、私の先読みの目までも、我が君に奪われてしまいましたね」
「あら、私、あなたから奪ったものなんてあったかしら?」
「いいえ、我が君。私はいつでも与えられてばかりで御座いました。既存伝承にない未来、我が君に仕える幸福、愛までも捧げることを許して下さった。ただひとつ、私が奪われたものといえば、私の心だけで御座います」
「相変わらずね。でも、そんなところも、好きだったわ」
「身に余るお言葉」
 柊は頭を垂れると、地を見据えたままに暫し黙した。それを見ながら、千尋は悲しいのかしら、と自らの心に問いかけた。しかしその答えは柊の隻眼の中にあるようで、千尋一人では見つけられなかった。
 黎明の双眸をころりと転がして、千尋は柊、と彼の名を呼んだ。はい、と答える声は板の隙間に吸い込まれ、隻眼は伏したまま千尋を捉えることはない。顔を上げて、と言う千尋は、以前と違って凛としている。以前ならば、跪いた柊に視線を合わせるように身をかがめることもあったろうに、王として立つ今の千尋は背筋を伸ばしたまま、視線だけで柊を見下ろす。
 ゆっくりと顔を上げた柊の片目を見据え、艶を含んだ鮮やかな声で柊、と名を呼んだ。はい、と答える声は確かに千尋に向けられ、それに満足したように千尋は頷いた。
 別れを告げに来た、という柊の片目は、言葉に反してひどく熱を篭らせ閉じ込めていた。敬意も愛情も情熱も、全てをごちゃごちゃに混ぜて煮詰めたような熱が柊の目の中に渦を巻いているのを、千尋は小気味よく見ていた。
 以前から、それこそ時空を超えて千尋がこのもう一人の柊に会う前から、そうだったのだ。はじめは千尋が、その眼帯の下に映るものや柊の見るものを知りたくて、必死に追いかけていた。冷めたような背を追って、追い縋って、それでも過去を見つめたまま視線を逸らさない柊をどうにか自分の方に向けさせたかった。しかし次第に、情熱が冷めたわけでもなく、抱いた愛情もそのままに、千尋は柊を理解するようになっていた。柊が過去に抱いた感情やらは千尋は知らないが、それでも、柊が自分を見透かして別のひとりを見ていることは理解できた。冷めるでもなく、ただ、理解した。それは諦めにも似ていた。
 柊はといえば、頑なに千尋を見ようとしなかったにも関わらず、千尋の姿勢に動かされるものでもあったのだろうか、次第に千尋へと目を向けるようになった。それも、千尋が柊を知っていくのと、同じ瞬間を重ねる度に。千尋はそれに気付いたとき、なんと不毛な恋だろうかと嘆きたい心地だったが、そのころには柊を見る目は青く澄んでいた。
(いつもそうね。私はあなたを知るたびに、あなたが灯した熱が冷めていくのに、まるで反比例のように、あなたが私を見る片目は熱を帯びていくのね)
 言葉には出さず、表情にも目にも浮かばせず、千尋はただ美しく微笑んだ。悲しみもなく、恨みもなく、ただお別れなのだと納得だけが胸に落ちた。過去の自分が喉から手が出るほどに欲した熱を灯した隻眼に、千尋は感謝の意を込めて微笑んだ。風早や那岐にも見せない、艶やかな笑みで微笑んだ。
 無言で差し出された右手を、黒い手袋で覆われた柊の手がその唇へと誘う。いつかのように細い小指に口付けて、しかし名残惜しそうに手離した。
「あなたがどこに行くのか、問わないわ」
「はい」
「必ず帰ってきなさいとも、言わない」
「はい」
「あなたが宮を出ることを許します、私の軍師。愛していたわ、柊」
「はい、私も、誰より恋うておりました。私の陛下、我が唯一の君、千尋」
 泣き出しそうな隻眼に、千尋はさよならの口付けを落とした。我が君、と呼んだ声に、もうあなたの主じゃないわと苦笑して、千尋の白い両手は柊の頬を包むのだった。