虹色の釉薬を垂らした白磁を、粉々に砕いて広げたような色をしていた。上も下も、右も左も我も他も分からぬような空間だった。
龍の巣穴とも言うべき懐かしいその場所に、似つかわしくない青い髪が風もないのにさらりと揺れた。風早はやわい笑みを浮かべたまま、目の前に聳える白い鱗の壁に帰還の挨拶を述べた。四神は守りの要として地に帰り、そこには黄金の龍の片割れが、風早と同じ金の眼を開いて自らが産み出した神獣の姿を探しているのみだった。
白龍は風早に姿を借りた白麒麟を認めると、理解できぬと低い声で「人を模す必要はないだろう」と唸る。風早は曖昧に声を転がし、このままが良いのですと、七色の声を捨てた、人の男の声で言った。優しい声は、遥か下界に広がる地を治めるひとりの少女が安心できるのと好んだ、ひどく柔らかな色をしていた。
風早の主であり、親とも言うべき白龍は、僕とも子とも言うべき人の姿をした麒麟に、ため息を吐くように「お前はそれで良いのか」と問う。そこには一縷の情が見え隠れしたが、気付かぬ振りをした風早が「良いのです」と微笑みに乗せて突き返した。
龍の選んだ娘は、龍の望む、争いのない平和な人の国を築こうと走り出した。見守り育てた風早の手から離れ、血が滲むほどに握り締めていた弓と矢を投げ捨て、空いた両の手で、彼女が恋う青年のさして広くない背を抱き締めるために駆け出した。それをほんの少しだけ後押しして、風早は天へと舞い戻った。龍がその分厚い瞼を落とす間際、麒麟に残した幾つもの役目の、最後のひとつを果たすために。
龍は貴い魂を継ぐ娘がどのような道を選び、辿り、その先がどのような形であったとしても、神子たる娘の運命として、またその魂を巡らせてしまおうと考えていた。遥か彼方の記憶の隅に浮かぶ、自らに全てを捧げて助力を乞うた娘のように。その為に遣わせた麒麟であったのに、何故だか麒麟はそれだけで天へと昇った。傍らにあるべきはずの、神の娘を地に残して。
「命を破ったお前が、どうなるのだか分かっているのだろう」
「はい。しかし、俺に千尋を連れてくることは出来ません。罰ならば甘んじてお受け致す覚悟です」
風早の同じ色をした黄金の双眸に、宿る強さのそれが人の子のそれと同じだと、龍は気付いた。やがて優しげに緩められるそれもまた、一度は見捨てた矮小な人の子らの、微かに光るそれとひどく似ていた。
この獣はいつの間にこのような目をするようになったのかと、龍は自ら視界に闇を被せた幾ばくかの月日を思ったが、神たる龍には、瞬きの間ほどの時間の中に麒麟を風早に変えたほどの価値は見い出せなかった。しかしその瞬きほどの間が、確かに龍の僕に意思を与え、情を与え、風早という別のものへと変えてしまったのだ。
龍は四指の前肢をゆるく折ると、本来ならばそこに握られるべき乳白色の玉がないことを知らしめた。風早は変わらず微笑んでいた。
「お前は最早、我が獣ではない。ならばまた、我らの中に戻るがいい」
「白龍、俺が消えた後、千尋はどうするのですか」
「あれもまた、お前と同様に最早我らの神子ではない」
「なら、良かった」
ころりと瞳を転がして、とろけるような白い笑みを浮かべた風早は、安堵で滲んだ眦をそのままにほぅと息をひとつ吐く。消えることになんの迷いもないのだなと、白龍は地上の小さな娘に囁いた。麒麟の主はいつの間にか龍でなく、瞬きを生きる一人の娘になっていた。それは可愛がっていた猫が誰かに飼われてしまったような、そんな感覚を龍の固い鱗に染み込ませた。
せめて苦しみ無くと最後の慈悲に爪を振れば、白く崩れかけた風早が音にもならない声で「白龍」と呼んだ。見る間に崩れ消えた風早の跡に、ころんと龍の鱗と同色の、小さな真昼の満月が転がった。龍の玉だった。
白龍は風早だった、麒麟だった玉を鋭い爪の雄々しい前肢で握ると、仄かに温もりの残る玉をじ、と見た。陶器のような龍の目が、僅か感情にゆらめく。
「それほど神子が恋しいならば、地に帰るがよい」
ぱっと爪と爪との間が開き、落ちていく玉は空間に留まることなく、虹の白の中に溶けて消えた。龍は描かれる既存伝承の一部を書き換えると、玉の落ちる先を見ることもなかった。
「おや」
妖しの棲むと言われる森のただ中で、長旅にくたびれた外套に身を包み、隻眼の男は手を伸ばした。中空に漂う白い玉はまるで彼の来訪を待つかのように佇み、伸ばされた手の中にすとんと落ちた。
両手に少々余る、鈍く明滅する玉を手に、柊は「これが龍の玉ですか」と思わず息を飲んだ。龍の玉は柊の想像を遥かに越えて、虹を含んだ柔らかな白にゆらめいていた。
天を見上げ、さてどうしているのか想像も付かない龍の丸い目を思い浮かべ、柊は苦く笑む。玉は枷のように重かった。
「我ら星見の一族に、このような重責まで課すのですか、龍神よ」
我が君の為ならば、なんら問題はありませんが。そう呟き、柊は輝かしい宮とは正反対の、森の奥地へと歩みだす。その手に握られた玉の姿を知らぬまま、再び星が神子の姿を映すまでと、星の一族は身を隠した。
遠く幾百の後に、龍の玉が新たな神子を告げるまで、玉はたゆたう涙の色にてらてらと光る。