月恋ふる夜

 「遠夜」と幾千の鈴が鳴るような涼やかで愛らしい声が自らを呼ぶのを、遠夜はまるで極上の歌でも聞くような心地で聞いた。どんな歌よりも、どんな楽器よりも、名前を呼ぶ千尋の声はあまやかに遠夜の耳に響く。
 暗い夜の中でも月光を反射して輝く淡色の髪は蝶の様に艶やかで、遠夜は思わず見惚れてしまう。しかし、この国でも常世の国でも、同じ色など決して見るから無いであろう龍に愛された金の髪は、あくまでも千尋を飾る要因のひとつでしかない。外面の美しさなど遠夜には大した問題ではない。遠夜が千尋に見惚れてしまうのは、千尋が千尋であるからだ。
 千尋はほたほたと可愛い足音を響かせて駆け寄ると、その勢いを殺さないまま、悪戯っ子のように遠夜の広い背にとびつくと、回した腕にめいっぱい力を込めてぎゅうっと抱きしめる。腰に回された手の甲を愛おしそうに撫で、遠夜は困ったように眉を八の字に寄せて、しかし口元はゆるく弧を描いて笑っている。その表情は遠夜が見せるどんな表情よりも柔軟で、太陽を見守る月のように柔らかで、温かだ。
「神子、苦しい」
「遠夜の嘘つき、そんなに柔じゃないくせに」
「神子は何でもお見通しだな。本当は、苦しくない」
「ほら、やっぱり。ぼーっとして何を見ていたの?」
 遠夜はぴっと人差し指を立てると、鮮やかな墨色の空を指した。薄色の睫毛に縁取られた大きな目は変わらずに腰から覗き見える千尋を見つめている。千尋は遠夜の指差したその方向を目で追う。弓なりの三日月が空を仄かに蒼く暈し、細い光で遠夜の髪を照らしていた。
 星々を導き、豊葦原の大地を見つめ、冴え冴えと輝く蒼い月は遠夜の振るう大鎌の刃のように鋭利に輝き、しかしそれは千尋にはひどく安堵感を覚える温かい色合いに見えた。
 千尋は猫のようなつり気味の目を数度瞬かせ、真昼の蒼天を玉にしたような目に漆黒の幕のような空を映した。その混ざり合った色に、白い星屑が添えられて、その色が遠夜には実際の夜空よりも美しく見えた。
「月を見ていたの?」
「ああ。月はいつも、オレを導くから。神子を見守るから」
 大きな目を細めて微笑む遠夜に千尋は暫し見惚れてしまう。三日月が輝く夜空を背景に微笑む遠夜はどんな秀逸な絵画も敵わぬほど美麗だ。元々の整った顔立ちもあるが、訥々と言葉を紡ぐときの遠夜の表情が、千尋はとても好きだった。瞬きの間すら惜しく思ってしまうほど、見つめていたいと思うときすらあった。
 月の光はまるで遠夜のようだ、と千尋は思う。太陽のように全てを明るく照らすのではなく、闇をも内包した優しい光。ほんわりと綿雪のように、全てを柔らかく包んでくれるような慈愛を感じるのだ。闇まで照らすのではなく、闇まで受け入れてくれるような光だ。
 遙か昔、千尋が神の愛娘であった時、遠夜が月を知る一族であった時のような絶対的な信頼と安心を、遠く時代隔てた今でも変わらない月光が届けてくれるような気がしている。千尋の世界の始まりは遠夜で、遠夜の世界の全ては千尋であった。それを、その時見守っていた月が、今の二人も見届けてくれている。
「私を見守ってくれてるのは、月じゃなくて、いつも遠夜だったわ。遠夜はまるで月みたい」
「月……オレが?」
「うん、遠夜は月だわ。綺麗で優しくて、いつも私を守ってくれる」
 千尋はほんのりと染まった頬を、遠夜の目から隠したいようにぺたりと遠夜の背につけ「遠夜は私の月よ」と笑った。照れてちょっと上擦ってしまった声が、更に気恥ずかしくて、千尋は顔から火が出る思いがした。
 遠夜はきょと、と大きな目を更に見開き、ぱしぱしと長い睫毛を震わせて瞬きをした。月のようと言われた遠夜は、さてならば自分にとっての神子とは、と考える。しかしその答えは案外早く出た。すとんと胸に落ちる、その答え。
「なら神子は、オレの空だ」
「え?」
「神子はオレの空。綺麗で、くるくる変わって、でも、変わらない。ずっと大切な、オレの空だ」
 予想外の切り返しに、千尋は顔を上げて遠夜の背中を見上げる。言われた意味を飲み込んだ瞬間、元々朱に染まっていた頬が更に、かぁっと鬼灯のように熟れていくのを感じた。俯いて遠夜の背に顔を埋めると、囁くように小さな声で「ずるいよ」と溢した。
 それきり黙ってしまう千尋に遠夜は少々困惑した様子で「神子?」と千尋を呼んだ。
「……遠夜はずるいわ。私だって、遠夜がずっと大切なのに」
「そうか、嬉しい、神子」
 遠夜の背中にぴったりとくっついたまま、千尋は瞼を落とした。遠夜の声はいつでも揺らぐことがなくまっすぐに響くから、千尋は遠夜の声を聞くと不思議と落ち着いてしまって、いつでもその声を聞いていたいと思う。閉ざされた瞼の中の闇で、耳にひたと染み込み遠夜の「神子」と呼ぶ声はじんわりと千尋の青い双眸に吸い込まれ、喉を通って心臓に温かい雫を落とす。
 「もう少し、こうしててもいい?」と呟く声に、遠夜は無言で頷き千尋の手を撫でた。
 空に包まれた月が幸福そうに微笑んでいた。