泣き顔も愛しくて

 二度と泣かないで、とは、短い生の終幕に思う言葉として、なんと我儘なものなのだろうか。彼女はそう自らを笑い、一粒流れるそれを白魚の指先で掬った。感覚の消え行く体に涙の温度はなんだか無償に温かく、指を伝い落ちる感覚に僅か瞼を落とした。
 花弁を散らすように、とは些か美化しすぎているかもしれないが、彼女の体は確かに春風に乗って桜の散るかのように空間に溶け、木々の隙間に消えていく。それに彼女を抱きとめる彼が「吾妹」と歌えば、愛しい響きに彼女の意識はとろけるように浮上する。その響きは彼女に自分が「神より創り出されし愛し子」ではなく、ただの「女」なのだと告げる、何にも代えがたい、彼にだけ許したただひとつのものだった。その愛しい響きのままに、いつかに深い森で聞いた低く響く歌う声で、叫ぶように「吾妹」と彼は呼んだ。微笑みで応え、喉を鳴らす。普段は決して呼ばぬ名で、彼を呼んだ。彼はちっとも嬉しそうではなかった。
「背の君」
「吾妹」
「あら、いつものように、笑ってはくれないのですか? 私があなたを背の君と呼ぶと、あなたはいつも嬉しそうに笑って下さったのに」
「今、笑えというのか? 吾妹は時々、残酷だ」
「ふふ、これが性分ですから」
 彼女は笑い、彼は泣いた。涙の粒は彼女の纏う光を映して金色に色付き、彼女の髪飾りのようだった。浅黒い頬を撫で、僅かに目を伏せて、彼女はその声の溶けてしまう前にと言葉を探した。彼に残す言葉は綺麗なものでなくてはならないと思っていた。彼女が生きた短い世界の間で、最も美しいと思った彼に残す言葉は、並び立つとまではいかないにしろ、その足の爪先に乗って謙遜ないくらいには美しくなければと思っていた。しかし彼女の茫洋とした意識の中に浮かぶのはたったひとつで、困ってしまった。
 消えるのではないと言いたかった。彼が安らぎを覚えた場所に、いつでも自分はいるのだと言いたかった。世界に溶け、龍に還り、傍にいるのだと残して綺麗に消えていきたかった。しかし彼の言葉で神子からただの女になってしまった彼女は、綺麗に消えていくことが出来なかった。どうしても、彼を縛る最後の我儘を言ってしまいたかった。
 彼女は両手で彼の頬を包み、彼の真名を呼んだ。一族を継いだときに名を捨てたという彼に、彼女が新しく与えた真名だった。その名で呼ばれた彼は大きく眼を見開き、またぼろぼろと泣いた。名は彼女が彼に贈った唯一の形あるものだった。彼女が彼に与えたものは、形に残るにはひどく少なく、彼の存在の目一杯でなければ受け止めきれないほどに大きな、透明な何かだった。
「泣かないで、下さい」
「無理な願いだ」
「いいえ、今は、泣いて下さい。でも、私が消えたなら、あなただけは二度と泣かないで下さい。そうしたなら、あなたの涙とその顔は、私だけのものです」
 彼は大きく一度頷いて、唇を弧の形にした。微笑みというには歪だった。
「吾妹の居ない世に、私の心を動かすものが、ひとつでもあろうか」
「ああ、月読の君。我が背の君。私も、あなたがいるからこそ」
 神の贄にもなろう、と言おうとして、止めた。言えば別離の苦に泣いてしまうと思った。綺麗な言葉を残せなかったのならば、せめてその眼に、最も美しい姿を焼き付けてほしいと思ったのだ。見たこともないはずの人々までもが神の如くと口々に褒め称えた、龍の鱗の白より尚美しい肌の色を、空と海の狭間より与えられた青い双眸を、はらりと風に舞った一筋ですら触れるのも躊躇われると謳われた金の髪を、その中で最も美しいと言われた、彼への想いだけで成り立つ微笑みを。
 消えていく世界の中で、彼が彼女を呼ぶ声だけが、霧の向こうから聞こえるように彼女の鼓膜を揺らす。ほたほたと耳を濡らすその叫びだけが、彼女がまだ彼女という存在であることを示していた。しかしそれも、長くはないのだ。
 彼が叫ぶ名の中に、懐かしい響きが混じる。彼女が神子として起った際に捨ててしまった、彼女の真名がひとつ響いた。なにより深く、長く、遠くと意味する、彼女の名だった。
 それに彼女はほろりと一粒、涙を落とした。彼女は泣いたつもりはなかったが、腕の中で消えていく彼女を見ていた彼の目には、確かに一粒の涙が映った。
「私の、私だけの背の君、約束ですよ」
「私があなたとの約束を、破ったことがあっただろうか?」
「あなたはいつも、そうでしたね。そんなところを、私はお慕いしていました」
「私もだ。あなたのそういうところに、焦がれていた」
 長い金の睫毛に薄く涙を飾り、彼女は春を見つけた幼子のように笑った。凍りつくような美しさの奥に封じられた、今や彼だけが知る、彼女の本質の一部だった。
「あなたの涙は、私のもの」
 一粒の涙と共に、彼女は彼の腕から消えた。残された彼は空虚を抱きしめ、静寂に夜を歌う梟のような声で「あなたの涙も、私のものだ」と染みを落とした。